第36話「隣人」
2001年10月5日。金曜日。三郷市立皐月中学校。3年2組。
担任の小林が、紙を配っていた。
「第2回進路希望調査票だ。来週の金曜までに提出。今度は真面目に書けよ」
航は、調査票を受け取った。
第1志望。第2志望。第3志望。保護者の意見。
航は、迷わなかった。
第1志望の欄に、書いた。
「埼玉県立三郷工業技術高等学校 情報技術科」
ペンを置いた。
隣の席から、佐藤健太が覗き込んだ。
「……鳴海。お前、浦和行けるって先生に言ったんだろ」
「言った」
「なんで三工技なんだよ」
「近いから」
「近いって——浦和行ける偏差値あるのに、近いからって理由で工業行くか?」
航は、佐藤を見た。
39歳のSEとして、航は知っている。偏差値の高い学校に行くことと、自分に必要な技術を身につけることは、別の話だ。県立浦和に行けば、3年間、受験勉強をすることになる。航にはその時間がいらない。
三郷工業技術の情報技術科なら、サーバーに触れる。プログラミングの実習がある。旋盤やCADもある。手を動かせる。
そして何より、三郷から出なくていい。マギ・ハブからの距離が近い。
「近いんだよ」
航は、それだけ言った。
佐藤は、3秒ほど航を見つめて、それから笑った。
「お前って、ほんとわかんねえな」
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2001年10月6日。土曜日。三郷市立図書館。午前10時。
航は、2階の参考資料コーナーにいた。
目的は2つ。
1つ目。ゼンリンの住宅地図。文京区本郷三丁目。ティー・エス・プランニングの第二春日ビルの周辺を確認する。登記簿でビルの所有者と法人の役員は掴んだ。次は、物理的な周辺環境だ。隣のビルは何か。向かいの道路は何か。駐車場はあるか。監視カメラはあるか。
2つ目。新聞縮刷版。1999年3月。テクノウェーブの破産に関する記事がないか。日経新聞か朝日新聞の経済面に、小さな記事でもあれば。
住宅地図は重い。B4判の分厚い冊子を、閲覧机に広げた。文京区本郷のページを開く。
第二春日ビル。4階建。両隣はマンションと駐車場。通りに面している。裏手は路地。路地の先に、小さな公園がある。
航は、メモを取った。F503iSではなく、紙とペン。図書館では携帯を使わない。
「……」
ペンが止まった。
視界の端に、誰かがいた。
閲覧席の窓際。航から3つ離れた席に、中学生が座っていた。
制服ではなかった。私服。だがランドセルではないリュックサックと、年齢から見て中学生だろう。
その中学生は、原稿用紙に向かっていた。
原稿用紙。2001年の図書館で、手書きの原稿用紙に向かっている中学生。
航は、一瞬だけ目を止めて、すぐに住宅地図に戻った。
新聞縮刷版に移った。1999年3月。日経新聞。
テクノウェーブの名前はなかった。中小のIT企業の破産は、1999年には珍しくなかった。記事になるほどの規模ではなかったのだろう。
朝日新聞。なし。読売新聞。なし。
航は、縮刷版を棚に戻した。
戻る途中、また目に入った。
原稿用紙の中学生。
今度は、手が止まっていた。ペンを持ったまま、窓の外を見ている。
航は、その横を通り過ぎた。
通り過ぎる瞬間、原稿用紙が見えた。升目の半分くらいが、細かい字で埋まっていた。
小説だ。
航は、自分の席に戻った。
住宅地図のメモを整理して、鞄に入れた。
帰ろうとした。
「あの」
声をかけられた。
振り返ると、原稿用紙の中学生が、航の席の横に立っていた。
線が細い。背は航より少し低い。髪が長めで、目が大きい。そして、手にペンを握ったままだった。
「何」
「その地図、文京区の住宅地図ですよね」
航は、鞄を見た。ゼンリンの住宅地図のメモが、少しだけはみ出ていた。
「……ああ」
「中学生で住宅地図を読む人、初めて見ました」
航は、相手を見た。
目が合った。中学生の目だ。だが、観察している目だった。好奇心ではなく、もっと正確な——何かを測っている目。
「調べ物だ」
「社会科の宿題ですか」
「違う」
航は、それ以上答えなかった。
中学生は、少しだけ首を傾げた。
「僕は矢島です。第二中の3年。……あなたは」
「鳴海。皐月中の3年」
「鳴海さん」
矢島は、航を見つめた。
3秒。5秒。
航は、その視線の長さに、少しだけ違和感を覚えた。中学生が中学生を見る時間ではない。もっと長い。何かを読み取ろうとしている。
「何か用か」
「いえ、ごめんなさい。ただ——」
矢島は、言葉を選んでいるようだった。
「鳴海さん、文字を書く時の姿勢がきれいだなと思って。メモを取る手つきが、大人みたいだったので」
航は、無表情を保った。
39歳の癖が出ていた。ペンの持ち方、メモの取り方、ページのめくり方。全部が、14歳ではなく39歳の動作だった。
「ありがとう」
航は、鞄を持って立ち上がった。
「じゃあ」
「あ、鳴海さん」
矢島が、もう一度呼び止めた。
「何」
「僕、毎週土曜日ここにいます。小説を書いてるんです」
「……そうか」
「もしよかったら、また」
航は、頷いた。頷いただけだった。
図書館を出た。
10月の空。高くて、薄い。TXの工事フェンスが、午前中の日差しで白く光っている。
F503iSをカチリと開いた。
「アイリス」
『はい、マスター』
「矢島。三郷市立第二中学校の3年。覚えておけ」
『了解しました。何か問題がありましたか』
「いや」
航は、歩き始めた。
問題はない。
ただ、あの中学生の目が気になった。
「メモを取る手つきが、大人みたいだった」。
航は、2年間、この身体で生きてきた。39歳の癖を隠してきた。佐伯の前でも、神崎の前でも、佐藤の前でも。誰にも気づかれなかった。
あの中学生は、図書館の閲覧席から、数分間見ただけで気づいた。
作家の目だ。
航は、F503iSをカチリと閉じた。
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午後1時。マギ・ハブ。
航は、サーバールームに入った。
神崎がいた。
「おかえり。図書館で何か見つけたか」
「住宅地図を確認した。第二春日ビルの周辺環境。隣がマンション、裏手が路地。監視カメラは——確認できなかった」
「登記簿の続きは」
「新聞にはテクノウェーブの記事はなかった。規模が小さすぎる」
航は、デスクに座った。
住宅地図のメモを広げた。
「神崎。ティー・エス・プランニングの現在のテナント構成を確認したい。302号室が『山下システム開発』。他の階に誰がいるか」
「NTTのタウンページで調べるか?」
「それでいい。あと、佐伯さんに電話する」
航は、F503iSをカチリと開いた。
2コール。
「鳴海か」
「はい。登記簿の件で、次の手を相談したいんですが」
「来い。月曜の午後なら空いてる」
「わかりました」
電話を切った。
神崎が、タウンページをめくっている。
「鳴海。第二春日ビルのテナント、タウンページには302の山下システム開発しか載ってないぞ。他の階は——」
「空きか、載せてないか」
「だろうな。小さいビルだ」
航は、メモに「302号室のみ確認」と書き加えた。
サーバールームは静かだった。Ultra 60のファンの音。10月の午後。
航は、窓の外を見た。
図書館での、あの中学生のことを考えていた。
矢島。第二中の3年。原稿用紙に小説を書いている。毎週土曜日、図書館にいる。
「メモを取る手つきが、大人みたいだった」。
あの一言が、まだ頭に残っている。
佐藤健太は2年間、航の隣にいて何も気づかなかった。担任の小林も気づかなかった。神崎ですら、航の「中学生らしくなさ」をただの頭の良さだと思っている。
矢島は、数分で気づいた。
航は、右のポケットのF501iに触れた。温かい筐体。10KBの檻。
「アイリス」
「はい、マスター」
「俺の動作に、39歳の癖が出てるか」
「キーボード入力の速度と正確性は、14歳の標準値を大幅に上回っています。また、書類を読む際の視線移動パターンが、実務経験者のそれと一致しています」
「……それだけか」
「メモを取る際のペンの持ち方が、中学生の標準的な持ち方と異なります。筆圧が安定しすぎています」
航は、自分のペンの持ち方を見た。
39歳のセキュリティエンジニアが、27年間かけて身につけた持ち方。
「……直す」
「推奨します。学校生活における擬態の精度を向上させるために」
航は、少しだけ笑った。
作家に見抜かれた。佐伯でも神崎でもなく、図書館で原稿用紙に向かっていた中学生に。
面白い奴がいるものだ。
航は、住宅地図のメモに目を落とした。
及川誠。ティー・エス・プランニング。第二春日ビル302号室。
月曜日、佐伯に会う。取ったデータで何をするか。その相談だ。
航はF503iSをカチリと閉じた。
10月が始まっていた。




