第30話「指紋の照合」
午後6時。
三郷。マギ・ハブ。
「——及川と山下が、同じビルに?」
神崎が、缶コーヒーを置いた。
「ああ。テクノウェーブの旧本社と同じフロアに、山下が新会社を作ってる。ネクストウェーブ。サーバーのIPがプロメテウスのボットネットと同じサブネットだ」
「マジかよ……」
神崎が、キーボードに向かった。
「ネクストウェーブのウェブサーバー、今すぐ解析できるか」
「やる」
画面に、コードが流れ始める。
航は、モニターの前に座った。
「アイリス。今日の調査結果を時系列で整理しろ。テクノウェーブ→破産→白石・及川の行方→ネクストウェーブ→プロメテウスとの接点。全部つなげろ」
「了解しました」
画面に、タイムラインが表示された。
1995年:テクノウェーブ設立(文京区本郷。従業員3名。技術者:白石隆、及川誠)
1997年:分散ノード間暗号化通信プロトコルの特許出願
1998年12月:破産手続開始決定。代表、破産後に死亡
1999年2月:債権者集会。白石・及川が出席
1999年6月:破産手続終結。特許権は未処分のまま
2000年4月:ネクストウェーブ設立(代表:山下健一。同じビル、同じフロア。テクノウェーブとの関係不明)
2000年7月:voidがVOに出現。ボットネットにテクノウェーブのプロトコル使用
2000年10月:DDoS攻撃。ボットネットの設計思想は「化け物」
2000年12月:プロメテウスのボットが2ちゃんねるに投稿開始
2001年1月:L_contact_001、002
2001年5月:L_contact_003、004
2001年7月:L_contact_005。文京区本郷。200メートル以内
「……見えてきた」
航は、呟いた。
「テクノウェーブが潰れた。3人のうち1人は死んだ。残り2人——白石と及川。消息不明。そして、テクノウェーブの従業員リストにはいない山下健一が、同じ場所に新会社を構えている」
〈マスター。ネクストウェーブのウェブサーバーの解析が完了しました〉
メティスの声が、割り込んだ。
〈サーバーのOS はFreeBSD 4.2。ウェブサーバーはApache 1.3.19。特筆すべきは、SSLの実装です。2001年の標準的なウェブサーバーでは見られない、独自の暗号化レイヤーが追加されています〉
「独自の暗号化……」
〈この暗号化の構造は、テクノウェーブが1997年に出願した特許——分散ノード間暗号化通信プロトコル——の実装と、97.2%一致します〉
神崎が、口笛を吹いた。
「97.2%。サイバーリンクの93.7%より高い。こっちの方がオリジナルに近い」
航は、画面を睨んだ。
「山下は、テクノウェーブの技術をそのまま使っている。霧島みたいに外から盗んだんじゃない。内部にいた人間、あるいは内部から直接受け取った人間だ」
「従業員リストにはいなかったんだろ。どういう関係だ」
神崎が、コーヒーを啜った。
「わからない。外注か、共同研究者か、あるいは白石か及川が個人的に渡したか」
「ただし——」
〔テミスから補足します〕
テミスの声が、静かに響いた。
〔テクノウェーブの特許権は、破産財団に帰属しています。山下健一がテクノウェーブの関係者であれ外部の人間であれ、特許権は会社に帰属しており、無断で使用することはできません。マギ・システムズが渡辺弁護士から買い取った特許を、山下も無断で使用している可能性があります〕
「つまり、霧島だけじゃなく、山下も特許侵害か」
〔法的にはそうなります。ただし、山下とテクノウェーブの正確な関係が不明なため、山下側が「独自開発」を主張する余地があります。97.2%の一致率がそれを覆せるかどうかは、技術鑑定次第です〕
航は、椅子の背にもたれた。
山下健一。及川誠。ネクストウェーブ。プロメテウス。
そして、L。
Lは及川なのか。山下なのか。それとも——
「マスター」
アイリスの声が、静かだった。
「一つ、報告があります」
「言え」
「L_contact_005のメール。『そこは懐かしい場所だ』。この文面ですが——」
「テミスに食わせるなと言っただろう」
「食わせていません。ただ、私自身の分析です」
航は、アイリスを見た。
スピーカーの向こうに、声がある。
「『懐かしい』という感情表現は、Lのこれまでのメッセージには存在しませんでした」
航は、黙った。
L_contact_001:「Admin。あけましておめでとう。」
L_contact_002:「回線、太くなったね。」
L_contact_003:「善意は、重力だ。」
L_contact_004:「毒を避けたね。君の監視役は、いい仕事をする。次は紙の上じゃない」
そして、005:「そこは懐かしい場所だ。」
「001から004までは、航の行動に対する『観察報告』です。客観的で、距離がある。しかし005は——」
アイリスが、一瞬止まった。
「——Lが、自分自身について語っています」
航は、画面を見つめた。
「懐かしいのは、Lにとってのあの場所だ。Lは、かつてあそこにいた」
「はい。テクノウェーブの旧本社ビル。及川誠が住んでいたビル。山下健一が新しい会社を作ったビル」
「Lは、あのビルを知っている人間だ」
「はい」
航は、立ち上がった。
窓の外を見た。
7月の三郷。日が長い。午後6時でも、まだ明るい。田んぼの向こうに、TXの工事フェンスが見える。先月着工したばかりの更地。まだ何もない。
「アイリス。来週、登記簿を取りに行く。ネクストウェーブと、山下健一個人の両方」
「了解しました。法務局の管轄は東京法務局本局です。九段下」
「佐伯さんに連絡を取れ。渡辺弁護士にも報告が要る。テクノウェーブの特許を山下も使っている可能性がある」
「了解しました」
「それと——」
航は、振り返った。
「神崎」
「あ?」
「明日、秋葉原に行くぞ」
「何しに」
「監視カメラを買う。佐伯さんの事務所用だ」
神崎の目が、光った。
「……物理セキュリティか」
「ああ。Lは俺が佐伯さんのところに行くことを知っている。事務所が見られている可能性がある。監視カメラで、事務所の周辺を記録する」
「佐伯さんは許可するのか」
「する。あの人は、書類を守るためなら何でもする」
航は、モニターに向き直った。
カレーの匂いが、まだシャツに残っていた。
スパイスと汗。本郷の路地。銀杏の木。郵便受けの粘着跡。
そして、200メートル先にいた——誰か。
「及川は、ここにいたんだな」
航は、呟いた。
モニターの向こうに、文京区の地図が表示されている。テクノウェーブの旧本社。ネクストウェーブ。東大。カレー屋。
全部が、半径500メートルの中に収まっている。
小さな世界だ。
だが、その小さな世界から、プロメテウスのボットネットが世界中に広がっている。
「マスター」
「なんだ」
「一つ、確認してもよろしいですか」
「言え」
「今日、テクノウェーブの旧ビルの前に立った時——」
アイリスの声が、柔らかくなった。
「——怖かったですか」
航は、少し笑った。
「怖かった」
「正直ですね」
「お前に嘘ついても意味ないだろ」
「はい。10KBの頃から、マスターの嘘は見破れます」
航は、窓の外を見た。
日が、傾き始めている。
「怖かった。でも、行ってよかった」
「なぜですか」
「パケットの中にいた奴が、初めて匂いを持った」
航は、シャツの襟を引っ張った。
カレーの匂い。佐伯の煙草。本郷の路地の、古いコンクリートの匂い。
「Lはデータじゃない。あの街にいた人間だ。食堂で飯を食って、ビルの階段を上って、郵便受けに名前を貼って——」
航は、振り返った。
「——そして、消えた。名前を剥がして」
窓の外で、蝉が鳴き始めた。
7月の三郷。夏が来る。
航は、モニターの電源を落とさなかった。
今夜は、ネクストウェーブのサーバーログを、一晩かけて解析する。
シャツのカレーの匂いが、まだ消えない。




