第31話「装填」
2001年8月14日。火曜日。三郷。マギ・ハブ。午前10時。
盆の三郷は、人が減る。
帰省ラッシュで武蔵野線が混み、商店街のシャッターが半分降り、近所の子供たちは実家のある北関東や東北に散っていく。蝉だけが残って、朝から全力で鳴いている。
航は、1階のサーバールームにいた。
Ultra 60のファンが低く回っている。安定した重低音。導入から6週間、一度も止まっていない。室温32度。換気扇2台がフル回転しているが、追いついていない。Tシャツの背中が汗で張り付いている。
神崎は秋葉原。冷却ファンの追加調達。木村は盆で実家に帰っていた。
一人だった。
モニターには、VOのサーバーログ。ボット軍団の稼働状況。月間収益は先月の120万を維持している。サーバー障害の影響は完全に回復した。
「マスター。本日の売上速報です。午前10時時点で——」
「後でいい」
「了解しました」
アイリスの声が、スピーカーから消えた。
静かだった。ファンの音だけが響いている。
チャイムが鳴った。
航は、モニターから目を離した。
マギ・ハブに、元々チャイムはなかった。木村が後付けした、ホームセンターの安物だ。配線が甘くて、押すと0.5秒遅れて鳴る。
「アイリス。玄関のカメラ」
「表示します」
モニターの隅に、小さなウィンドウが開いた。先週設置したばかりの監視カメラ。解像度は低い。だが、人の姿は識別できる。
スーツ姿の男が二人。胸ポケットに身分証。制服ではないが、堅い雰囲気。
「……アイリス」
「はい」
「あの二人、何者だ」
「画像解析中——身分証のロゴから、三郷消防署の予防課と推定されます」
チャイムが、もう一度鳴った。
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航は、玄関を開けた。
熱気が流れ込んでくる。アスファルトの照り返し。蝉の声が近い。
「マギ・システムズさんですか」
男が、名刺を差し出した。三郷消防署予防課。
「はい」
「三郷消防署の予防課です。近隣の方から通報がありまして、確認に伺いました」
「通報、ですか」
「はい。深夜の異常な排熱と騒音、それから火災の危険性について、詳しい内容の通報がありまして」
男は、航を見下ろした。
「……あの、ボク、お父さんかお母さんは?」
「代表は不在です。僕が対応します」
「いや、中学生くんに対応されても困るんだけどね——」
男は、苦笑した。仕事の邪魔をされている、という顔だった。
「中、入らせてもらっていいですか」
「どうぞ」
航は、二人を1階のサーバールームに通した。
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消防署員が、サーバーラックを見上げた。
「これ全部、動いてるんですか」
「はい」
「UPSは何台ですか」
「3台です」
「容量は」
「1台あたり1,500VA」
消防署員は、メモを取った。もう一人の署員は、壁の消火器を確認していた。
「この建物、防火管理者は選任されていますか」
航は、答えなかった。
防火管理者。消防法第8条。一定規模以上の建物には、防火管理者を選任し、消防署に届け出る義務がある。マギ・ハブは元印刷工場で3階建て。従業員が常駐している。本来なら、防火管理者の選任届を出さなければならなかった。
佐伯に設立登記を依頼した時、サーバーは3台だった。その規模なら消防の届出は問題にならなかった。だが、その後UPSを3台追加し、Ultra 60を導入し、24時間稼働の体制を敷いた。設備が増えるたびに、届出が必要になっていた。航はそれを知らなかった。セキュリティエンジニアの業務に消防法規は含まれない。
穴だった。
「選任は、まだです」
「まだ。……困りますねえ」
男は、手帳にメモを取った。
「消防用設備の点検記録もありませんよね」
「はい」
「このままだと、行政指導という形で是正をお願いすることになります。場合によっては——」
男は、航を見た。
「——使用停止命令を出さないといけなくなる可能性もあります」
使用停止命令。
マギ・ハブが止まる。サーバーが止まる。VOが止まる。月間120万の収益が消える。
「代表の木村さんに、なるべく早くご連絡いただけますか。正式な書面で、是正の計画をお出しいただく必要があります」
「……わかりました」
「よろしくね。——あ、それと」
男は、ドアの前で振り返った。
「通報してきた方、かなりお怒りのようでしたよ。ご近所付き合い、大事にしてくださいね」
二人が帰っていった。
航は、玄関の扉を閉めた。
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サーバールームに戻り、椅子に座った。
「アイリス」
「はい、マスター」
「今の会話、全部録音してあるな」
「はい。音声ファイルとして保存済みです」
「通報の内容、聞き取れたか。職員が持っていた書類の文面」
「音声からの聞き取りと、職員が書類を見せた際の映像から、部分的に復元しました」
画面に、テキストが表示された。
通報内容(復元):
「消防法第8条に基づく防火管理者の未選任」
「消防法第17条に基づく消防用設備等の点検義務違反の疑い」
「消防法施行令別表第一に基づく蓄電池設備の届出義務違反の可能性」
航は、その文面を見つめた。
「……アイリス」
「はい」
「これ、近隣住民が書ける文面か」
「いいえ。消防法の条文番号を正確に引用し、施行令の別表まで指定しています。消防実務に精通した人間の文面です」
「通報の発信元は」
「署員の会話から『都内の公衆電話からの匿名通報』という情報を抽出しました。市外局番03です。三郷の048ではありません」
東京23区内の公衆電話から、三郷消防署に匿名で通報。消防法の条文を正確に引用した文面で。
近隣住民の苦情じゃない。
「……佐伯さんに電話する。その前に——」
航は、ポケットからF501iを取り出した。
モノクロの液晶。2年間、ずっとこの画面を見てきた。
「——先に、やることがある」
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2001年8月14日。午後1時。三郷駅前。
携帯ショップの前に、小さな行列ができていた。
「F503iS」の発売日だった。
赤いポスター。「富士通初の折りたたみ! カラー液晶搭載!」。10代から20代の若者が、5人ほど並んでいる。盆休みで暇な学生が多い。
航は、その列の最後尾に立った。
ポケットの中には、F501i。そして、財布。
15分で順番が来た。
「いらっしゃいませ。機種変更ですか」
「はい。F503iSに」
「はい。では、現在お使いの端末をお預かりしますね」
店員がF501iを受け取った。航の手から離れる瞬間、指先が少しだけ痺れた。
「番号の移し替えに10分ほどかかります。こちらでお待ちください」
パイプ椅子に座る。冷房が効いている。サーバールームの32度から、一気に24度に落ちた。汗が冷えて、腕に鳥肌が立つ。
紙コップの麦茶を出された。冷たかった。
10分。
その間、航は何も考えなかった。
F501iが店員のカウンターの向こうにある。ROMの書き換えが進んでいる。番号が、新しい器に移る。
2年前の夏。あのモノクロ画面に、アイリスが最初のメッセージを表示した。
『復号完了。圧縮率99.7%。機能制限:致命的。』
128文字。1バイト1円。パケ死の恐怖。テレホーダイの23時。
全部、あの画面の中で起きたことだ。
「お待たせしました」
店員が、二つの端末を持ってきた。
左手に、F501i。右手に、F503iS。
「データの移行が完了しました。古い端末はお引き取りしましょうか」
「いえ。持って帰ります」
店員が、少し不思議そうな顔をした。だが何も聞かなかった。
航は、まずF501iをポケットにしまった。
それから、F503iSを手に取った。
重い。F501iの74gから、97g。23gの差。掌に、新しい重さが乗る。
折りたたみを開いた。
2.0インチ。TFTカラー液晶。
蒼い光が、顔を照らした。
モノクロではない。色がある。メニュー画面のアイコンが、赤、緑、青、黄——4,096色の世界。
イヤホンを挿した。
『——マスター』
アイリスの声。サーバーからの中継。F501iの時と同じ回線。だが、画面が違う。
テキストが表示された。いつもの中継プログラムの起動メッセージ。だが、文字の色が違う。白黒の世界から、色のある世界に変わっただけで、同じテキストがまるで別物に見える。
『中継プログラム、新端末で起動しました。表示可能色域が4,096倍に拡張されています。……ノイズまでフルカラーですね』
航は、画面を見つめた。
ノイズ。HDD障害で残った、アイリスのテキスト表示の傷跡。文字化けした部分が、モノクロでは地の色に紛れて目立たなかった。カラーになったことで、正常な文字と化けた文字の差が——色の違いとして、くっきり浮かび上がっている。
消せるのに、消さなかった傷。それが今、色を持った。
航は、折りたたみを閉じた。
カチリ。
プラスチックと金属が噛み合う、硬質な音。
F501iにはなかった音だ。ストレート型には「閉じる」という動作がない。折りたたみだけが持つ、「終わり」と「始まり」を兼ねた音。
航は、F503iSをポケットに入れた。左のポケットにF503iS。右のポケットにF501i。
携帯ショップを出た。8月の陽射しが、目を焼いた。
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2001年8月14日。午後3時。本所。佐伯誠一事務所。
階段を上がる。3階。煙草の匂い。
「……座れ」
佐伯は、書類から顔を上げた。
「盆に来るのか」
「すみません。急ぎです」
航は、パイプ椅子に座った。
「今朝、消防署が来ました。匿名の通報で、防火管理者の未選任と消防設備の不備を指摘されました。使用停止命令の可能性も示唆されています」
佐伯は、煙草の箱に手を伸ばしかけて、止めた。
「防火管理者」
「はい」
「……お前、サーバーを何台増やした」
「設立時は3台でした。今は——」
「聞いてない。聞いてないってことは、お前が報告しなかったってことだ」
航は、黙った。
「設備を増やしたら届出が要る。防火管理者の選任届。消防用設備の設置届。お前、設立の時は3台だったから俺も何も言わなかった。だが、ここまで増やしたなら話が変わる。なぜ相談しなかった」
航は、答えられなかった。39歳の記憶にセキュリティの知識はあっても、消防法の届出は入っていない。そして——佐伯に相談するという発想自体が、抜け落ちていた。
「……すみません」
佐伯は、煙草を取り出した。火をつけた。深く吸い、煙を吐いた。
「過ぎたことを言っても穴は塞がらん。通報の文面を見たか」
「部分的に。消防法第8条、第17条、施行令別表第一まで引用されています」
佐伯は、数秒間、黙った。
それから煙草を取り出し、火をつけた。
「……誰が書いた」
「わかりません。匿名の通報です。公衆電話から。市外局番03」
「東京からわざわざ三郷の消防署に通報する近隣住民はいない」
佐伯は、航を見た。
「この文面を書いた人間は、消防法の条文番号を正確に知っている。施行令の別表まで引ける。消防設備士か、防火管理の実務をやったことがある人間か——」
佐伯は、煙を吐いた。
「——少なくとも、行政への通報で何が効くか、知り尽くしている人間だ」
航の背中に、汗が冷たく流れた。
Lが行政を使って殴ってきた。デジタルの攻撃ではない。紙と条文と手続きで。
「佐伯さん。どうすればいいですか」
「まず、落ち着け」
佐伯は、灰皿に煙草を置いた。
「行政手続法を知っているか」
「名前は知っています。中身は——」
「消防署は市の機関だ。行政手続法は、地方公共団体の行政指導には使えない。3条3項で適用除外になってる」
航は、眉をひそめた。
「じゃあ、手がないってことですか」
「あるに決まってるだろう」
佐伯は、棚から薄い六法を引っ張り出した。付箋だらけの、使い込まれた一冊。
「行政手続法。第32条。行政指導の一般原則」
ページを開いた。
「行政指導は、あくまでも相手方の任意の協力によってのみ実現されるものだ。強制力はない。従わなかったからといって、それだけを理由に不利益な処分はできない。——これが法律の本則だ」
「でも消防署には使えないんですよね」
「使えない。だが、ほとんどの市に行政手続条例がある。三郷にもあるはずだ。帰ったら確認しろ。条文番号は法律と少しずれるが、中身はほぼ同じだ」
航は、頷いた。
「つまり、今朝の訪問は——」
「命令じゃない。お願いだ。消防の人間は、区別を曖昧にして相手をビビらせる。『使用停止命令を出す可能性もあります』と言ったんだろう? あれは脅しだ。法的根拠のない脅し」
佐伯は、別のページを開いた。
「第35条。行政指導の方式。ここが武器になる」
航は、身を乗り出した。
「行政指導が口頭でされた場合、相手方から求めがあったときは、行政指導の趣旨、内容、責任者を書面で交付しなければならない」
佐伯は、航を見た。
「書面を求めろ。口頭で脅されたなら、なおさらだ。条例の何条に当たるかは、三郷市の条例を確認してから言え。番号を間違えると足元を見られる」
「書面にさせると、何が変わるんですか」
「全部変わる。口頭の指導は証拠が残らない。だから役所は好きなことを言える。だが書面にした瞬間、向こうは自分の言葉に縛られる。書面に書いた以上のことはできなくなる」
航は、メモを取っていた。F503iSではなく、紙とペンで。
「それと、是正計画書をこっちから先に出せ」
「先に?」
「向こうが『是正しろ』と言う前に、こっちから『是正する予定です』と提出する。防火管理者の選任届を何月何日までに提出する予定です、消防設備の点検を何月何日までに実施する予定です、と。具体的にスケジュールを書け。日付を入れろ」
佐伯は、立ち上がった。窓の外を見ていた。
「日付が入った是正計画書が提出された時点で、行政は手が出せなくなる。『任意に協力している相手方』に対して、いきなり使用停止命令を出す法的根拠がない。手続きが動いている限り、役所は止まる」
航は、ペンを止めた。
「……佐伯さん」
「なんだ」
「相手は、この穴を狙って通報してきました。防火管理者の未選任。消防設備の不備。俺たちの足元の、一番弱いところです」
「弱いところを突かれたら、直せばいい。壁に穴が空いたら、塞げ。穴を空けた奴を探すのは、壁を塞いでからだ」
佐伯は、振り返った。
「それともう一つ。通報した人間のことだが」
「はい」
「技術者が法律を知らないとは限らない。特に、一度会社を潰した人間は——手続きの怖さを、身体で知ってる」
航は、黙った。
テクノウェーブ。破産。白石隆と及川誠。あの二人は、会社が潰れる過程を全部見ている。破産手続開始決定。債権者集会。管財人の処分。手続きの刃が自分に向いた経験がある人間だ。
「是正計画書のドラフトは今夜中に書きます。テミスに——」
「テミスに下書きさせてもいいが」
佐伯は、煙草を灰皿に押しつけた。
「——自分で書け。テミスの下書きは、添削に使え。自分の手で書いた書類と、機械が書いた書類は、読む人間にはわかる」
「……はい」
「それと、書面の請求は今日中にやれ。明日になると向こうのペースになる」
「——今日中に」
「ああ。電話でいい。録音しろ。相手は黙る」
航は、立ち上がった。
「佐伯さん。ありがとうございます」
「礼はいい。行け」
航は、事務所を出た。
階段を降りながら、F503iSをカチリと開いた。
『マスター。佐伯先生の会話、記録しました』
「ああ。アイリス、もう一つ頼む」
『はい』
「通報の発信元公衆電話の位置特定。NTTの公衆電話設置台帳は公開情報だ。図書館で閲覧できるはずだが、オンラインで台帳データにアクセスできるか調べてくれ」
『了解しました。なお、通話記録には一切アクセスしません。設置台帳は公開情報です。合法です』
「頼む」
---
2001年8月14日。午後4時半。三郷。マギ・ハブ。
神崎が、秋葉原から戻っていた。
「おう、遅かったな」
「いろいろあった」
航は、状況を手短に話した。消防署の来訪。通報の文面。佐伯の分析。行政手続条例。
神崎は、冷やし中華のパックを開けながら聞いていた。コンビニの冷やし中華。酸っぱいタレの匂いが、サーバールームに広がる。
「行政か……。俺、コードは書けるけど、役所の書類は全然わからん」
「だから佐伯さんがいる。——そして」
航は、F503iSを出した。
神崎が、箸を止めた。
「……おお。折りたたみか」
「今日発売のF503iS」
「F501iはどうした」
航は、右のポケットを叩いた。
「ここにある」
神崎は、少し笑った。
「捨てないんだな」
「捨てない」
航は、神崎が差し出した冷やし中華のパックを受け取った。冷えた麺。酸っぱいタレ。刻みハムとキュウリと錦糸卵。
一口啜った。酸っぱい。タレが喉に沁みる。
「……神崎」
「ん?」
「電話、一本かけていいか」
「誰に」
「三郷消防署の予防課」
神崎の箸が、止まった。
「……今からか?」
「今からだ」
航は、冷やし中華を置いた。
F503iSをカチリと開いた。カラー液晶が、薄暗いサーバールームに蒼い光を灯す。
「アイリス。録音を開始しろ」
「了解しました。録音開始」
航は、消防署の代表番号にかけた。
3コール。4コール。予防課の業務時間は5時15分まで。ぎりぎりだ。
「はい、三郷消防署です」
「予防課をお願いします」
「少々お待ちください」
保留音。聞き覚えのないメロディが、F503iSのスピーカーから流れた。
「お待たせしました。予防課です」
「本日午前中に、マギ・システムズ有限会社を訪問された件でお電話しました」
「ああ、はい。谷中の。代表の木村さんですか」
「いえ、関係者の鳴海です。本日の件について、一点、確認させてください」
「はい、何でしょう」
航は、息を吸った。
「本日いただいたご指導について、三郷市行政手続条例第33条に基づき、行政指導の趣旨、内容、および責任者を記載した書面の交付を求めます」
電話の向こうが、静かになった。
3秒。5秒。
「……もう一度、おっしゃっていただけますか」
「三郷市行政手続条例第33条です。行政指導が口頭でされた場合、相手方から求めがあったときは、その趣旨、内容、責任者を書面で交付しなければならない。本日の訪問は行政指導に該当しますので、書面の交付を求めます」
沈黙。
航は、待った。
佐伯が言った通りだった。「書面を求めろ。相手は黙る」。
黙っている。
口頭なら何でも言える。「使用停止命令の可能性もあります」——あれは脅しだ。だが書面にしろと言われた瞬間、自分の言葉に責任が発生する。書面に「使用停止命令を出す」と書けるのか。法的根拠はあるのか。書けないなら、言うべきではなかった。
職員は、それをわかっている。
「……少々お待ちください。担当に確認します」
保留音。
神崎が、冷やし中華の箸を置いて、航を見ていた。
1分。2分。
「お待たせしました」
声のトーンが変わっていた。さっきより丁寧だった。
「……書面につきましては、ご指摘の通り対応いたします。ただ、お時間をいただく形になりまして——」
「構いません。書面の交付をお待ちします。なお、当社としましても、是正計画書を自主的に作成し、提出する準備を進めております」
「……是正計画書を、自主的に」
「はい。防火管理者の選任届のスケジュール、消防用設備の点検計画、具体的な日程を含めた是正計画書を、今週中にお届けします」
電話の向こうで、何か書いている音がした。
「……わかりました。是正計画書をご提出いただけるのであれば、当面は——」
「当面は?」
「……経過を見させていただく形になるかと思います」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
航は、電話を切った。
F503iSをカチリと閉じた。
サーバールームが、静かだった。
神崎が、口を開いた。
「……お前、何者だよ」
「ただの中学生だ」
「嘘つけ」
神崎は、首を振った。
「今の電話、5分で消防署を黙らせたぞ。行政手続条例? そんなもん俺は名前すら知らねえ」
「佐伯さんに教わった。今日」
「今日? 今日教わって、今日使ったのか」
「使える武器は、すぐに使う。寝かせたら意味がない」
航は、冷やし中華を手に取った。
一口啜る。酸っぱい。冷たい。
さっきより、うまかった。
---
「マスター」
アイリスの声が、スピーカーから響いた。
「公衆電話の位置特定が完了しました」
航は、箸を止めた。
「報告しろ」
「NTTの公衆電話設置台帳から、市外局番03で三郷消防署代表番号への通話が可能な公衆電話を絞り込みました。署員の会話から得た通報日時と照合した結果、候補は1台です」
画面に、地図が表示された。
「文京区本郷三丁目。春日通り沿い。テクノウェーブ旧本社ビルから——」
アイリスの声が、0.3秒だけ止まった。
「——徒歩2分です」
サーバールームが、静かになった。
神崎が、箸を置いた。
「また本郷か」
「ああ」
また本郷。L_contact_005の200メートル。郵便受けの粘着跡。ネクストウェーブのサーバー。そして今日の通報。全部、本郷三丁目の半径500メートルから発信されている。
Lは、そこにいる。
技術だけじゃない。法律と行政の回し方を知っている。条文を正確に引き、通報先を選び、手続きのタイミングを計って殴ってくる。
佐伯の言葉が甦る。「一度会社を潰した人間は、手続きの怖さを身体で知ってる」。
テクノウェーブの破産を経験した人間。白石か、及川か。
「神崎」
「ああ」
「今夜、是正計画書を書く。自分の手で。テミスには添削させる」
「俺は何をすればいい」
「ネクストウェーブのサーバーログ、続けろ。97.2%の一致を、もう一段掘り下げて、山下健一の技術的な出自を洗え」
「了解」
航は、F503iSをカチリと開いた。カラー液晶に、監視カメラの映像を呼び出した。マギ・ハブの外壁のカメラ。F501iのモノクロでは、人影の輪郭しかわからなかった。F503iSのカラーでは、服の色が識別できる。
解像度は変わらない。でも、色がつくだけで、見えるものが変わる。
航はF503iSを閉じた。カチリ。
モニターに向き直った。テキストエディタを開いた。
ファイル名:是正計画書_draft.txt
佐伯の教え通り、自分の手で書く。テミスには後で添削させる。
左のポケットにはF503iS。右のポケットにはF501i。
今日、航は2つの武器を手に入れた。4,096色の視界と、行政手続条例という名の弾丸。
佐伯が教えたのは撃ち方だけだ。引き金を引いたのは、航自身だった。




