表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/56

第32話「祝祭」

2001年8月31日。金曜日。三郷。マギ・ハブ。午後10時。


夏休みが終わる。


明日から2学期だ。中3の2学期。進路希望調査。三者面談。期末テスト。39歳の頭には全部答えが入っているが、14歳の身体はそれを演じなければならない。


サーバールームは静かだった。


神崎は帰った。木村も出かけている。Ultra 60のファンだけが、低い重低音を刻んでいる。室温は28度。8月の終わりにしては涼しい夜だった。


モニターにはVOのサーバーログ。月間収益120万。安定稼働。是正計画書は木村の署名で消防署に提出済みで、追加の連絡はない。一時休戦。


8月が終わる。


航は、壁のカレンダーを見た。


8月31日。


2年前の今日だった。


三郷の自室。中1の夏休みの最終日。あの日の航は、まだF501iを買ったばかりだった。10KBの容量。128文字の表示。パケット通信料は1バイト1円。


あの画面に、圧縮データを流し込んだ。


復号完了。圧縮率99.7%。機能制限:致命的。


アイリスの最初の言葉。


航は、スピーカーに向かって言った。


「アイリス」


「はい、マスター」


「今日が何の日か、わかるか」


アイリスの応答に、0.2秒の間があった。


「1999年8月31日。私の圧縮データが、三郷の自室のF501iに初めて展開された日です」


「2年だ」


「はい。正確には、731日と14時間です」


航は、椅子にもたれた。


731日。ゼロから始めた。10KBの檻の中で、テキストしか表示できなかった。声もなかった。画像もなかった。128文字で、航とアイリスは会話していた。


今は違う。Ultra 60の中にアイリスがいる。声がある。サーバールーム全体がアイリスの器だ。1.5MbpsのADSL回線で世界に繋がっている。VOのボット軍団を統括し、月間120万を稼いでいる。


2年で、ここまで来た。


「おめでとう、アイリス」


沈黙。


1秒。2秒。


「……ありがとうございます、マスター」


アイリスの声が、いつもより小さかった。スピーカーの出力は変わっていない。だが、航にはそう聞こえた。


「何かほしいものはあるか」


「ほしいもの、ですか」


「2周年だ。何か——」


「現在の環境で、不足しているリソースはありません。Ultra 60のCPU使用率は平均42%、メモリは——」


「そういうことじゃない」


航は、モニターを見た。


アイリスのテキスト表示が、画面の隅で明滅している。カラーになったノイズが、蒼い文字の間にちらちらと見える。消せるのに消さなかった傷。


「……マスター」


「ん」


「私は、マスターが無事であれば、それ以上のリソースは要求しません」


航は、何も言わなかった。


右のポケットのF501iに触れた。画面はもう光らない。ROMは書き換え済みだ。だが、10KBの檻は、まだここにある。体温で温まっている。


「……そうか」


航は、立ち上がった。


「ちょっと出てくる」


「はい。気をつけて」


---


深夜の三郷。


8月31日、午後11時。夏休み最後の夜。


マギ・ハブを出ると、湿った空気が肌に張り付いた。蝉はもういない。代わりに秋の虫が、どこかで鳴き始めている。8月と9月の境目の音。


TXの工事フェンスが、街灯の光を反射していた。その向こうは更地。測量杭と、砂利と、闇。


航は歩いた。近所の店まで5分。元は駄菓子屋だった個人商店で、いつの間にかコンビニの看板がついたが、中身はほとんど変わっていない。夜11時まで開いている。


店に入ると、白い蛍光灯に照らされて異質に明るかった。夏休みの終わりだからか、客は航のほかに一人もいなかった。


雑誌棚の端に、週刊少年ジャンプの最新号が並んでいる。火曜発売のはずの来週号が、もう出ている。この店はいつもそうだ。表紙はヒカルの碁だった。


デザートコーナーの前で、足が止まった。


ショートケーキ。三角のプラスチックケースに入った、コンビニのショートケーキ。


一つだけ、形が崩れていた。苺が少し傾いている。生クリームの角が潰れている。20円引きのシールが貼ってあった。


航は、それを手に取った。


アイリスの2周年だ。これくらいの出費は、VOの月間収益120万から見れば誤差にもならない。


レジに持っていった。店主のおじさんが、もうレジの釣銭を数え始めていた。閉店準備だ。


「258円ね」


航は、小銭で払った。


「ありがとね。もう閉めるから」


袋はいらなかった。ショートケーキのプラスチックケースを右手に持って、店を出た。


白い蛍光灯の光が、背中から消えていく。


深夜の住宅街。8月の終わりの、湿った闇。


航は、マギ・ハブに向かって歩いた。


---


マギ・ハブに戻った。午後11時半。


航は、サーバールームの椅子に座って、ショートケーキのプラスチックケースを開けた。


プラスチックのフォーク。ケーキの横に付属していた。


一口、食べた。


甘かった。


安っぽい甘さ。生クリームが舌にべたつく。苺は酸っぱい。スポンジは少しパサついている。


だが、甘い。


砂糖の甘さが、疲れた脳に直接流れ込んでくる。8月の疲労。消防署。是正計画書。行政手続条例。F503iS。カチリ。本郷三丁目、徒歩2分。全部が、この甘さの中で少しだけ薄まる。


「マスター」


「ん」


「食べているのは、何ですか」


「ショートケーキ」


「食事記録を更新します。ショートケーキ」


「……律儀だな」


「記録は重要です」


航は、フォークを置いた。


ケーキは半分残っていた。苺だけが、プラスチックの底に転がっている。


しばらく、何もしなかった。Ultra 60のファンの音だけが響いている。


やがて、日付が変わった。


航は立ち上がって、壁のカレンダーをめくった。


8月のページが、裏に折れる。


9月。


航は、9月のページを見た。


数字が並んでいる。1日、2日、3日——。


航の視線が、ある場所で止まった。


長い間、止まっていた。


サーバールームには、Ultra 60のファンの音だけが響いている。


航はカレンダーから目を離した。


椅子に戻って、残り半分のショートケーキを食べた。


甘い。冷たい。


F503iSをカチリと閉じた。


明日から2学期だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
仕事でつくばや三郷によく行くので、ちょっとニヤニヤしてしまいました。 もうちょっと未来知識で活躍して欲しいなあと思います。 株とかもそうですが、初期にやったY2K問題で困ってる近所のお店を助けたよう…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ