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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第22話「1.5Mbpsの産声」

三郷。マギ・ハブ。午前9時。


NTTの工事車両が、敷地の前に停まっていた。


白い車体に青いロゴ。作業員が二人、工具箱を抱えて降りてくる。


航は、1階の入口に立っていた。


隣に、神崎。


「……来たな」


「来た」


神崎の声が、乾いていた。


作業員の一人が、こちらを見た。


「マギ・システムズさん? ADSL回線の設備導入工事です」


「お願いします」


航が答えた。作業員は14歳の顔を一瞬だけ見て、それ以上は何も聞かなかった。NTTの現場の人間は、契約者が誰だろうと、工事指示書通りに動く。


作業員が建物の中に入っていく。


神崎が、腕を組んだ。


「鳴海。俺、ISDNの前のあの音、もう一回聞きたかったな」


「は?」


「ダイヤルアップ。ピーガガガガってやつ。あれが鳴って、繋がるまでの緊張感。ADSLになったら、もう二度と聞けないだろ」


「128kbpsで年越したお前が何言ってんだ」


航は、工事車両の向こうに広がる三郷の風景を見た。


1月の田んぼ。霜で白い。TXの予定地では、重機が動いている。祝日じゃないから、動く。


あと4年で、ここに駅ができる。


その頃には、光ファイバーの時代が来る。ADSLすら過去のものになる。


だが、今日。2001年1月22日。


1.5Mbpsは、航にとって最初の「太い血管」だ。


---


午前11時。


「工事完了しました。接続テストをお願いします」


作業員が帰っていった。


サーバールームに、新しい機器が増えている。ADSLモデム。NTT純正。白い筐体に、前面のLEDランプが4つ並んでいる。POWER。ADSL。LAN。ALARM。


航は、モデムの電源を入れた。


POWERが点灯する。ADSLランプが点滅を始めた。回線同期を試みている。


10秒。20秒。


ADSLランプが、点滅から——点灯に変わった。


同期完了。


「アイリス。回線速度を計測しろ」


「計測中」


アイリスの声が、スピーカーから響いた。


「下り1.1Mbps。上り380kbps」


「1.1……理論値は1.5だろ。7割か」


神崎が、モニターに張り付いた。


「ADSLの速度はNTT収容局からの距離で決まります」


アイリスが、補足した。


「マギ・ハブから三郷電話局まで、直線で約1.5キロ。メタル回線の実経路はもう少し長い。距離による信号減衰で、理論値は出ません」


「じゃあ、これが限界か」


「いいえ。むしろ好条件です。2001年1月の三郷でADSLを使っている人間はほぼいません。同じケーブル束の中に他のADSL信号がなければ、干渉ノイズが発生しない。この速度が安定して出るのは、マスターが最初のユーザーだからです」


神崎が、口笛を吹いた。


「独占か。贅沢だな」


「贅沢ではありません。先行者利益です」


航は、画面を見ていた。


1.1Mbps。ISDNの128kbpsの約8倍。


128kbpsの細い糸で半年戦ってきた体には、この速度差が骨の髄まで沁みる。


「おい、鳴海。Yahoo! JAPAN、開いてみろ」


航が、ブラウザを立ち上げた。


Yahoo! JAPANのトップページ。


ISDNでは、画像が上から少しずつ表示されていた。テキストが先に来て、画像はじわじわと。読み込みに15秒はかかっていた。


3秒。


ページ全体が、表示された。


「……速い」


神崎が、呟いた。


「速すぎる。これ、本当にこのボロ工場の回線か?」


「ボロ工場言うな」


〈回線同期を確認しました。メティスの市場データ取得モジュールを、ADSL対応に切り替えます〉


メティスの声が、別のスピーカーから響く。


〈これまでISDNの帯域制約で15分かかっていた日次データの取得が、推定2分に短縮されます〉


〔テミスからも報告します〕


テミスの声。


〔法令データベースの同期速度が向上しました。特許庁、法務局、裁判所の公開情報を、リアルタイムに近い精度で監視できます〕


三つの声が、サーバールームに重なった。


航は、モデムのADSLランプを見ていた。緑色の光。点灯。安定。


「マスター」


アイリスの声。


「感想を述べてもよろしいですか」


「言ってみろ」


「1.1Mbpsは理論値の73%です。ただし、他のユーザーが増えれば干渉で低下します。今の速度を楽しめるのは、三郷がまだブロードバンドの僻地だからです。皮肉ですね」


「毒舌は帯域に関係なく安定してるな」


「品質管理です」


航は、椅子の背にもたれた。


39歳の記憶が、2026年のオフィスを思い出していた。光回線。クラウドに分散したAI群。ミリ秒単位のレスポンス。


あの世界から見れば、1.1Mbpsは蛇口から出る水滴だ。


だが、14歳の航にとって——128kbpsの井戸水で戦ってきた航にとって、この1.1Mbpsは川だった。


初めて、流れる水で手を洗える。


---


午後1時。


神崎が、コンビニの袋を提げて戻ってきた。


「祝いだ」


袋の中身。肉まん。2個。


「コンビニの肉まんで祝いかよ」


「文句あるか。コンビニの肉まんを馬鹿にすんな」


航は、肉まんを受け取った。


温かい。包みの紙が、蒸気で湿っている。


一口、齧った。


肉汁が、口の中に広がる。


39歳の舌が「コンビニの既製品だな」と判定する。14歳の胃が「うまい」と受け取る。


神崎が、隣で肉まんを頬張りながら言った。


「で、最初に何する?」


航は、肉まんを飲み込んだ。


「ボットだ」


「プロメテウスか」


「ああ。128kbpsじゃ見えなかったものが、1.1Mbpsなら見える」


航は、モニターに向き直った。


「アイリス。2ちゃんねるのプロメテウス関連ボットの通信ログ、12月分を全件取得。帯域に余裕があるうちに、パケットの中身まで解析しろ」


「了解しました。推定所要時間、8分」


ISDNなら2時間かかった処理だ。


「メティス。日経平均の正史乖離、最新値を出せ」


〈計測中〉


画面に、グラフが表示された。


青い線と赤い線。航の記憶にある正史と、現実の株価推移。


〈2001年1月22日時点の日経平均。正史データ:13,840円。現実値:13,317円。乖離:マイナス523円。前回計測(12月末)より47円拡大しています〉


「まだ広がってるか」


〈はい。ただし、拡大のペースは鈍化しています。マスターの直接的な市場介入が減少しているためと推測されます〉


航は、グラフを見つめた。


523円。


小さな数字。だが、それは航がこの時代に存在していることの証拠だ。


俺がいるだけで、歴史は変わる。


佐伯さんに言われたことが、頭をよぎった。


「字じゃない。紙を読め」


パケットも同じだ。データの字面だけじゃない。パケットの「紙」を読む。


---


午後3時。


「マスター。ボットの通信ログ解析が完了しました」


アイリスの声が響いた。


航は、モニターに向き直った。


「報告しろ」


「12月中のプロメテウス関連ボットの投稿総数、4,891件。うち、通信ヘッダにメタデータが含まれていたものが312件。128kbpsの環境では、このメタデータの取得が間に合わず、投稿本文のみの分析に留まっていました」


「1.1Mbpsで、初めて見えたデータか」


「はい。そして、このメタデータの中に」


画面に、文字列が表示された。


「特定のパターンを検出しました」


神崎が、画面を覗き込んだ。


「何だ、これ。投稿ヘッダに埋め込まれた識別子か?」


〈補足します〉


メティスの声。


〈312件のメタデータを統計分析した結果、投稿順序に一定のアルゴリズムが確認されました。一見ランダムに見えますが、投稿のタイムスタンプを16進数に変換すると、特定の規則性が浮かび上がります〉


画面に、数列が表示された。


航は、目を細めた。


「これは……」


〔テミスから報告します〕


テミスの声が、割り込んだ。


〔このタイムスタンプの規則性は、暗号化通信のハンドシェイクパターンに類似しています。具体的には、テクノウェーブが1997年に出願した特許——『分散ノード間の暗号化通信プロトコル』——のアルゴリズムと構造的に一致します〕


航の指が、キーボードの上で止まった。


テクノウェーブ。


霧島がパクった、あの倒産した会社の技術。


「神崎。前にDDoSのパケットを分離した時、二つの設計思想があっただろう」


「ああ。ヘリオス——霧島が書いた荒削りなコード。そして、ボットネット——化け物が書いた研ぎ澄まされたコード」


「このボットのタイムスタンプ制御は、どっちだ」


神崎が、画面を睨んだ。


5秒。


「……化け物の方だ」


神崎の声が、低くなった。


「ヘリオスじゃない。ボットネットと同じ設計思想。しかも、テクノウェーブのプロトコルを使ってる」


航は、椅子から立ち上がった。


「テクノウェーブの技術を知っている人間は限られる。霧島は知っていた。だが、霧島はヘリオスを書いた側だ。このボットを書いたのは、霧島じゃない」


〔補足します。テクノウェーブの従業員は破産時3名。代表取締役と技術者2名。代表は破産後に死亡。技術者2名の消息は、公開情報では追えていません〕


航は、窓の外を見た。


1月の三郷。低い太陽。


テクノウェーブの技術者。


霧島にテクノウェーブの技術を渡した「誰か」。ボットネットを書いた「化け物」。


同一人物か。それとも別か。


まだ見えない。だが、指紋が増えた。


「アイリス。このパターンのデータ、全件保存。インデックスは『プロメテウス_指紋_001』。テクノウェーブの特許明細書との照合結果も添付しろ」


「了解しました」


---


午後5時。


F501iが鳴った。


着信。番号を見る。佐伯事務所。


航は、イヤホンではなく、電話として受けた。


「佐伯さん」


「渡辺から連絡があった」


佐伯の声。煙草を咥えたまま話している。


「公示送達が完了した。霧島への訴状は、裁判所の掲示板に2週間掲示された。送達の効力が発生した」


「つまり——」


「欠席裁判に進める。渡辺が口頭弁論の期日を入れる。霧島が出てこなければ、判決だ」


航は、目を閉じた。


判決。


佐伯の言葉が甦る。テミスが以前引用した、佐伯の記録。


「判決は武器ではない。杭だ。地面に打ち込んでおけば、相手がどこに行っても引っかかる」


霧島は消えた。ヘリオスの通信は10月3日以降、完全に途絶えている。ケイマン諸島に8,700万を逃がして、雲隠れした。


だが、判決が出れば——霧島怜という名前に、杭が打たれる。


「佐伯さん。ありがとうございます」


「俺に礼を言うな。渡辺に言え」


電話が切れた。


航は、F501iをポケットに戻した。


---


深夜。午前1時。


神崎は仮眠室に引っ込んだ。


航は、一人でモニターの前にいた。


画面には、1.1Mbpsで取得した膨大なログが流れている。128kbpsの時代には見えなかったノイズの海。その中に、プロメテウスの指紋が混じっている。


「マスター」


「なんだ」


「reprompt.comの掲示板に、新しい投稿がありました」


航の指が、止まった。


「void_1337か」


「いいえ。別のアカウントです。アカウント名は『1337_admin』。投稿時刻は、本日午後11時47分」


「表示しろ」


画面が切り替わった。


投稿日時:2001年1月22日 23:47:12


本文:


回線、太くなったね。


航は、画面を睨んだ。


void_1337とは別のアカウント。だが、口調が似ている。


「IPアドレスは」


「多重プロキシ経由。ただし、経由パターンがvoid_1337と91%一致します」


「同一人物か」


「断定はできません。しかし、同一のインフラを使っている可能性は高い」


航は、椅子の背にもたれた。


Lは、ADSLの開通を知っている。


工事は今朝だ。まだ12時間しか経っていない。


NTTの工事情報に、アクセスしたのか。それとも、マギ・ハブの通信そのものを、外部から観測したのか。


「アイリス。この投稿も記録しろ。インデックスは『L_contact_002』」


「了解しました。なお、前回のL_contact_001との間隔は14日です。2週間に1回のペースで接触してきていることになります」


「定期連絡のつもりか」


「あるいは、マスターの反応を観察しているのかもしれません」


航は、モデムのADSLランプを見た。


緑色の光が、暗い部屋の中で静かに点灯している。


1.1Mbps。太くなった回線。


それは、こちらから世界を覗く窓が広がったことを意味する。


だが同時に——世界から覗かれる窓も、広がった。


航は、モニターの電源を切らなかった。


今夜は、ログを流し続ける。1.1Mbpsの帯域で、プロメテウスのパケットを一つ残らず記録する。


128kbpsでは見えなかったものが、ここにある。


モデムの排熱が、足元に溜まっている。サーバーのファンが、低く唸っている。


航は、肉まんの包み紙をゴミ箱に捨てた。


指先に、まだ油の感触が残っている。


佐伯の茶とは違う。コンビニの、安い、温かい油。


でも——胃の中に、確かに残っている。


1月の深夜。三郷。


1.1Mbpsの回線が、暗い工場の中で脈打っていた。

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