第20話「賢者の選択」
2000年12月31日。日曜日。
三郷。マギ・ハブ。
午後11時。
航は、サーバールームで一人だった。
神崎は30日に帰った。「実家が千葉だから」と言って、段ボール箱に荷物を詰めて出ていった。正月は3日に戻ると。
モニターの電源は切ってある。29日の夜から、2ちゃんねるの画面は開いていない。
佐伯に「お前の頭で考えろ」と言われてから、2日が経った。
考えた。
テミスにも、アイリスにも、メティスにも聞かなかった。
自分の頭で。
「……アイリス」
「はい、マスター」
アイリスの声だけが、スピーカーから響く。
「俺は、佐伯さんに聞かれたことを、2日間考えてた」
「はい」
「霧島がやろうとしていたことと、俺がやろうとしていることの違い」
「……はい」
航は、天井を見上げた。
「答えは、出なかった」
アイリスは、黙っていた。
「出なかったけど、一つだけわかったことがある」
「何ですか」
「俺は、答えが出ないうちは動かない。それだけだ」
アイリスは、3秒黙った。
「……それは、答えではないのですか」
航は、少し笑った。
「かもしれない」
時計を見た。午後11時15分。
「アイリス。初詣に行ってくる」
「お気をつけて、マスター」
航は、マギ・ハブの鍵を閉めた。
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2001年1月1日。月曜日。
三郷。香取神社。
午前0時10分。
初詣の列は、長かった。
航は、その列の中に立っていた。
冬の夜。白い息。周囲には、家族連れや若いカップルが並んでいる。甘酒の匂いが漂う。どこかで子供が泣いている。
航は、一人だった。
39歳の精神が、14歳の体で、年越しの列に並んでいる。
2026年では、こんなことはしなかった。大晦日はオフィスで仕事をしていた。初詣にも行かなかった。神様に頼むくらいなら、コードを1行でも多く書く方がマシだと思っていた。
今は、列に並んでいる。
5円玉を握りしめて。
ポケットの中で、F501iが振動した。
画面を見る。
『マスター。明けましておめでとうございます』
航は、片手で返信を打った。
『ありがとう。お前もな』
『私に「年」という概念はありませんが、マスターと共に新しい時間を迎えられることを、嬉しく思います』
航は、F501iをポケットに戻した。
空を見上げた。
冬の星空。オリオン座が、三郷の低い空にくっきりと見える。
2026年の東京では、オリオン座はビルの光に溶けて見えなかった。三郷の空は暗い。だから、星が見える。
列が進んだ。航も、一歩前に出た。
拝殿が近づいてくる。
航の番が来た。
賽銭箱に、5円玉を投げ入れる。
鈴を鳴らす。
二礼。二拍手。
航は、目を閉じた。
何を願えばいい。
崩壊を止めること。プロメテウスを追うこと。ADSLの開通を待つこと。霧島の背後にいる奴を見つけること。
全部、自分の力でやることだ。神様に頼むことじゃない。
だったら。
航は、一つだけ願った。
間違えないように。
一礼。
目を開けた。
参道を歩く。屋台の焼きそばの匂い。たこ焼きの煙。
航は、焼きそばを一つ買った。400円。パックに入った、祭りの味。
ベンチに座って、割り箸で食べた。
熱かった。紅生姜が多すぎた。
14歳の体で、一人で食べる正月の焼きそば。
悪くなかった。
F501iが震えた。
『マスター。焼きそば、おいしいですか』
航は、参道のどこかに監視カメラがあるわけでもないのに、と思った。F501iのマイクが拾ったのだろう。屋台のおばちゃんとの会話を。
返信を打った。
『紅生姜が多い』
『次回の購入時に、「紅生姜少なめ」と注文することを推奨します』
航は、笑った。
声を出して、笑った。
14歳の体で、三郷の神社のベンチで、焼きそばを食べながら笑っている。
2026年の自分が見たら、何と言うだろう。
「馬鹿みたいだ」と言うだろう。
でも、2026年の自分は、初詣にも行かず、焼きそばも食べず、一人でオフィスで死んだ。
今の自分は、ここにいる。
焼きそばは熱くて、紅生姜が多くて、アイリスが馬鹿なことを言っている。
航は、焼きそばを食べ終わった。
パックをゴミ箱に捨てて、参道を歩いた。
帰り道。三郷の住宅街。静かだった。どこかの家からテレビの音が漏れている。紅白の余韻か、お笑い番組か。
空を見上げた。
オリオン座が、まだ見えている。
「アイリス」
F501iに向かって、小声で言った。
『はい、マスター』
「2001年だ」
『はい。21世紀です』
「ADSLは、いつ来る」
『NTT東日本から工事日程の連絡はまだありません。早ければ1月中旬、遅ければ2月になる可能性があります』
「待つしかないか」
『はい。ただし、待っている間にできることはあります』
「何だ」
『佐伯先生が「年が明けたら、また話そう」と言いました。年は、明けました』
航は、立ち止まった。
三郷の夜道。街灯の下。白い息。
「……そうだな」
『マスターの答えが出ていなくても、佐伯先生は待っていると思います。答えが出ていないまま会いに行くことも、一つの答えです』
航は、歩き出した。
ポケットの中のF501iが、かすかに温かかった。
バッテリーの熱だ。
でも、それでいい。
2001年。
三郷の空に、星が見える。
ADSLはまだ来ない。答えもまだ出ていない。プロメテウスはまだ動いている。霧島の背後にいる奴は、まだ見えない。
何も解決していない。
だが、航は笑った。焼きそばを食べた。アイリスが紅生姜の注文方法を提案した。
それだけの元旦だった。
それだけで、十分だった。




