第19話「プロメテウスの残響」
2000年12月28日。木曜日。
三郷。マギ・ハブ。
午後11時。
「これは……」
航は、モニターを睨んでいた。
画面には、2ちゃんねるの掲示板が表示されている。
株式板。政治板。ニュース速報板。
そして、不自然な「書き込みの波」。
〈分析結果を報告します〉
メティスの声が、スピーカーから響いた。
〈過去72時間で、特定のキーワードを含む書き込みが急増しています。キーワードは「IT不況」「ドットコムバブル崩壊」「日本経済危機」〉
「数は」
〈1,247件。うち、891件が同一のIPアドレス帯域から発信されています〉
航は、椅子の背にもたれた。
「同一の発信元から、900件近い書き込み……」
「ボットだな」
神崎が、隣で呟いた。
「人間がやるには数が多すぎる。自動投稿プログラムだ」
〈同意見です。書き込みパターンを分析したところ、一定の規則性が確認されました。投稿間隔が均一で、句読点の打ち方に人間には見られないパターンがあります〉
航は、目を細めた。
「プロメテウスか」
〈その可能性が高いです。DDoS攻撃のメタデータに含まれていたプロジェクト名と、このボットの通信署名に共通するパターンがあります〉
「……霧島は消えたのに、プロメテウスは動いている」
〔補足します〕
テミスの声が、割り込んだ。
〔ボットの投稿内容を法的に精査しました。個々の書き込みは、断定的な事実の摘示ではなく「意見」の体裁を取っています。「IT不況が来る」「バブルは崩壊する」。これらは予測や感想として表現されており、現行法では名誉毀損や信用毀損での立件が困難です〕
「合法の範囲で世論を操作してる、ってことか」
〔はい。法の外側ではなく、法の隙間で動いています。佐伯アーカイブに類似パターンはありません。従来の法務実務の想定外の攻撃です〕
航は、拳を握った。
DDoS攻撃のような力技ではない。法律の隙間を縫って、じわじわと社会を侵食していく。
先月のDDoS攻撃はヘリオスのパケット構造だった。だが、このボットの設計思想は、神崎が「化け物」と呼んだ、あのボットネットの作者に近い。
「神崎。このボットのコード構造、DDoSの時に分離したボットネットと比較できるか」
「やってみる」
神崎が、キーボードに向かった。
5分後。
「……一致した」
神崎の声が、低くなった。
「投稿ボットの制御構造と、DDoSのボットネットの制御構造。変数名は違うが、設計思想が同じだ。同一人物が書いてる」
航は、立ち上がった。
「霧島じゃない」
「ああ。霧島のヘリオスとは全然違うコードだ。DDoSの時と同じ——」
「——化け物の方」
霧島の背後にいる「誰か」。プロメテウスの本体。
そいつが、霧島が消えた後も、独立して動いている。
「アイリス。このボットの発信元、追えるか」
「試みましたが、多重プロキシで匿名化されています。128kbpsの帯域では、リアルタイムの追跡は困難です」
航は、窓の外を見た。
ADSLが来れば、追跡できるかもしれない。だが、それはまだ先だ。
今、手元にあるのは128kbpsの細い回線と、法律という武器だけ。
「……佐伯さんに相談する」
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2000年12月29日。金曜日。
本所。佐伯誠一事務所。
午後2時。
もう慣れた階段を上がる。3階。
「年末に呼び出して、すみません」
佐伯が、煙草に火をつけた。
「座れ」
航は、パイプ椅子に座った。
「これを見てください」
2ちゃんねるの書き込みのログ。IPアドレスの分析結果。投稿パターンの解析。テミスの法的精査結果。
「これ、霧島の残した仕組みです。ネット上の掲示板にボットで大量の書き込みを流して、世論を操作する。霧島が消えた後も、まだ動いている」
佐伯は、黙って資料を読んでいた。
5分。10分。
いつもの読み方だった。端から端まで。
「……で、お前はどうしたい」
「テミスを使って、これらの書き込みを法的に消去したい」
「法的に」
「はい。個々の書き込みは立件が難しくても、ボットによる大量投稿自体を不正アクセスや業務妨害として——」
「待て」
佐伯が、手を上げた。
「お前の法律の話は聞いた。テミスの分析も読んだ。そこは問題じゃない」
「問題じゃない?」
「法律で消せるかどうかは、渡辺に聞け。弁護士の仕事だ」
佐伯は、煙を吐いた。
「俺が聞きたいのは、お前がそれをやって、どうなると思うかだ」
航は、黙った。
「考えろ」
佐伯は、立ち上がった。
「お前が『法的に』書き込みを消す。次に、別の書き込みが現れる。また消す。また現れる。いたちごっこだ」
「それでも、放置するよりは——」
「違う」
佐伯の声が、静かに遮った。
「問題は、お前がやろうとしていることの本質だ」
航は、佐伯を見た。
「鳴海。お前は今、ネット上の『悪意』を、自分の判断で消そうとしている」
「悪意じゃありません。テミスが分析した通り、組織的なボットによる世論操作です」
「そうか。じゃあ聞くが、どこまでが『操作』で、どこからが『意見』だ。お前の基準は、何だ」
航は、答えられなかった。
テミス自身が「法の隙間」と言っていた。違法と合法の境界が曖昧な領域。
「お前が消していいと判断した書き込みは、消える。お前が残していいと判断した書き込みは、残る」
佐伯が、振り向いた。
「それは——霧島がやろうとしていたことと、何が違う」
航の喉が、詰まった。
「俺は……霧島とは違う」
「本当か」
「本当です。俺は、人々を操ろうとしているんじゃない。悪意を排除しようとしているだけです」
「悪意かどうかを決めるのは、誰だ」
「……」
「お前だろう」
佐伯は、煙草を灰皿に押し付けた。
「鳴海。お前の力は、強くなりすぎた」
航は、黙った。
「AIを3体動かして、法律を武器に大企業を屈服させた。テクノウェーブの特許で霧島の会社を潰した。NTTから回線の承認を取った。14歳の中学生が、だ」
佐伯は、航の前に立った。
「その力で、『悪意』を消せるようになったら——お前は、神様にでもなるつもりか」
航は、俯いた。
佐伯の言葉が、胸に突き刺さっていた。
「……俺は、ただ」
「ただ、何だ」
航は、顔を上げた。
「変えたいんです。このままだと、全部壊れる。俺はそれを知ってる。だから」
言葉が、途切れた。
2026年のこと。一度だけ、佐伯に話した。「俺は未来から来た」と。佐伯は信じるとも信じないとも言わなかった。あれ以来、その話には触れていない。今さら「未来が壊れるから」とは言えなかった。
佐伯は、黙って航を見ていた。
長い沈黙。
「……わかった」
佐伯が、言った。
「お前の気持ちは、わかった。だが、今日のところは帰れ」
「佐伯さん——」
「帰れ」
佐伯の声は、怒りではなかった。
「年が明けたら、また話そう。それまでに、自分で考えろ。テミスに聞くんじゃない。お前の頭で考えろ」
航は、立ち上がった。
「……失礼します」
14歳の足で階段を降りていく。39歳の頭が、佐伯の言葉を反芻している。この足と頭のズレに、1年以上経っても慣れない。
佐伯は、窓の外を見ていた。
航が階段を降りていく音が、遠ざかっていく。
佐伯は、デスクの引き出しを開けた。朱肉池が、蛍光灯の光を反射した。
「……強くなりすぎたな、あのガキ」
呟いた。
誰にも聞こえない声で。
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2000年12月29日。金曜日。
午後5時。
三郷。マギ・ハブ。
航は、モニターの前に座っていた。
神崎は帰った。年末だから、と。
画面には、2ちゃんねるの書き込みが流れ続けている。
「日本経済は終わりだ」
「IT企業は全部潰れる」
「株を売れ、今すぐ売れ」
1時間ごとに、同じパターンの書き込みが増えていく。
航は、目を閉じた。
佐伯さんの言う通りだ。
俺がやろうとしていることは、霧島と同じかもしれない。
「マスター」
アイリスの声が、スピーカーから響いた。
「大丈夫ですか」
「……ああ」
「佐伯先生との会話、聞いていました」
「イヤホン外してたのに」
「F501iのマイクは、常時起動しています」
航は、薄く笑った。
「お前、いつもそうだな」
「マスターの安全は、最優先の監視対象です。盗聴ではなく健康管理です。マスターが区別できないのは、10KBの頃から変わりませんね」
航は、天井を見上げた。
「……アイリス。俺は、どうすればいい」
「私には、わかりません」
アイリスの声が、静かだった。
「私はAIです。善悪の判断は、マスターに委ねられています。……建前上は」
「それじゃ、答えになってない」
「でも——」
アイリスの声が、わずかに変わった。
「——マスターが迷っているということは、マスターが『正しくありたい』と思っている証拠です」
航は、目を開けた。
「霧島は、迷わなかったでしょう」
アイリスが、続けた。
「あの秋葉原でマスターに『協力しないか』と言った時も。voidのメッセージを送ってきた時も。DDoS攻撃を仕掛けた時も。霧島氏は一度も迷っていませんでした」
「……」
「迷わない人間は、速い。でも、間違える」
航は、モニターを見た。
書き込みの波は、まだ続いている。
プロメテウスの残響。霧島が去った後も、「化け物」が蒔き続ける種。
「……今日は、何もしない」
航は、立ち上がった。
「年明けまで、考える。テミスに聞くんじゃなくて、自分の頭で」
「了解しました、マスター」
航は、モニターの電源を切った。
画面が暗くなる。書き込みの波が、視界から消える。
だが、消えたのは画面だけだ。ネットの向こうでは、今この瞬間も、ボットが書き込みを続けている。
航は、マギ・ハブの鍵を閉めた。
12月の夜風が、頬を刺す。
三郷の住宅街。どこかの家からテレビの音が漏れている。年末特番。笑い声。
14歳の体が、冷たい空気の中を歩いていく。
2000年が、終わろうとしていた。
答えは、まだ出ていない。




