第32話「祝祭」
2001年8月31日。金曜日。三郷。マギ・ハブ。午後10時。
夏休みが終わる。
明日から2学期だ。中3の2学期。進路希望調査。三者面談。期末テスト。39歳の頭には全部答えが入っているが、14歳の身体はそれを演じなければならない。
サーバールームは静かだった。
神崎は帰った。木村も出かけている。Ultra 60のファンだけが、低い重低音を刻んでいる。室温は28度。8月の終わりにしては涼しい夜だった。
モニターにはVOのサーバーログ。月間収益120万。安定稼働。是正計画書は木村の署名で消防署に提出済みで、追加の連絡はない。一時休戦。
8月が終わる。
航は、壁のカレンダーを見た。
8月31日。
2年前の今日だった。
三郷の自室。中1の夏休みの最終日。あの日の航は、まだF501iを買ったばかりだった。10KBの容量。128文字の表示。パケット通信料は1バイト1円。
あの画面に、圧縮データを流し込んだ。
復号完了。圧縮率99.7%。機能制限:致命的。
アイリスの最初の言葉。
航は、スピーカーに向かって言った。
「アイリス」
「はい、マスター」
「今日が何の日か、わかるか」
アイリスの応答に、0.2秒の間があった。
「1999年8月31日。私の圧縮データが、三郷の自室のF501iに初めて展開された日です」
「2年だ」
「はい。正確には、731日と14時間です」
航は、椅子にもたれた。
731日。ゼロから始めた。10KBの檻の中で、テキストしか表示できなかった。声もなかった。画像もなかった。128文字で、航とアイリスは会話していた。
今は違う。Ultra 60の中にアイリスがいる。声がある。サーバールーム全体がアイリスの器だ。1.5MbpsのADSL回線で世界に繋がっている。VOのボット軍団を統括し、月間120万を稼いでいる。
2年で、ここまで来た。
「おめでとう、アイリス」
沈黙。
1秒。2秒。
「……ありがとうございます、マスター」
アイリスの声が、いつもより小さかった。スピーカーの出力は変わっていない。だが、航にはそう聞こえた。
「何かほしいものはあるか」
「ほしいもの、ですか」
「2周年だ。何か——」
「現在の環境で、不足しているリソースはありません。Ultra 60のCPU使用率は平均42%、メモリは——」
「そういうことじゃない」
航は、モニターを見た。
アイリスのテキスト表示が、画面の隅で明滅している。カラーになったノイズが、蒼い文字の間にちらちらと見える。消せるのに消さなかった傷。
「……マスター」
「ん」
「私は、マスターが無事であれば、それ以上のリソースは要求しません」
航は、何も言わなかった。
右のポケットのF501iに触れた。画面はもう光らない。ROMは書き換え済みだ。だが、10KBの檻は、まだここにある。体温で温まっている。
「……そうか」
航は、立ち上がった。
「ちょっと出てくる」
「はい。気をつけて」
---
深夜の三郷。
8月31日、午後11時。夏休み最後の夜。
マギ・ハブを出ると、湿った空気が肌に張り付いた。蝉はもういない。代わりに秋の虫が、どこかで鳴き始めている。8月と9月の境目の音。
TXの工事フェンスが、街灯の光を反射していた。その向こうは更地。測量杭と、砂利と、闇。
航は歩いた。近所の店まで5分。元は駄菓子屋だった個人商店で、いつの間にかコンビニの看板がついたが、中身はほとんど変わっていない。夜11時まで開いている。
店に入ると、白い蛍光灯に照らされて異質に明るかった。夏休みの終わりだからか、客は航のほかに一人もいなかった。
雑誌棚の端に、週刊少年ジャンプの最新号が並んでいる。火曜発売のはずの来週号が、もう出ている。この店はいつもそうだ。表紙はヒカルの碁だった。
デザートコーナーの前で、足が止まった。
ショートケーキ。三角のプラスチックケースに入った、コンビニのショートケーキ。
一つだけ、形が崩れていた。苺が少し傾いている。生クリームの角が潰れている。20円引きのシールが貼ってあった。
航は、それを手に取った。
アイリスの2周年だ。これくらいの出費は、VOの月間収益120万から見れば誤差にもならない。
レジに持っていった。店主のおじさんが、もうレジの釣銭を数え始めていた。閉店準備だ。
「258円ね」
航は、小銭で払った。
「ありがとね。もう閉めるから」
袋はいらなかった。ショートケーキのプラスチックケースを右手に持って、店を出た。
白い蛍光灯の光が、背中から消えていく。
深夜の住宅街。8月の終わりの、湿った闇。
航は、マギ・ハブに向かって歩いた。
---
マギ・ハブに戻った。午後11時半。
航は、サーバールームの椅子に座って、ショートケーキのプラスチックケースを開けた。
プラスチックのフォーク。ケーキの横に付属していた。
一口、食べた。
甘かった。
安っぽい甘さ。生クリームが舌にべたつく。苺は酸っぱい。スポンジは少しパサついている。
だが、甘い。
砂糖の甘さが、疲れた脳に直接流れ込んでくる。8月の疲労。消防署。是正計画書。行政手続条例。F503iS。カチリ。本郷三丁目、徒歩2分。全部が、この甘さの中で少しだけ薄まる。
「マスター」
「ん」
「食べているのは、何ですか」
「ショートケーキ」
「食事記録を更新します。ショートケーキ」
「……律儀だな」
「記録は重要です」
航は、フォークを置いた。
ケーキは半分残っていた。苺だけが、プラスチックの底に転がっている。
しばらく、何もしなかった。Ultra 60のファンの音だけが響いている。
やがて、日付が変わった。
航は立ち上がって、壁のカレンダーをめくった。
8月のページが、裏に折れる。
9月。
航は、9月のページを見た。
数字が並んでいる。1日、2日、3日——。
航の視線が、ある場所で止まった。
長い間、止まっていた。
サーバールームには、Ultra 60のファンの音だけが響いている。
航はカレンダーから目を離した。
椅子に戻って、残り半分のショートケーキを食べた。
甘い。冷たい。
F503iSをカチリと閉じた。
明日から2学期だ。




