第21話「線引き」
2001年1月8日。月曜日。成人の日。
三郷駅。午前10時。
ホームに、振り袖の女たちが並んでいた。
赤。白。紫。金糸の帯。冬の陽射しを跳ね返す、鮮やかな色彩の群れ。笑い声。ヒールが鳴る音。写ルンですのフラッシュ。
航は、その中に立っていた。
14歳。制服ではなく、ユニクロのフリースにジーンズ。手には、F501i。
振り袖の一人と、目が合った。
「あ、かわいい。弟?」
隣の女が、笑う。
「違うでしょ、中学生じゃん。ねえ、君、成人式の見学?」
航は、曖昧に笑った。
「いえ、ちょっと出かけるだけです」
「そっかー。気をつけてねー」
女たちが、笑いながら改札に向かっていく。
39歳の記憶が、彼女たちの未来を自動的に検索する。2001年の新成人。1980年生まれ。就職氷河期のど真ん中。この中の何割が、10年後に正社員でいられるか。リーマンショックを越えられるか。
やめろ。
航は、頭を振った。
人間をデータで測るな。佐伯さんに言われたことだ。
ポケットの中で、F501iが震えた。
『マスター。本所到着予定時刻は11時12分です。西船橋で総武線各停。乗り換え1回。所要時間62分』
小さな画面に、アイリスの文字が並ぶ。
『なお、本日は祝日です。佐伯先生の事務所が開いている保証はありません。アポイントメントは取りましたか?』
取っていない。
「年が明けたら、また話そう」。佐伯はそう言った。それが約束だ。日時の指定はなかった。
『つまり、アポなしの突撃ですね。14歳の訪問営業としては、度胸だけは合格です』
航は、F501iをポケットにしまった。
ホームに立って、電車を待つ。日祝ダイヤで本数が少ない。
駅の向こう側に、冬の三郷が広がっている。枯れた田んぼ。霜で白くなった畑。TXの予定地では、重機が休んでいる。祝日だから動かない。赤土の更地に、測量杭だけが突き立っている。
武蔵野線が来る。乗り込む。窓際の席に座った。
航は、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
14歳。
この顔で、佐伯さんの前に座る。
39歳の問いを、14歳の口で語る。
このズレに、1年半経っても慣れない。
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本所。午前11時20分。
もう何度も上った階段。3階。
ドアの向こうから、煙草の匂いがする。
いる。
航は、ドアをノックした。
「——開いてる」
佐伯の声。いつもと同じ、低くて乾いた声。
ドアを開ける。
六畳半の事務所。スチールデスク。書類の山。灰皿。窓から差し込む冬の光が、煙を白く照らしている。
佐伯誠一は、デスクの前に座っていた。
煙草を咥えたまま、書類を読んでいる。
「……座れ」
航は、パイプ椅子を引いた。
座る。
佐伯が、書類から目を上げた。
航を見る。
3秒。5秒。
「正月は」
「初詣に行きました」
「そうか」
佐伯が、煙を吐いた。
「で」
佐伯の目が、航を射た。
「考えたか」
航は、頷いた。
「考えました」
「答えは出たか」
沈黙。
航は、自分の膝を見ていた。ジーンズの膝。14歳の、細い脚。この脚で、三郷から本所まで来た。電車で1時間。そのあいだ、ずっと考えていた。
違う。
12月29日から、ずっと考えていた。
「……正直、答えは出ていません」
声が、出た。
14歳の声。変声期を越えたばかりの、まだ薄い声。
「霧島がやろうとしていたことと、俺がやろうとしていることの違い。説明できません」
佐伯は、黙っていた。
「でも」
航は、顔を上げた。
佐伯の目を、見た。
「佐伯さんに『何が違う』と聞かれて、答えられなかった。それが、たぶん大事なんだと思います」
「……」
「霧島なら、聞かれなかった。誰にも聞かれずにやった。聞いてくれる人間がいなかった。いや、聞かせる相手を作らなかった」
航の指が、膝の上で握られていた。
「俺は、聞かれる場所に立ち続けます。佐伯さんに、間違ってると言ってもらえる距離にいます。それだけしか、今は言えません」
沈黙が、事務所に落ちた。
窓の外で、車が通る音。鳥の声。本所の、冬の昼の音。
佐伯は、煙草を灰皿に押し付けた。
長い間、航を見ていた。
「——足りない」
佐伯が、言った。
「全然、足りない」
航の喉が、詰まった。
「だが」
佐伯は、立ち上がった。デスクの後ろの棚から、急須を取り出す。
「——お前が自分の口でそれを言いに来た。テミスに言わせなかった。それだけは、認める」
湯呑みが、航の前に置かれた。
緑色の、古い湯呑み。縁が欠けている。
佐伯が、急須から茶を注いだ。
熱い。湯気が立つ。
「飲め」
航は、湯呑みを手に取った。
熱かった。指が、痛いくらいだった。
一口、飲んだ。
苦い。
39歳の舌が「出がらしじゃなくて、わざと濃く淹れたな」と分析する。14歳の舌が「苦い」とだけ感じる。
「佐伯さん」
「なんだ」
「俺は、これからも来ます」
佐伯は、自分の湯呑みに茶を注ぎながら、答えなかった。
答えなかった。だが、急須の角度が、少しだけ丁寧になった気がした。
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佐伯は、茶を啜った。
そしてデスクの引き出しから、書類を一枚取り出した。
「読め」
航の前に、置かれた。
A4。コピー用紙。賃貸借契約書。住所と名前は黒塗りで消してある。
「……佐伯さん?」
「読めと言っている」
航は、書類を手に取った。
目が走る。39歳の実務経験が、自動的に文面を解析していく。
「賃貸借契約書。期間2年。更新料1ヶ月分。特約条項で原状回復義務を借主に」
「テミスなら何秒だ」
「……3秒かからないと思います」
「お前は」
「30秒くらいです」
「中身はいい。紙を見ろ」
航は、顔を上げた。
佐伯が、航を見ていた。
「もう一回読め。今度は、字を読むな。紙を見ろ」
航は、書類に目を落とした。
紙を、見る。
字を読まない。紙を見る。
「……署名欄の、筆圧が」
「どうなってる」
「最初の二文字は太い。はっきりしてる。でも、三文字目から急に細くなって——残りは、ほとんど力が入ってない」
「もう一つ」
航は、書類を傾けた。蛍光灯の光が、紙の表面を滑る。
「……印鑑が、二重に押されてる。一回目がかすれて、二回目で上から押し直してる。でも、二回目のほうがずれてる」
「何が起きた」
航は、黙った。
39歳の頭が、データを組み立てようとする。筆圧の変化。印鑑の二重押し。二回目のずれ。
「……わかりません」
佐伯は、煙草に火をつけた。
「この書類を持ってきたのは、82歳の婆さんだ」
煙を、吐いた。
「最初の二文字は自分で書いた。三文字目から、隣にいた息子に手を掴まれた。判子も同じだ。一回目は自分で押した。かすれた。息子が『貸せ』と言って取り上げて、押し直した。だからずれてる。手の大きさが違う」
航の喉が、詰まった。
「この婆さんは、書きたくなかったんだ。でも、息子に逆らえなかった。それが——紙に残ってる」
佐伯は、航を見た。
「テミスに、これが読めるか」
「……読めません」
「そうだ。読めない」
佐伯は、書類を引き取った。
「お前が聞かれる場所に立つと言った。いい。なら、もう一つやれ」
「何ですか」
「書類を、自分の目で読め。テミスに食わせる前に、お前が先に読め。字じゃない。紙を読め。それがお前の『線引き』の始まりだ」
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午後1時。
航は、本所の通りを歩いていた。
冬の陽射しが、低い角度で路面を照らしている。佐伯の事務所の階段を降りて、5分。
指先に、まだ湯呑みの熱が残っている。
ポケットの中で、F501iが震えた。
取り出す。
『マスター。佐伯先生との会話、全て記録しました』
アイリスの文字。
航は、立ち止まった。
『……ありがとう』
返信を打つ。1文字2秒。
『なお、佐伯先生の最後の言葉について、テミスで解析しますか?』
航は、F501iの画面を見つめた。
『いや。しない』
『理由は?』
『佐伯さんに言われたばかりだろ。テミスに食わせる前に、俺が先に読めと』
『……了解しました。マスターにしては、学習速度が上がっています。0.0001%の改善ですが』
航は、笑った。
声は出さなかった。
総武線の駅に向かって歩く。本所の、古い商店街。シャッターが降りた店。開いている店。正月飾りがまだ残っている軒先。
指先の熱が、冬の空気に少しずつ奪われていく。
でも、胃の中には、佐伯が淹れた苦い茶の熱が、まだ残っていた。
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2001年1月8日。月曜日。
三郷。マギ・ハブ。午後4時。
「戻ったか」
神崎が、サーバーの前にいた。
「ああ」
航は、コートを脱いだ。
「佐伯さんのとこか」
「なんでわかる」
「煙草の匂いがする」
神崎が、鼻を動かした。
「で、どうだった」
「……足りないと言われた」
「そりゃそうだ」
神崎が、あっさり言った。
航は、椅子に座った。
モニターの電源を入れる。
画面が、ゆっくりと明るくなる。ISDNの128kbps。まだ細い回線。
「神崎」
「あ?」
「ADSLの工事、いつだっけ」
「NTTから連絡が来てる。1月下旬。早ければ22日だと」
「あと2週間か」
「ああ」
航は、モニターを見ていた。
2ちゃんねるの掲示板。プロメテウスのボットが、今日も書き込みを続けている。128kbpsの細い回線で見ると、読み込みに時間がかかる。文字が、一行ずつ、ゆっくりと画面を埋めていく。
「IT不況が来る」
「株を売れ」
「日本は終わりだ」
同じパターン。同じ間隔。機械の言葉。
航は、目を細めた。
「……2週間」
呟いた。
回線が太くなれば、こいつらの「指紋」が見える。
今は見えない。128kbpsでは、解像度が足りない。
「アイリス」
「はい、マスター」
スピーカーから、声が響いた。
「ADSL開通後の優先タスクを設定しろ。第一優先、プロメテウスのボットネットの発信元解析。第二優先、正史乖離の精密計測。第三——」
航は、一瞬だけ止まった。
「——第三優先は、保留だ」
「了解しました。なお、保留の理由は記録しますか?」
「しなくていい」
「では、推測だけ記録しておきます。『マスターが自分の頭で考えている最中のため』」
航は、答えなかった。
モニターの向こうで、ボットの書き込みが続いている。
128kbpsの細い回線。
あと2週間。
航は、キーボードに手を置いた。
指先に、佐伯の茶の熱は、もう残っていなかった。
代わりに、キーボードのプラスチックの冷たさが、指に馴染んでいく。
この冷たさは、知っている。
39歳の自分が、何千時間も触れてきた、仕事の手触りだ。
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深夜。午前1時。
マギ・ハブ。
神崎は仮眠室に引っ込んだ。
航は、一人でモニターの前にいた。
画面には、reprompt.comの管理画面。
掲示板の投稿ログ。アクセス解析。
アイリスに命じて、今日の佐伯との会話をテキスト化させた。自分で読み返すために。テミスには食わせない。
「マスター」
「なんだ」
「一つ、報告があります」
「言え」
「reprompt.comの掲示板に、新しいアカウントが登録されました」
「いつ」
「本日、午後2時13分。マスターが本所にいた時間帯です」
航の指が、止まった。
「アカウント名は」
「『void_1337』」
航は、椅子から身を起こした。
void。
霧島が使っていたハンドルネーム。
「投稿は?」
「1件。テキストのみ。暗号化なし」
「表示しろ」
画面が、切り替わった。
投稿日時:2001年1月8日 14:13:07
本文:
Admin。あけましておめでとう。
航は、画面を睨んだ。
それだけだった。一行。挨拶。
だが、投稿時刻。14時13分。
航が、佐伯の事務所を出た直後の時刻。
偶然か。
偶然じゃない。
「アイリス。このアカウントのIPアドレスは」
「多重プロキシ経由。追跡不能です。ただし——」
アイリスの声が、わずかに変わった。
「——プロキシの経由パターンが、プロメテウスのボットネットと87%一致します」
航は、画面を見つめていた。
Admin。あけましておめでとう。
たった一行の挨拶が、航の背中に張り付いている。
こいつは、見ている。
俺が佐伯のところに行ったことを、知っている。
「……アイリス」
「はい、マスター」
「このメッセージは消すな。記録して、インデックスをつけろ」
「了解しました。インデックス名は?」
航は、少し考えた。
「——『L_contact_001』」
モニターの光が、暗い部屋を照らしている。
1月の深夜。三郷。
128kbpsの回線の向こうに、何かがいる。
航は、それを「データ」ではなく、「気配」として感じていた。
佐伯なら、これを「足がない」と言うだろう。
だから、追う。
自分の足で。




