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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第29話「文京区の残照」

2001年7月6日。金曜日。


期末テストが終わった。


三郷市立皐月中学校。3年1組。中3の1学期、期末テスト。39歳の脳みそで解く中学の数学は、呼吸をするように終わる。


問題は、成績を「中の下」に留めることだ。


100点を取れば怪しまれる。赤点を取れば親が騒ぐ。航は、5科目の合計を学年120位前後に調整し続けている。これが意外と難しい。


「鳴海、テストどうだった?」


廊下で声をかけてきたのは、佐藤健太。1年の頃から変わらない日焼け顔。中体連の地区大会が来週に迫っていて、日焼けがさらに濃くなっている。


「まあまあ」


「お前、いっつもまあまあだよな。もうちょい頑張れよ」


「……善処する」


佐藤が笑って去っていく。


航は、ポケットの中のF501iを握った。


今日は、このまま本所に行く。


---


午後2時。


本所。佐伯誠一事務所。


もう何度上ったかわからない階段。煙草の匂い。3階。


ドアを開ける。


佐伯は、デスクの前にいた。書類を読んでいる。いつもと同じ姿勢。いつもと同じ煙草。


「座れ」


航は、パイプ椅子に座った。


鞄から書類を取り出す。


「判決文の写しです。渡辺先生から預かりました」


佐伯が、書類を受け取った。


東京地方裁判所。令和——いや、平成13年。サイバーリンク・ジャパンに対する損害賠償請求事件。欠席判決。


被告・霧島怜に対し、3,200万円の支払いを命ずる。


佐伯は、判決文を端から端まで読んだ。いつもの読み方。飛ばさない。


「……欠席か」


「はい。霧島は出てきませんでした」


「当然だ。出てくれば逮捕される可能性がある。特許侵害に加えて、証拠保全時のデータ消去未遂だ」


佐伯は、煙草を灰皿に置いた。


「で、判決を取った。杭は打った。次は何だ」


航は、佐伯を見た。


「及川誠です」


佐伯の目が、わずかに動いた。


「先月の解析で、テクノウェーブの元技術者の名前が浮上しました。fjのNNTP-Posting-Hostヘッダから、文京区のOCNアクセスポイントが特定できています」


「それは知ってる。俺が聞きたいのは、お前がこれから何をするかだ」


航は、背筋を伸ばした。


「文京区に行きます。テクノウェーブの旧本社があった場所を、自分の目で見に」


佐伯は、黙った。


3秒。5秒。


「……渡辺に一つ聞いた」


佐伯が、デスクの引き出しを開けた。


メモ用紙を一枚取り出す。佐伯の字。癖が強い。


「テクノウェーブの破産手続。債権者集会が1回だけ開かれている。1999年2月。出席者は管財人の渡辺と、債権者3名」


航は、メモを見た。


「債権者3名の中に、及川誠がいた」


航の指が、止まった。


「及川は、テクノウェーブの元従業員だ。破産時に未払い賃金を届け出ている。届出住所は——」


佐伯が、メモを指で叩いた。


「——文京区本郷三丁目。テクノウェーブの旧本社と同じビルの、別の部屋だ」


航は、椅子から身を起こした。


「同じビル……」


「住居兼事務所だったんだろう。零細の技術者にはよくある。会社の近くに住んで、夜中まで働いて、そのまま寝る。俺の依頼人にも何人かいた」


佐伯は、煙草に火をつけた。


「ただし、これは1999年の情報だ。2年前。今もそこにいるかどうかは——」


「足で確認するしかない」


佐伯が、薄く笑った。


「覚えが早くなったな」


航は、メモを受け取った。


文京区本郷三丁目。番地まで書いてある。


「佐伯さん。ありがとうございます」


「礼はいい。気をつけろ」


佐伯は、煙を吐いた。


「お前が追っているのは、ネットの亡霊じゃない。生きた人間だ。生きた人間には、生きた事情がある。追い詰めたつもりが、追い詰められることもある」


航は、頷いた。


「肝に銘じます」


「行け」


航は、事務所を出た。


階段を降りる。本所の路地。7月の午後。アスファルトから陽炎が立ち上っている。


イヤホンを耳に入れた。


「アイリス」


『はい、マスター』


「聞いてたな」


『はい。佐伯先生のメモの内容、記録しました。文京区本郷三丁目。テクノウェーブ旧本社ビル。及川誠の届出住所』


「ここから本郷まで、どのくらいだ」


『蔵前橋通りを北西に直進。徒歩で約40分。丸ノ内線なら本郷三丁目まで乗り換え含めて20分ですが——』


「歩く」


『了解しました』


航は、歩き出した。


---


本所から本郷へ。


蔵前橋通りを西へ。蔵前橋で隅田川を渡る。台東区を抜けて、春日通りに入り、文京区へ。


7月の東京。湿度が肌に纏わりつく。制服のシャツが背中に張り付いている。


39歳の記憶が、この道のりを検索する。2026年の文京区本郷。東大を中心としたアカデミックな街。IT系のスタートアップが雑居ビルの上階に密集し、学生と起業家が混在する活気のある一帯。


だが、2001年の本郷は違う。


古い学生街だ。


定食屋。喫茶店。医学書専門の本屋。学生向けの安アパート。看板の色が褪せた文房具店。路地に入れば猫がいて、自転車が歩道にはみ出している。東大の塀の向こうから銀杏の匂いがする。再開発の波は、まだここまで届いていない。


『マスター』


アイリスの声が、イヤホンから響いた。


『テクノウェーブ旧本社のビルまで、あと200メートルです。本郷三丁目の交差点を右折してください』


航は、交差点で立ち止まった。


東大の赤門が、通りの向こうに見える。夏休み前の大学。学生がまばらに歩いている。


右に曲がる。


細い路地。ビルとビルの間。日当たりが悪い。本所の佐伯事務所の周辺に似ている。古い建物が密集して、空が狭い。


『次の角を左です』


曲がる。


目の前に、古い雑居ビルがあった。


5階建て。外壁のタイルが所々剥がれている。1階は不動産屋。シャッターが半分降りている。入口の横に、テナント一覧のプレートがある。


航は、プレートを見た。


1F:本郷不動産

2F:(空室)

3F:株式会社ネクストウェーブ

4F:田中会計事務所

5F:(空室)


テクノウェーブの名前はない。当然だ。1998年に破産している。


だが、3階。「ネクストウェーブ」。


「アイリス。3階のネクストウェーブ、調べろ」


『検索中——株式会社ネクストウェーブ。2000年4月設立。事業内容:ソフトウェア開発。代表取締役:山下健一。資本金300万円。従業員数:不明』


「2000年4月設立。テクノウェーブが破産した1年後に、同じビルの同じフロアに入居している」


『はい。偶然の可能性もありますが——』


「偶然じゃない」


航は、ビルの入口に近づいた。


郵便受けが並んでいる。古い真鍮のポスト。名前のプレートが差し込まれているものと、空白のものがある。


3階のポストを見た。


「ネクストウェーブ」のプレートの下に、テープで貼り付けられた別の名前が、かすかに見えた。


テープは剥がされている。だが、粘着剤の跡が文字の形を残している。


「及」の字。


その横に、もう一文字分の跡。


「川」か。


航の指が、郵便受けの縁で止まった。


『マスター。郵便受けの粘着跡ですが、画像解析は困難です。ただし、文字幅と配置から推測すると——』


「及川だ」


航は、呟いた。


及川誠。このビルの3階にいた。テクノウェーブが潰れた後も、ここに残っていた。そして——ネクストウェーブが入る前に、名前を剥がして消えた。


「アイリス。ネクストウェーブの代表、山下健一。テクノウェーブの関係者と照合しろ」


『照合中——テクノウェーブの従業員リストに山下健一は存在しません。破産時の届出債権者リストにも該当なし』


航の眉が寄った。


従業員ではない。だが——


『ただし、ネクストウェーブの設立は2000年4月。テクノウェーブの破産手続終結は1999年6月。同じビル、同じフロアに、テクノウェーブが消えた翌年に入居しています。偶然とは考えにくい距離です』


航の足が、止まった。


テクノウェーブの従業員リストにはいない。だが、テクノウェーブが消えた場所に、テクノウェーブに似た名前の会社を作っている。白石か及川と、何らかの接点があるはずだ。


「山下健一の経歴は追えるか」


『現時点では限定的です。ネクストウェーブの登記情報から、届出住所は千葉県松戸市』


「松戸。ここからは遠いな」


『電車で40分程度です』


航は、ビルを見上げた。


3階の窓。ブラインドが降りている。中は見えない。


入るか。


いや。


佐伯の言葉が頭をよぎった。


「生きた人間には、生きた事情がある。追い詰めたつもりが、追い詰められることもある」


今日は、見るだけだ。


航は、ビルの前から離れた。


---


路地を歩く。


東大の方角に向かう。


腹が減っていた。


朝から何も食べていない。テスト最終日の緊張と、佐伯訪問の緊張と、本郷の調査の緊張で、食事を忘れていた。


14歳の胃が、抗議の音を立てた。


『マスター。血糖値の低下が推測されます。食事を推奨します』


「うるさい」


『うるさくても事実です』


航は、通りを見回した。


東大正門の近く。学生街の一角に、古い食堂があった。


店先に手書きの看板。「カレー大盛り 450円」。


450円。中学生の財布にも優しい。


航は、店に入った。


昼時を過ぎている。客は3人。全員、大学生らしき男。参考書を広げながら、カレーを掻き込んでいる。


「いらっしゃい」


カウンターの奥から、50代の女性が顔を出した。


「カレー大盛り、お願いします」


「はいよ。中学生? 学校は?」


「テストが終わったので、早く帰れました」


「そう。偉いね、勉強してるんだ」


偉くはない。39歳が中学のテストを受けているだけだ。


2分後。


ステンレスの皿が、カウンターに置かれた。


カレー。大盛り。


暴力的な量だった。


白い米が山のように盛られ、その上から茶色いルーが滝のように流れている。ジャガイモ。ニンジン。玉ねぎ。肉は少ない。だが、スパイスの匂いが鼻を刺す。


福神漬けが、皿の端に添えられている。赤い。


航は、スプーンを手に取った。


一口。


辛い。


39歳の舌が「業務用のルーに、独自のスパイスを足してる。ガラムマサラと、たぶんクミン」と分析する。14歳の胃が「うまい」と叫ぶ。


二口。三口。


スプーンが止まらない。


汗が額から滴る。7月の東京。冷房の効きが甘い古い食堂。カレーの蒸気。


39歳のセキュリティエンジニアは、2026年のオフィスでサラダチキンとプロテインバーで昼食を済ませていた。効率的で、無駄のない食事。味は覚えていない。


このカレーは、味がある。


辛くて、量が多くて、ステンレスの皿が安っぽくて、隣の大学生が参考書にルーを飛ばしている。


これが、飯だ。


航は、皿を空にした。


450円を置いて、店を出た。


「ごちそうさまでした」


「はいよ。また来てね」


7月の風が、カレーの匂いが染み付いたシャツを揺らした。


---


東大正門の前を通り過ぎる。


赤門が、午後の陽射しの中で静かに佇んでいる。


航は、歩きながら考えていた。


テクノウェーブ。3人の会社。代表は死んだ。技術者2人——白石隆と及川誠。


及川はfjに投稿していた。文京区のアクセスポイントから。ボットネットのコードは、テクノウェーブの特許プロトコルを使っている。DDoS攻撃のボットネットを書いた「化け物」。


そして山下健一。テクノウェーブの従業員リストにはいない。だが、テクノウェーブと同じビルの同じフロアに、新しい会社を作っている。ネクストウェーブ。名前まで似せている。白石か及川を通じて、テクノウェーブの技術に触れた人間。


「アイリス」


『はい、マスター』


「ネクストウェーブの特許出願、あるか」


『検索中——ありません。特許庁のデータベースに、ネクストウェーブ名義の出願は存在しません』


「サイバーリンクとの取引は」


『公開情報では確認できません。ただし——』


アイリスの声が、わずかに変わった。


『ネクストウェーブのウェブサイトが存在します。2000年8月に開設。ただし、コンテンツはほぼ空です。会社概要と連絡先だけ。しかし、ウェブサーバーのIPアドレスが——』


「言え」


『プロメテウスのボットネットが使用していたプロキシサーバーと、同じサブネット内にあります』


航は、立ち止まった。


東大の塀沿い。銀杏の木が並んでいる。まだ青い葉が、風に揺れている。


「同じサブネット……」


『偶然の可能性は排除できません。しかし、確率は——』


「低いだろうな」


航は、歩き出した。


及川誠。山下健一。テクノウェーブ。ネクストウェーブ。プロメテウス。


点と点が、線になり始めている。


だが、まだ足りない。


「アイリス。山下健一の個人情報、どこまで追える」


『公開情報では限界があります。ネクストウェーブの登記簿を取得すれば、代表者住所が確認できます。佐伯先生に依頼するか、直接法務局で——』


F501iが震えた。


アイリスの声ではない。


メール着信。


航は、画面を見た。


差出人:非通知

件名:なし


本文:


そこは懐かしい場所だ。


航の足が、止まった。


本郷三丁目の路上。東大の塀の前。


「アイリス——」


『検出しました。このメールの送信経路を解析中——』


航は、周囲を見回した。


路上。銀杏の並木。古い塀。通行人。大学生。自転車。


誰かに見られている。


肌が、粟立つ。


『マスター。送信経路の解析が完了しました』


アイリスの声が、緊張を帯びていた。


『このメールは、iモードのメールゲートウェイを経由しています。発信元の基地局は——』


航は、息を止めた。


『——文京区本郷三丁目。半径200メートル以内』


ここだ。


今、この瞬間、Lは——航と同じ空気を吸っている。


『マスター。追跡しますか』


航の手が、震えた。


14歳の体が、本能的な恐怖を訴えている。39歳の理性が、冷静に状況を分析しようとしている。


L_contact_004の言葉が甦る。「次は紙の上じゃない」。


紙の上じゃない。掲示板でもメールでもない。物理的な距離。200メートル。


「……追わない」


航は、言った。


『追わないんですか』


「相手の土俵だ。この街を知っているのは向こうの方だ。追いかけたら、こっちが追い詰められる」


佐伯の言葉。追い詰めたつもりが、追い詰められることもある。


「記録しろ。インデックスは『L_contact_005』。送信経路、基地局情報、タイムスタンプ、全部保存」


『了解しました。なお、L_contact_004からの間隔は——』


アイリスが、計算した。


『——約39日。前回までの間隔は、14日、39日、87日と一貫して広がっていました。今回は87日より短い。パターンが崩れています』


航は、立ち止まった。


広がり続けていた間隔が、縮まった。


しかも今回は、reprompt.comの掲示板ではなく、F501iへの直接送信。チャネルも変わっている。


「Lの行動パターンが変わった」


『はい。マスターが及川の領域に踏み込んだことが、トリガーになった可能性があります』


「アイリス」


『はい』


「Lは、俺がここに来ることを知っていた」


『はい。佐伯先生から及川の住所を聞いたのは、今日の午後2時です。航がこの場所に到着したのは午後3時40分。その間——』


「1時間40分。佐伯さんの事務所を出た瞬間から、追跡されていた可能性がある」


『はい。あるいは——』


アイリスの声が、低くなった。


『——佐伯先生の事務所自体が、監視されている可能性があります』


航の背筋を、冷たいものが這い上がった。


佐伯さんの事務所が見られている。


本所の3階。煙草の匂いが染みついた、あの六畳半が。


「……帰るぞ」


航は、踵を返した。


地下鉄の駅に向かって歩く。足が速くなる。


カレーの匂いが染み付いたシャツが、汗で体に張り付いている。


振り返らない。


振り返ったら、誰かの目と合う気がした。


---


地下鉄。丸ノ内線。本郷三丁目駅。


ホームに降りる。涼しい。地下の空気が、汗ばんだ肌を冷やす。


航は、ベンチに座った。


手が、まだ震えている。


F501iを開く。


Lのメールを、もう一度読んだ。


「そこは懐かしい場所だ。」


一行。句点付き。


懐かしい。


Lにとって、本郷は「懐かしい場所」。


つまり、Lはかつてここにいた。今はいない。だが、航がここに来たことをリアルタイムで知っている。


200メートル以内の基地局。


「いた」のではなく「来た」のかもしれない。航を待っていたのかもしれない。


あるいは——航がここに来るよう、誘導したのかもしれない。


fjのヘッダに文京区のアクセスポイントを残したのは、意図的だったのか。


『マスター』


「なんだ」


『電車が来ます』


航は、立ち上がった。


丸ノ内線。赤い車体。ドアが開く。


乗り込む。座席に座る。冷房が効いている。


車内は空いていた。金曜の午後。平日のこの時間に中学生が一人で地下鉄に乗っている。周囲の大人は気にも留めない。


航は、目を閉じた。


今日わかったこと。


一つ。及川誠は、テクノウェーブが潰れた後も本郷のビルに住んでいた。郵便受けに名前が残っていた。


二つ。山下健一——テクノウェーブの従業員リストにはいないが、同じビルの同じフロアに新しい会社を作っている。ネクストウェーブ。サーバーのIPがプロメテウスのボットネットと同じサブネット。


三つ。Lは、航が本郷に来たことをリアルタイムで把握している。200メートル以内にいた。「そこは懐かしい場所だ」と送ってきた。


そして——


四つ。L_contact_005。接触の間隔が縮まった。広がり続けていたパターンが崩れた。しかも初めて、掲示板ではなくiモードメールの直接送信で、物理的な近さを伴って。


Lは遠ざかっているのではない。回り込んでいる。


「アイリス」


『はい』


「帰ったら神崎に報告する。ネクストウェーブの登記簿を取る。山下健一の経歴を洗う。それと——」


航は、目を開けた。


「佐伯さんの事務所のセキュリティを確認する。物理的に」


『了解しました。マスター』


「あと、もう一つ」


『はい』


「Lのメール。『そこは懐かしい場所だ』。この文面をテミスに食わせるな」


『……理由は?』


「佐伯さんに言われただろ。テミスに食わせる前に、俺が先に読めと」


アイリスは、3秒黙った。


『了解しました』


電車が、御茶ノ水を通過する。


窓の外を、神田川の緑が流れていく。


航は、シャツの匂いを嗅いだ。


カレー。


スパイスと汗が混じった、生臭い匂い。


2026年の自分なら、こんな匂いを纏って電車に乗ることはなかった。除菌シートで拭いて、消臭スプレーをかけて、清潔なオフィスに戻る。


今の自分は、カレーの匂いのまま電車に乗っている。


隣に座った女性が、少しだけ顔をしかめた。


航は、気にしなかった。


この匂いは、今日の「足跡」だ。


本所で佐伯の煙草の匂いを吸い、本郷のカレー屋で汗をかき、Lの200メートルに立った。全部が、このシャツに染み付いている。


データには残らない、体の記録。

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