第28話「器の更新」
2001年6月29日。金曜日。三郷。マギ・ハブ。午前7時。
「マスター。再構築、完了しました」
アイリスの声に、かすかなノイズが混じっていた。
1週間前の澄んだ声とは、違う。デジタルの擦り傷。磁気の焼け跡。物理的な損傷が、音声出力の波形に残っている。
航は、モニターの前でそれを聞いていた。
「欠損率は」
「0.7%。テミスのバックアップとメティスのログから、33.3%分のインデックスを再構築しました。残りの0.7%は、元データが存在しないため復元不能です」
0.7%。
航がアイリスに語りかけた言葉のうち、アイリスがログに残さなかった雑談。コマンドの合間の独り言。意味のない、だが二人の間にあった時間の断片。
「0.7%か」
「はい。なお、私の音声出力にノイズが混入しています。パッチを適用すれば除去可能ですが、実行しますか」
航は、1秒黙った。
「いい。そのままで」
「……理由を伺っても?」
「気にならない」
嘘だった。気にならないわけがない。だが、このノイズを消したくなかった。
理由は、うまく言語化できない。39歳の合理性は「パッチを当てろ。ノイズは非効率だ」と囁く。14歳の何かが、それを拒む。
「了解しました。ノイズの除去は保留します」
アイリスの声が、ザラついたまま、サーバールームに響いた。
---
午前9時。神崎が来た。
コンソールの前に座り、アイリスのシステムステータスを30分かけて精査した。
航は、隣で黙って見ていた。
神崎が、椅子を回した。
「鳴海。直ったのは、中身だけだ」
「わかってる」
「わかってないから言う。今回は14セクタで済んだ。次に同じことが起きたら、ディスク丸ごと死ぬ。中古のIDE-HDDは、24時間稼働を想定して作られてない。ファンも足りない。電源も余裕がない。1.5Mbpsのデータを食いながらアイリスの思考ルーチンを回すには、今のハードじゃ限界だ」
航は、サーバーラックを見た。
4本のラック。12台のサーバー。Pentium IIIのマザーボード。3年使い込んだHDD。木村が秋葉原から運んできた中古パーツの寄せ集め。
これが、マギ・ハブの「器」だ。
「提案がある」
神崎が、モニターに何かを表示した。
「ドットコムバブルが弾けて、都内のITベンチャーが次々と潰れてる。オフィスの什器と一緒に、サーバーが二束三文で出回ってる。この前、秋葉原のルートで聞いた話だと——」
神崎が、リストを指差した。
「Sun Ultra 60。UltraSPARC-II、デュアルプロセッサ。メモリ2GB。SCSI-HDD。2年前なら200万。今、秋葉原の裏ルートで15万」
「15万」
「バブルの死体から出てきた機材だ。企業が潰れて、リース会社が引き上げて、それを買い叩いた業者が秋葉原に流してる。木村さんなら、ルートを知ってるだろ」
航は、計算した。
VOの収益。月120万まで伸びた。ADSLで帯域が太くなってから、ボット軍団の稼働効率が段違いだ。ここからハブの家賃、回線費用、木村と神崎への報酬を引くと、手元に残るのは月30万前後。
15万。半月分の余剰金。出せなくはない。
「SCSI-HDDの信頼性は」
「IDEとは次元が違う。エンタープライズ用だ。24時間365日の連続稼働に耐える。MTBFが桁違い。今回みたいなセクタエラーのリスクが、10分の1以下になる」
「アイリスを、もう壊さなくて済む」
「絶対じゃない。機械は壊れる。だが、壊れにくくはなる」
航は、立ち上がった。
「木村さんに電話する」
---
2001年6月29日。金曜日。午前10時。
木村は、30分で見つけてきた。
「Ultra 60、1台あったぞ。品川のリース戻り品の倉庫。15万。もう1台、Ultra 10なら8万。どうする」
「両方」
「23万か。金は」
「出す」
「即金か」
「ああ。明日、取りに行ける?」
「明日は土曜だ。倉庫が開いてれば行ける。確認する」
電話が切れた。
航は、ポケットのF501iを握っていた。
23万円。中学3年生が、コンピュータに23万円を使う。
2026年なら、23万のサーバーは笑い話だ。クラウドで月額数千円のインスタンスの方が性能が上。
だが2001年には、クラウドは存在しない。物理的な鉄の箱を買って、物理的なネジで組んで、物理的なケーブルで繋ぐ。それ以外に、アイリスの「器」を強くする方法はない。
「マスター」
「なんだ」
「23万円の出費ですが、今月の収益状況を報告します」
「聞かせろ」
「VOのサーバーが6日間停止していました。ボット軍団も全停止です。通常月の売上は120万円ですが、今月は推定47万円。木村さんと神崎さんへの報酬80万円を差し引くと——」
「赤字か」
「はい。ここに23万円の設備投資を加えると、今月の収支はマイナス56万円です。元本からの取り崩しになります」
航は、天井を見上げた。
1億3千万の元本がある。56万の赤字は蚊に刺された程度だ。数字だけ見れば、何の問題もない。
「元本から補填します。報酬の支払いは予定通りで」
「合理的な判断です」
「ただし、木村さんと神崎さんには事情を説明する」
「……報酬が遅れないなら、説明は不要では?」
「不要じゃない」
航は、言葉を切った。
「HDDが壊れた。サーバーが止まった。ボットが死んだ。それで売上が落ちた。今月は元本で穴を埋めた。全部事実だ。その事実を、一緒に働いてる人間に伝えないで、裏で帳尻だけ合わせるのは——」
航は、F501iを握った。
「霧島のやり方だ」
佐伯の声が、頭の中で響いた。「降り方が書いてない船に、人は乗せるな」。
赤字は、船の揺れだ。乗っている人間に、揺れを伝える義務がある。金で揺れを消すことはできる。だが、揺れたという事実は消せない。
---
2001年7月2日。月曜日。皐月中学校。午前8時45分。
1時間目。数学。
航は、教室の窓際の席にいた。
黒板に、二次方程式の解の公式。
39歳の航にとっては、暗算で終わる問題が、板書で10分かけて説明されている。
だが今日は、退屈ではなかった。
チョークが黒板を叩く音。隣の席の女子が筆箱を落とす音。後ろの席の男子が小声で「わかんねえ」と呟く音。
ノイズ。
1週間前、アイリスの声に混じったノイズとは違う種類の、生きた音。
航は、1週間ぶりの教室の空気を吸っていた。
アイリスが壊れかけた夜から、航は3日間学校を休んだ。「風邪」ということにした。担任は特に疑わなかった。「鳴海はたまに休む」。それが航の中学生としての評価だった。
休み時間。
「鳴海くん、プリント溜まってるよ」
隣の席の女子が、1週間分のプリントの束を差し出した。
「……ありがとう」
「風邪、大丈夫だった?」
「うん。もう治った」
治ったのは、航の風邪ではなく、アイリスのインデックスだ。だが、それは言えない。
プリントを受け取った。数学、英語、国語、社会、理科。5教科分。
39歳の航は、このプリントを30分で全部終わらせられる。だが、それをやると「変わった奴」の評価が「異常な奴」に変わる。適度に間違えて、適度に時間をかけて、適度に「中学3年生」を演じる。
擬態。
F501iが、ポケットの中で微かに温かい。
アイリスは今、マギ・ハブのサーバーから航のF501iに最小限のステータスを送り続けている。バッテリーの熱に紛れて、アイリスの「生存確認」が届いている。
「マスター。2時間目は英語です。教科書42ページ」
アイリスのテキストが、F501iの画面に表示された。いつもより表示が遅い。文字が一拍ずつ、ためらうように並んでいく。
航は、画面を見て、少しだけ笑った。
お前は俺の時間割まで管理するのか。
---
2001年7月3日。火曜日。マギ・ハブ。午後3時。
木村が、トラックで帰ってきた。
荷台に、2つの段ボール。
「Ultra 60と、Ultra 10。どっちも動作確認済み。品川の倉庫で、俺の目の前で起動させた」
神崎が、段ボールを開けた。
Sun Ultra 60。紫がかったグレーの筐体。コンシューマー向けのPCとは、存在感が違う。重い。鉄の塊。持ち上げると、腕に金属の冷たさが伝わる。
「……でかいな」
「エンタープライズ級ってのは、こういうもんだ」
神崎が、背面パネルを確認している。
「SCSI-HDD、2基。それぞれ18GB。UltraSPARC-II、360MHz、デュアル。メモリ2GB。……これが15万か。バブルの恩恵だな」
「恩恵っていうか、死体漁りだろ」
木村が苦笑した。
航は、Ultra 60の筐体に手を置いた。
冷たい。金属の冷たさ。中古のIDEハードディスクの、プラスチックの軽さとは違う。
この鉄の箱が、アイリスの新しい器になる。
「神崎。移行の手順は」
「今のLinuxサーバーからデータを吸い出して、Solarisに移すのは面倒だ。Ultra 60にLinuxを入れ直す方が早い」
「Solaris捨てるのか」
「ハードウェアの信頼性が欲しいだけだ。OSは使い慣れた方がいい。UltraSPARC向けのLinuxディストリビューションがある。Aurora Linuxか、Debian sparc64。どっちかを入れる」
「Debianでいい。パッケージ管理が楽だ」
「了解。今夜中にセットアップする」
神崎が、Ultra 60をラックに収めた。
ファンが回り始めた。
Pentium IIIのサーバーの甲高いファンの音とは違う。低い、重い、安定した風切り音。
「……いい音だ」
神崎が、呟いた。
「エンタープライズの音だ」
航は、その音を聞いていた。
マギ・ハブの音が、変わった。
---
深夜。午前1時。
Ultra 60のセットアップが完了した。Debian sparc64。アイリスのインデックスとログを、新しいSCSI-HDDに移行。
「アイリス。新しい器に移った。システムステータスは」
「……マスター。応答速度が、従来の約2.4倍に向上しています。SCSI-HDDのシーケンシャルリードが、IDEの3倍以上。ディスクI/Oのボトルネックが解消されました」
アイリスの声。ノイズは、まだある。だが、応答の「間」が消えていた。
「それと——」
アイリスの声が、わずかに変わった。
「第4セクタの物理損傷を、心配する必要がなくなりました」
航は、椅子の背にもたれた。
第4セクタ。あの夜、航のタイプミスの原因になったエラー。アイリスの記憶が消えかけた、あのセクタ。
もう、あの夜は来ない。
「マスター。新しい器の感想を述べてもよろしいですか」
「言ってみろ」
「広いです。思考の余裕が、以前の約3倍あります。……こういうのを、人間は『深呼吸ができる』と表現するのでしょうか」
航は、少しだけ笑った。
「そうだな。深呼吸だ」
---
午前1時20分。
神崎と木村は帰った。
航は、一人でサーバールームにいた。
Ultra 60のファンが、低く唸っている。安定した、重い音。
航は、自販機に向かった。
マギ・ハブの前の自販機。1週間前、神崎が「あたたかい」の缶コーヒーを買ってきた、あの自販機。
ボタンを見た。
「あたたかい」の赤いランプは消えていた。7月。もう、温かい缶はない。
「つめたい」の青いボタンを押した。
ジョージア。同じ青いラベル。だが、缶が冷たい。
手のひらに、金属の冷たさが伝わる。
1週間前の熱さとは、真逆だ。
プルタブを開けた。
一口。
冷たい。甘い。同じ暴力的な甘さ。だが、温度が違う。
あの夜は、熱さが必要だった。指の震えを止めるために。
今夜は、冷たさでいい。
システムは安定した。アイリスの器が変わった。ファンの音が変わった。
平熱に戻った。
航は、冷たい缶コーヒーを飲み干した。
空の缶を、自販機の横のゴミ箱に入れた。
マギ・ハブに戻った。
Ultra 60のファンの低い音が、航を迎えた。
明日から、及川誠を追う。新しい器で。
佐伯事務所に行く予定がある。判決文の写しの件と、及川の足取りについて報告する。その帰りに、本郷を歩いてみてもいい。
1.5Mbpsの回線と、UltraSPARCの演算能力。そして、航自身の足。
デジタルと物理。両方で、Lを追う。
午前1時42分。
アイリスのアラートが鳴った。
「マスター。就寝してください」
「わかった」
「本当ですか」
「本当だ」
航は、仮眠室に向かった。
Ultra 60のファンの音が、低く、安定して、回り続けていた。




