第33話「境界線」
2001年9月3日。月曜日。三郷市立皐月中学校。午前9時。
2学期が始まった。
体育館。始業式。校長の話が長い。壇上のマイクがハウリングを起こすたびに、隣の佐藤健太が顔をしかめた。
「なげーよ」
「ああ」
体育館は蒸していた。9月の頭はまだ夏だ。制服の襟が首に張り付く。窓の外では蝉が鳴いている。ツクツクボウシ。夏の終わりを告げる蝉。
始業式が終わり、教室に戻った。3年2組。
佐藤が、航の机に寄りかかった。
「夏休みどうだった」
「まあまあ」
「お前いっつも『まあまあ』だな。俺は中体連の地区大会で負けて引退。引退したら急に暇になって、残りの2週間ずっとゲームしてた」
「何の」
「ファイナルファンタジー10。めちゃくちゃ面白かった」
「いいじゃん」
佐藤は笑った。日焼けが少し落ちて、顔が白くなっている。野球部を引退した佐藤は、少しだけ痩せていた。
「鳴海、進路どうすんの」
「まだ考えてる」
「俺、春日部共栄。野球推薦もらえるかもって話があって」
「いいじゃん。もらえるよ」
「なんでわかるんだよ」
航は、笑った。
教室の喧騒。誰かがジャンプの話をしている。誰かが携帯のストラップを見せ合っている。窓の外では、校庭で1年生が体育をやっている。
中3の2学期。受験。進路。三者面談。
やることが多い。マギ・ハブではLの追跡。消防署の是正計画書の進捗管理。ネクストウェーブの97.2%。神崎の解析。VOの月間収益。山本電器のホームページ。
全部、同時に回さなければならない。
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2時間目と3時間目の間の休み時間。担任の小林が、航を廊下に呼び出した。
「鳴海、進路希望調査票、まだ出してないだろ」
「すみません」
「中3の2学期だぞ。そろそろ真面目に考えろ。お前の成績なら——」
「県立浦和か大宮あたりで考えています」
小林が、少し驚いた顔をした。
「……浦和は厳しくないか? 模試の偏差値——」
「次の北辰テストで結果を出します」
航は、平坦な声で言った。
県立浦和の合格ラインは北辰で偏差値71。航の現在の成績は63前後。だが、39歳の航には高校受験の全科目の出題傾向が記憶にある。偏差値を8上げるのは、3ヶ月あれば十分だった。
小林は何か言いかけたが、航の目を見て、口を閉じた。
「……わかった。北辰テスト、期待してるぞ」
「はい」
教室に戻ると、佐藤が購買のパンを持って待っていた。
「おー鳴海。焼きそばパン買っといたぞ。120円な」
「ありがとう」
航は、焼きそばパンを受け取った。
コッペパンの中に、冷めた焼きそば。ソースの匂い。一口、噛んだ。
ソースの味。パンの甘さ。普通の味。普通の昼休み。
2学期が始まって、航は忙しかった。頭の中はLのことでいっぱいだった。本郷三丁目の公衆電話。テクノウェーブ旧本社から徒歩2分。白石隆の行方。及川誠の正体。山下健一の技術的出自。
追いかけるものが多すぎて、他のことを考える余裕がなかった。
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2001年9月5日。水曜日。放課後。
航は、三郷駅前の商店街を歩いていた。
マギ・ハブに帰る途中、いつもは通らない道を選んだ。山本電器の前を通りかかったからだ。
古い商店街。シャッターが半分降りている。八百屋。クリーニング店。たばこ屋。2001年の三郷は、まだこういう店が残っている。
山本電器の店先に、店主の山本さんが立っていた。白髪混じりの頭、丸い眼鏡。くたびれた作業着。
「お、鳴海くんじゃないか」
1999年の暮れ。Y2K問題でレジが動かないと騒いでいた山本さんの店を訪ねて、50万の詐欺を見抜いた。あれ以来、顔を合わせると声をかけてくれる。
「こんにちは、山本さん」
「大きくなったなあ。中3だろ。受験か」
「はい」
「頑張れよ。——あ、そうだ鳴海くん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何ですか」
「うちもそろそろホームページを作りたいんだよ。インターネットで注文を受けたいってさ、息子が言うんだ。でも業者に頼んだら50万って言われて」
航は、少し笑った。
また50万だ。
「僕がやりましょうか」
山本さんが、目を丸くした。
「お前、できるのか」
「できます。簡単なものでよければ、お金はいりません」
「いいのか。ほんとに」
「はい。来週の水曜以降でいいですか」
マギ・ハブに帰る道。TXの工事フェンスが、夕日でオレンジ色に染まっていた。
忙しい。学校。VO。L。消防署。山本電器。全部、同時に回っている。
充実していた。
充実しすぎていた。
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2001年9月7日。金曜日。本所。佐伯誠一事務所。
「防火管理者の選任届は、木村の名前で来週中に出します」
航は、報告した。
「消防署は」
「是正計画書を出してから、何もありません」
「当然だ」
佐伯は短く言った。それ以上、消防署の話に興味はないようだった。計画書を出した時点で終わった話だ。
佐伯は、煙草を吸った。いつもの事務所。いつもの煙。いつもの佐伯。
航に茶を出した。
熱かった。苦かった。
「それと、ネクストウェーブのログ解析の件ですが、神崎が山下健一のコーディングのクセを——」
「鳴海」
佐伯が、遮った。
「お前、最近、顔色がいいな」
「え?」
「先月は顔色が悪かった。今は、逆だ。忙しいのが性に合ってるんだろう」
航は、少し笑った。
「……かもしれません」
「だが、忙しい奴は足元が見えなくなる。走ってる時ほど、前しか見ない」
佐伯は、煙を吐いた。
「たまには、止まって横を見ろ」
「横、ですか」
「ああ。追いかけてるものだけが世界じゃない」
航は、茶を飲んだ。苦かった。
佐伯の言葉は、いつも少しだけ遅れて効く。
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2001年9月11日。火曜日。三郷市立皐月中学校。
普通の日だった。
1時間目は数学。2時間目は英語。3時間目は体育。4時間目は社会。
昼休み。佐藤と焼きそばパンを食べた。
5時間目は理科。6時間目は国語。
放課後。
航は、マギ・ハブに向かって歩いていた。
頭の中では、山本電器のホームページの構成を考えていた。HTMLのテンプレート。商品写真の撮り方。注文フォーム。2001年のWebデザインなら、テーブルレイアウトで十分だ。来週の水曜日までに——
マギ・ハブに着いたのは午後4時半。そこからVOのログ確認、ボットの稼働調整、神崎とネクストウェーブの解析の進捗を確認。いつもの放課後。いつものルーティン。
夕食はコンビニの弁当だった。神崎と二人で食べた。味は覚えていない。
午後10時を過ぎた頃だった。
神崎が、テレビをつけた。
マギ・ハブの1階には、木村が持ち込んだ古い14インチのテレビがある。普段は誰も見ない。NHKの受信料を払うのが嫌だと木村が言ったから、アンテナすら繋いでいなかった。
今日は、神崎が繋いでいた。「なんかネットが重い」と言いながら、ニュースを確認しようとしたのだ。
画面に映っているのは——
「……おい、鳴海。なんだこれ」
神崎の声が、サーバールームの奥まで届いた。
航は、椅子から立ち上がってテレビの前に行った。
神崎の顔が白かった。
「ニューヨークだ」
航は、テレビの画面を見た。
煙。
巨大なビルから、黒い煙が噴き出している。
画面の下にテロップが流れている。NHKのニュース速報。
「ニューヨーク世界貿易センタービルに航空機が衝突」
航は、テレビの前に立ったまま、動けなかった。
テレビの映像が、脳に流れ込んでくる。
ワールドトレードセンター。北棟。穴が開いている。黒煙が、マンハッタンの青い空に向かって立ち上っている。
2001年9月11日。
航の中で、何かが崩れた。
目を逸らしていた。
Lを追いかけていた。消防署と戦っていた。F503iSを手に入れた。佐伯に行政手続条例を教わった。山本電器のホームページを作ろうとしていた。焼きそばパンを食べていた。北辰テストの偏差値を計算していた。
その全部を言い訳にして、9月11日から——目を逸らしていた。
知っていたはずだ。39歳の記憶の中に、この日のことは刻まれている。2001年9月11日。午後10時46分(日本時間)。アメリカン航空11便。北棟。
知っていた。
8月31日の夜、カレンダーの9月を見つめた時、わかっていた。
だが「自分には止められない」と、そこで思考を止めた。止められないなら考えても仕方ない。そう言い聞かせて、翌日から山本電器のホームページのことを考えていた。
「おい、鳴海。2機目——2機目が——」
神崎の声が、遠い。
テレビの画面の中で、2機目の旅客機が南棟に突っ込んだ。
爆発。火の玉。鉄骨と窓ガラスが吹き飛ぶ。カメラが揺れる。アナウンサーの声が途切れる。
航は、立ったまま、動けなかった。
知っていた。
この映像を、39歳の時に何度も見た。ドキュメンタリーで。追悼番組で。セキュリティの研修で。何度も。何度も。
だから「知っていた」。
なのに——
なのに、映像で見るのは初めてだった。リアルタイムで。
知識として知っていることと、目の前で人が死んでいくことは、全く違う。
Lなんか追いかけている場合じゃなかった。
消防署の是正計画書なんか書いている場合じゃなかった。
山本電器のホームページなんか——
いや。
航は、拳を握った。
違う。
山本電器のホームページは正しかった。佐伯に教わったことは正しかった。佐藤健太に焼きそばパンを買ってもらったことも、神崎と冷やし中華を食べたことも、全部——
全部、正しかった。
間違っていたのは、「止められないから仕方ない」と、そこで考えるのをやめたことだ。
テレビの画面では、南棟が崩壊した。
巨大な粉塵が、マンハッタンの街路を飲み込んでいく。逃げ惑う人々。叫び声。サイレン。
3,000人が死ぬ。
航は、それを知っていた。
知っていたのに、何もしなかった。何もできなかった。
できなかった——のか?
本当に?
FBIに匿名で通報する方法は、39歳の航なら知っている。英語も書ける。暗号化された通信経路も構築できる。「2001年9月11日、ボストン発AA11便とUA175便がハイジャックされ、WTCに突入する」。その一文を、8月中に送ることは——
技術的には、可能だった。
やらなかった。
思いつかなかったのではない。考えることを避けた。Lの追跡と、VOの収益と、消防署の是正計画書を言い訳にして、9月11日から——目を逸らし続けていた。
39歳の記憶を持って1999年に戻った。
「この世界のプロンプトを再定義する」と、あの日、アイリスと誓った。
なのに2年間、何をやっていた。
RMTで金を稼いだ。サーバーを増やした。Lという謎の敵を追いかけた。佐伯に弟子入りした。法律を学んだ。行政を黙らせた。
全部、自分の城の中の話だ。
世界のプロンプトを書き換えるどころか、自分の半径5メートルのプロンプトしか書いていなかった。
「鳴海——おい、鳴海!」
神崎の声で、我に返った。
「……ああ」
「お前、大丈夫か。顔、真っ青だぞ」
「大丈夫だ」
大丈夫じゃない。
航は、椅子に座った。
テレビからは、繰り返しWTCの映像が流れている。CNN。BBC。NHK。全チャンネルが同じ映像を映している。
「マスター」
アイリスの声が、スピーカーから響いた。
「ニューヨーク証券取引所が閉鎖されました。再開時期は未定です。VOへの直接的な影響はありませんが、為替市場に大きな変動が予測されます」
航は、答えなかった。
「マスター。バイタルに異常が——」
「黙れ」
アイリスが、黙った。
サーバールームが静かになった。テレビの音だけが残った。
航は、自分の手を見た。
震えていた。
怒りだ。
誰に対してか。テロリストか。アメリカか。世界か。
違う。
自分に対してだ。
39歳の記憶を持って戻ってきて、2年間、何をやっていた。Lの正体? VOの月間収益? 消防署の行政手続条例?
そんなものは、全部——
いや。
航は、深呼吸した。
全部、必要だった。
佐伯の教え。アイリスの進化。神崎の技術。VOの資金。マギ・ハブという城。山本さんとの繋がり。
全部が、航の「足場」だ。
足場がなければ、世界のプロンプトは書き換えられない。
だが、足場を作ることに夢中になって、何のために足場を作っているのかから目を逸らしていた。
それが、航の罪だった。
テレビでは、北棟が崩壊した。
巨大なビルが、自重で潰れていく。ゆっくりと。嘘のようにゆっくりと。
3,000人。
航は、モニターに向き直った。
「アイリス」
「……はい、マスター」
「この2年間の全データを出せ。VOの収益、人脈、技術資産、法務知識、通信インフラ——全部だ」
「了解しました。目的を教えてください」
航は、テレビを見た。粉塵の中を歩く消防士の姿が映っていた。
「棚卸しだ。俺たちが今、何を持っていて、何が足りないか。全部洗い出す」
「それは、何のためですか」
航は、F503iSをカチリと開いた。
「世界のプロンプトを書き換えるためだ。——最初に、お前と約束しただろう」
アイリスの応答に、0.5秒の間があった。
「……はい。1999年8月31日。あなたはそう言いました」
「2年かかった。足場を作るのに2年。遅すぎた。だが——」
航は、F503iSをカチリと閉じた。
「——ここからだ」
テレビでは、まだ粉塵が舞っていた。
マンハッタンの空が、灰色に染まっている。
航は、モニターに向かった。
焼きそばパンの味も、佐伯の苦い茶の味も、ショートケーキの安っぽい甘さも——全部、この瞬間のためにあった。
2001年9月11日。
世界が壊れた日に、鳴海航は思い出した。
自分が、何のためにここにいるのかを。




