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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第37話「直行」

2001年10月9日。火曜日。本所。佐伯誠一事務所。午後3時。


航は、デスクに3枚の紙を並べた。


1枚目。ティー・エス・プランニングの商業登記簿。設立時監査役:及川誠。


2枚目。ハニーポットのアクセスログ。9月22日午後11時42分。接続元IP:210.XXX.XXX.XXX。本郷三丁目。第二春日ビル。


3枚目。神崎が作成したコーディング指紋の比較表。ネクストウェーブのサーバーコードと、第二春日ビル302号室のサーバーコード。一致率97.2%。残りの2.8%に、山下健一の命名規則。


佐伯は、3枚を順に読んだ。


いつもの読み方。端から端まで。


航は、黙って待った。


佐伯が、煙草に火をつけた。


「……お前はこれで、何がしたいんだ」


「及川誠がLだと特定して、止めたい」


「止める、か」


佐伯は、煙を吐いた。


「鳴海。お前がここに持ってきた紙は3枚だ。だが、お前が積み上げてきたものは3枚じゃない」


航は、黙って聞いた。


「VO。reprompt.com。消防署の是正計画書。ハニーポット。全部、お前が自分の手で動かしてきた。半年かけて」


佐伯は、登記簿を指で弾いた。


「これ以上、紙を積んでも同じだ。官報を洗おうが、建築台帳を取ろうが、出てくるのは同じ名前だ。及川誠。お前はもう知っている」


航は、佐伯を見た。


「じゃあ——」


「会いに行け」


佐伯の声は、静かだった。


「もう十分だ。書類は揃った。あとは、相手の顔を見て、声を聞いて、判断しろ。書類で読めないことは、人間を見ないとわからない」


航の胸が、一瞬だけ詰まった。


佐伯が、煙草を灰皿に押しつけた。


「ただし、条件がある」


「何ですか」


「一人で行くな。誰かを連れて行け」


「神崎を——」


「神崎じゃない。あいつは技術者だ。技術者を連れて行くと、技術の話になる。技術の話では及川は逃げる」


「じゃあ、誰を」


佐伯は、航を見た。


「お前が信頼できる人間で、及川が警戒しない人間。——中学生を連れて行け」


「中学生?」


「お前は14歳だ。14歳が一人でオフィスビルに乗り込んだら、追い返される。だが、二人なら——見学に来た学生に見える」


航は、黙った。


中学生。14歳。航が連れて行ける14歳の人間。


佐藤健太——ありえない。巻き込めない。


矢島。


先週の土曜日、図書館で会った第二中の3年。小説を書いている。航の「大人の手つき」を見抜いた、あの目。


「……一人、心当たりがあります」


「どんな奴だ」


「別の中学の3年です。頭が切れる。観察力がある」


「信頼できるか」


「わかりません。会ったのは一度だけです」


佐伯は、煙草の箱を手に取り、もう一本取り出した。


「なら、まず信頼できるか確認しろ。その上で連れて行け」


「はい」


「それと、もう一つ」


「何ですか」


「会いに行く時、登記簿は持っていくな」


「え?」


「書類を見せた瞬間、相手は構える。お前が何を知っているか、全部バレる。会いに行く目的は、及川の顔を見ることだ。声を聞くことだ。——書類は、そのあとで使え」


航は、佐伯の茶を飲んだ。


苦かった。いつもと同じ苦さ。


「佐伯さん」


「なんだ」


「『直接会いに行け』って言うの、意外でした」


佐伯は、少しだけ眉を上げた。


「なぜだ」


「佐伯さんはいつも『書類で殴れ』って言うから」


「書類で殴れるのは、相手が書類の世界にいる時だけだ。及川って男は、書類の世界からはみ出してる。はみ出した奴を捕まえるには、足を使うしかない」


佐伯は、窓の外を見た。本所の午後。古いビルの隙間から、秋の空が覗いている。


「鳴海。お前はこの半年で、俺の教えたことを全部使った。行政手続条例で消防署を黙らせた。登記簿でLの城を特定した。ハニーポットでIPを確定した。——全部、紙とデータの仕事だ」


佐伯は、航を見た。


「だが、最後に残るのは人間だ。紙の向こうにいる人間を見に行け。それが、調査の最後の1枚だ」


---


2001年10月13日。土曜日。三郷市立図書館。午前10時。


航は、閲覧席に座っていた。


目的は矢島だった。


先週、矢島は「毎週土曜日ここにいる」と言った。


10時15分。矢島が来た。


リュックサックを背負って、いつもの席に座った。リュックから原稿用紙とペンケースを出す。ペンケースから、シャープペンシルと消しゴムを出す。


消しゴムを机に置いた時、かすかに匂いが漂った。ゴムの匂い。


矢島は、航に気づいた。


「あ、鳴海くん。また来たんだ」


「ああ」


「今日も住宅地図?」


「いや。今日は——お前に用がある」


矢島が、少し驚いた顔をした。


「僕に?」


航は、矢島の隣の席に座った。


「矢島。来週の平日、一日空けられるか」


「……急だな。何かあるの」


「本郷に行きたい。文京区の本郷三丁目。あるビルを見に行く」


「ビル?」


「IT企業が入ってるビルだ。見学がしたい。一人だと怪しまれるから、二人で行きたい」


矢島は、航を見た。


あの目だ。測っている目。何かを計算している目。


「鳴海くん」


「ん」


「それ、ただの見学じゃないよね」


航は、矢島を見返した。


嘘をつくか。本当のことを言うか。


佐伯の声が頭の中で鳴る。「信頼できるか確認しろ」。


「ただの見学じゃない」


航は、正直に言った。


「ネットで俺に嫌がらせをしてくる奴がいる。そいつの会社が本郷にある。顔を見に行きたい。だが、一人で行くと怪しまれる」


矢島は、しばらく黙っていた。


「……嫌がらせって、どんな」


「俺のサイトを攻撃してくる。サーバーに負荷をかけて落とそうとしたり、行政機関に嘘の通報をしたり」


「それ、犯罪じゃないの」


「たぶん」


「警察には」


「行けない事情がある」


矢島は、原稿用紙の上に置いたシャープペンシルを、指で回した。


くるくる。くるくる。


「面白いね」


「面白い?」


「うん。鳴海くんの話、小説みたいだ」


航は、少しだけ笑った。


「来てくれるか」


矢島は、ペンを止めた。


「一つ、条件がある」


「何だ」


「帰りに、その話を詳しく聞かせて。——小説のネタにしたいから」


航は、3秒間、矢島を見た。


小説のネタ。この中学生は、航の事情を「物語の素材」として捉えている。善意でもなく、正義感でもなく——作家の好奇心。


「いいよ」


「じゃあ、行く」


矢島が、笑った。


「そういえば、下の名前聞いてなかった」


「カイ。矢島カイ」


「カイ」


航は、その名前を頭に刻んだ。


---


2001年10月17日。水曜日。文京区本郷三丁目。午後2時。


学校を早退した。


航と矢島は、本郷三丁目の路地を歩いていた。


10月の東京。空は高く、空気は乾いていた。銀杏の葉が、歩道に散らばっている。


「この辺り、大学が近いんだね」


矢島が、周囲を見回しながら言った。東大の赤門が、通りの向こうに見えている。


「ああ。東大の本郷キャンパス」


「鳴海くん、詳しいね」


「調べた」


第二春日ビルが見えてきた。


4階建。古いオフィスビル。1階に不動産屋。2階以上はテナント。玄関先にテナント案内の看板がある。


「302 山下システム開発」


航の目が、止まった。


前に来た時は、ここに「ネクストウェーブ」と書いてあった。看板が変わっている。


ハニーポットを踏んでから、まだ1ヶ月も経っていない。もう動いている。名前を変え始めている。


急がなければならない。


矢島が、ビルを見上げた。


「ここ?」


「ここだ」


航は、深呼吸した。


佐伯の言葉を思い出す。「書類を見せるな。顔を見ろ。声を聞け」。


「矢島。俺たちは職業体験の事前調査で来た中学生だ。IT企業の仕事を見学させてもらえないか聞きに来た」


「嘘だね」


「嘘だ。やれるか」


矢島は、ビルの入り口を見た。


「……やれるよ。嘘をつくのは、小説を書くのと同じだから」


航は、ビルに入った。


狭いエントランス。メールボックスが並んでいる。エレベーターはない。階段を上がる。


3階。廊下。蛍光灯が一本切れている。


302号室の前。


ドアに、小さなプレート。


「山下システム開発」


航は、ドアをノックした。


3回。


10秒。


返事がない。


もう3回。


ドアの向こうから、椅子が動く音。足音。


ドアが、開いた。


男が立っていた。


30代後半。痩せている。目の下に隈がある。無精髭。ヨレヨレのポロシャツ。ジーンズ。


「……何」


声が低い。疲れた声だ。


「すみません。僕たち、中学生なんですが——」


航が話し始めた。


「学校の職業体験の事前調査で、IT企業の仕事について聞かせていただけないかと思って来ました」


男——山下健一は、航と矢島を見た。


「……中学生?」


「はい。三郷の皐月中学校の3年です。プログラミングに興味があって」


山下は、ドアの隙間から部屋の中をちらりと見た。


「……今、忙しいんだけど」


「5分だけでいいんです」


山下は、3秒ほど航を見た。


それから、ドアを少し広く開けた。


「5分だけな」


---


302号室。


狭かった。


6畳ほどのワンルーム。窓際にデスクが2つ。1つにはモニターが3台並んでいる。もう1つは空だった。


サーバーラック。小型のラックに、2Uのサーバーが2台。ファンの音が回っている。航の耳には、その音の周波数が聞こえた。Ultra 60とは違う。もっと軽い音。


部屋の隅にカップ麺の空き容器が積まれている。灰皿。煙草の匂い。コーヒーの匂い。


山下は、デスクの椅子に座った。航と矢島には、折りたたみのパイプ椅子を出した。


「で、何が聞きたいの」


「プログラミングのお仕事について教えてください。どんな言語を使っていますか」


航は、中学生の質問をした。


山下は、面倒くさそうに答えた。


「CとJava。あと、Perl」


「どんなシステムを作っているんですか」


「……企業向けのWebシステム。受託開発」


嘘だ。


航には、わかった。3台のモニターに映っているのは、受託開発のIDEではない。ターミナルが3つ開いている。SSHの接続先が見える。航の目は、一瞬でそれを読んだ。


このサーバーは、どこかと常時接続している。


航は、山下の手を見た。


キーボードの横に置かれた手。爪が短い。タイピングの癖がある人間の手だ。右手の小指に、わずかなタコがある。Enterキーを小指で叩く人間の癖。


神崎が分析した「コーディング指紋」が、この手から生まれた。


航は、部屋をもう一度見た。


デスクの端に、名刺入れがある。名刺が数枚、散らばっている。


その中に、1枚だけ違う名刺が見えた。


白い名刺。ロゴなし。文字だけ。


航の目が、0.3秒でそれを読んだ。


「及川誠」


住所は——読めなかった。山下の手が名刺の上に置かれた。


「……あんまり見ないでくれる?」


山下の声が、少しだけ硬くなった。


「すみません」


航は、目を逸らした。


矢島が、横から口を開いた。


「あの、山下さん。このお仕事、楽しいですか」


山下が、矢島を見た。


「……楽しい?」


「はい。プログラミングって、楽しいですか」


山下は、しばらく矢島を見つめていた。


「……楽しくはないな」


「じゃあ、なんでやってるんですか」


山下の表情が、一瞬だけ変わった。


苦しそうな顔だった。


「……頼まれてるんだよ。やめられない」


「誰に?」


山下が、口を閉じた。


「5分、過ぎたな。帰ってくれ」


航と矢島は、302号室を出た。


---


ビルの外。本郷三丁目の路地。午後2時半。


航は、歩きながらF503iSをカチリと開いた。


「アイリス」


『はい、マスター』


「302号室。サーバーラックに2Uが2台。モニター3台。SSHの接続先が見えた。あの部屋は、受託開発の事務所じゃない」


『記録しました』


「それと——名刺入れの中に、及川誠の名刺があった」


『……確認です。及川誠の名刺を、山下健一のデスクで目視したということですか』


「ああ。白い名刺。ロゴなし。名前だけ」


『これで、山下と及川の物理的な接点が確定しました』


航は、F503iSを閉じた。


矢島が、隣を歩いていた。


「鳴海くん」


「ん」


「あの人、怖かったね」


「怖い?」


「怖いっていうか——追い詰められてる顔だった。『頼まれてる。やめられない』って。あれ、嘘じゃないよ。本当に苦しそうだった」


航は、矢島を見た。


矢島の目は、山下の表情を正確に読んでいた。


「……矢島。お前、人の顔を読むのがうまいな」


「小説書いてるから。人の顔は、登場人物の顔だよ。書くために見てる」


航は、少しだけ笑った。


「約束通り、帰りに話を聞かせてよ」


「ああ」


二人は、本郷三丁目の駅に向かって歩いた。


銀杏の葉が、歩道に散らばっている。10月の風が、学ランの襟を揺らした。


航の頭の中では、山下の顔が繰り返し再生されていた。


「頼まれてる。やめられない」。


山下健一は、Lではない。


Lに使われている。


及川誠。白い名刺。名前だけ。


Lは、山下の部屋に名刺を残していた。自分の存在を、物理的に刻んでいた。


デジタルの影が、また一つ、紙の上に落ちた。


航はF503iSをカチリと閉じた。


及川誠の顔は、まだ見ていない。


だが、もうすぐだ。

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