第35話「登記」
2001年9月25日。火曜日。三郷。マギ・ハブ。午前7時。
航は、昨夜のアクセスログをもう一度見ていた。
210.XXX.XXX.XXX。本郷三丁目。滞在12分48秒。ダミーリンク2つ、クリック済み。
IPアドレスが確定した。だが、IPアドレスだけでは何もできない。
デジタルの住所は、消える。サーバーを移せば終わりだ。プロバイダを変えれば終わりだ。Lがハニーポットに気づいたなら——気づいているだろう——もう動き始めているかもしれない。
今のうちに、消せないものを掴む必要がある。
航は、F503iSをカチリと開いた。
佐伯に電話した。朝の7時。早いのは承知している。
2コール。
「……朝に電話してくるな」
「すみません。相談があります」
「手短にしろ」
「ハニーポットでIPアドレスを取りました。本郷三丁目のビルです。このビルの登記簿を取りたい」
佐伯の沈黙。3秒。煙草に火をつける音。
「不動産登記か商業登記か」
「両方です。ビルの所有者と、テナントの法人情報。両方いります」
「法務局だな。不動産は管轄の東京法務局本局。商業登記も同じだ。九段下」
「はい」
「登記簿は誰でも取れる。身分証もいらない。印紙代だけだ」
「知っています」
「なら聞くな」
「……佐伯さん。登記簿を取った後、何を見ればいいですか」
佐伯が、少しだけ間を置いた。
「全部だ。所有者の名前。取得年月日。抵当権の設定。差押えの有無。共同担保。それから、商業登記なら設立年月日、役員の就任と退任の日付。全部の日付を並べろ。日付は嘘をつかない」
「わかりました」
「それと、鳴海」
「はい」
「登記簿を取ることは合法だ。公開情報だからな。だが、取った情報で何をするかは——」
「相談します」
「……ああ」
電話が切れた。
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2001年9月25日。午後1時。九段下。東京法務局本局。
航は、学校を早退していた。
担任の小林には「体調不良」と伝えた。佐藤健太が「大丈夫か?」と心配してくれた。「大丈夫。明日には戻る」と答えた。
九段下の法務局。古いビルの中に、書類の匂いが充満している。インクと紙とカビの入り混じった、独特の空気。
窓口には、司法書士事務所の補助者や不動産業者が列を作っている。スーツ姿の大人たちの中に、学ランの中学生が一人。
場違いだった。
だが、航は臆さなかった。39歳の頭の中には、この窓口の使い方が刻まれている。
請求用紙を取り、ボールペンで記入した。
不動産登記簿。所在:文京区本郷三丁目XX番地。家屋番号。地番。
1通1,000円の登記印紙を貼る。
窓口に出した。
「……お兄ちゃん、学校の宿題?」
窓口の女性が、微笑みながら聞いた。
「はい。社会科の調べ学習です」
嘘だった。だが、法務局で登記簿を取るのに理由はいらない。
15分待った。
登記簿謄本が出てきた。
航は、待合室の椅子に座り、登記簿を広げた。
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不動産登記簿。文京区本郷三丁目XX番地。第二春日ビル。
表題部。構造:鉄筋コンクリート造4階建。
権利部(甲区)。所有権。
所有者:有限会社ティー・エス・プランニング。
航は、この名前をメモした。
ティー・エス・プランニング。聞いたことのない名前だ。個人名ではなく法人名。
権利部(乙区)。抵当権。
抵当権設定。債権額2,800万円。債務者:有限会社ティー・エス・プランニング。抵当権者:X信用金庫。設定日:平成11年4月15日。
1999年4月。テクノウェーブが破産手続を終結させたのは1999年3月。その翌月に、このビルに抵当権が設定されている。
航は、次の請求用紙を取った。
商業登記簿。商号:有限会社ティー・エス・プランニング。
もう1通、1,000円の印紙。
15分待った。
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商業登記簿。有限会社ティー・エス・プランニング。
設立年月日:平成11年3月25日。
テクノウェーブの破産手続終結の5日後。
本店所在地:文京区本郷三丁目XX番地(第二春日ビル)。
目的:情報処理サービス業、ソフトウェアの開発及び販売、インターネット関連事業、不動産の賃貸及び管理、前各号に附帯する一切の業務。
役員。
取締役 山下健一。就任 平成11年3月25日。
取締役 白石隆。就任 平成11年3月25日。退任 平成12年6月30日。
航の指が止まった。
白石隆。テクノウェーブの共同創業者。及川誠と共にテクノウェーブを立ち上げた男。
白石がティー・エス・プランニングの設立時の役員に入っている。そして1年3ヶ月で退任している。
つまり、テクノウェーブが潰れた直後に、白石と山下が一緒に新しい法人を作った。白石はすぐに抜けた。山下だけが残った。
だが、もう一人いるはずだ。
航は、登記簿の続きを読んだ。
監査役 及川誠。就任 平成11年3月25日。
あった。
及川誠。テクノウェーブの共同創業者。Lの最有力候補。
設立時の監査役として名前が入っている。監査役は代表権がない。表に出ない。だが、設立時の構成員として、この法人の中にいる。
航は、登記簿のコピーをじっと見つめた。
ティー・エス・プランニング。T.S.P。
T——テクノウェーブ?
S——白石?
P——プロメテウス?
いや、考えすぎかもしれない。だが、この法人は明らかにテクノウェーブの残滓だ。破産の5日後に、同じ人間たちが作った箱。
山下健一のコードが動くサーバーは、このビルにある。LがアクセスしたIPアドレスは、このビルだ。そしてこのビルの所有者であるティー・エス・プランニングの設立時メンバーに、及川誠がいる。
全部が繋がった。
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午後3時。九段下の法務局を出た。
航は、本郷に向かわなかった。
今日は、ここまでだ。
登記簿のコピーをカバンに入れて、九段下の駅に向かった。靖国通りを歩く。秋の風が、学ランの襟を揺らしていた。
F503iSが震えた。
iモードメール。差出人:非通知。
『Admin。ハニーポットは見事だった。210.XXX……君が僕の城まで辿り着いたのは認めよう。だが、山下は影だ。影を切っても、僕は消えない。次の一手を楽しみにしている』
航は、画面を見つめた。
L_contact_007。
Lは、ハニーポットを踏んだことに気づいていた。自分のIPが記録されたことを知った上で、余裕を見せている。
山下を切り捨てる準備ができている。サーバーを捨てれば、IPアドレスの証拠は消える。
だが、航の手元には登記簿がある。
登記簿は消せない。法務局に原本がある。サーバーと違って、移動できない。削除もできない。国が保管している。
Lはデジタルの城を捨てられる。だが、ティー・エス・プランニングの登記は消せない。及川誠の名前は、そこに刻まれたままだ。
航は、返信しなかった。
F503iSをカチリと閉じた。
影の先に、光がある。
及川誠。テクノウェーブの共同創業者。ティー・エス・プランニングの監査役。
航は、その名前を頭の中で繰り返した。
登記簿は嘘をつかない。
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午後5時。三郷。マギ・ハブ。
航は、サーバールームに戻った。
登記簿のコピーをデスクに広げた。神崎が覗き込んだ。
「……何だこれ」
「ティー・エス・プランニングの登記簿。Lのサーバーが入っているビルの所有者だ」
「ビルの所有者? IPアドレスからビルの持ち主まで辿ったのか」
「法務局で登記簿を取っただけだ。誰でもできる」
「誰でもはやらねえよ……」
神崎が、登記簿の役員欄を見た。
「山下健一。白石隆。及川誠。……テクノウェーブの連中じゃないか」
「ああ。破産の5日後に作った法人だ。山下が代表。白石は1年で抜けた。及川は監査役」
「監査役……表に出ない役職だな」
「そういう男だ」
神崎が、登記簿をもう一度見た。
「Lがサーバーを捨てたら、IPの証拠は消える。でも、これは——」
「消えない。法務局に原本がある。サーバーは移せるが、登記は移せない」
サーバールームが、静かになった。
Ultra 60のファンの音。9月の終わりの、涼しくなり始めた空気。
神崎が、航を見た。
「鳴海。お前、これ——佐伯さんに習ったのか」
「何を」
「登記簿で人を追う方法」
航は、少しだけ笑った。
「佐伯さんは、書類は嘘をつかないと言った。——IPアドレスは嘘をつく。でも、登記簿は嘘をつかない」
神崎は、何も言わなかった。
航は、F503iSをカチリと閉じた。
及川誠。ティー・エス・プランニング。監査役。本郷三丁目。
デジタルの影を追いかけてきた半年間。その決着は、紙の上にあった。




