第22話「1.5Mbpsの産声」
三郷。マギ・ハブ。午前9時。
NTTの工事車両が、敷地の前に停まっていた。
白い車体に青いロゴ。作業員が二人、工具箱を抱えて降りてくる。
航は、1階の入口に立っていた。
隣に、神崎。
「……来たな」
「来た」
神崎の声が、乾いていた。
作業員の一人が、こちらを見た。
「マギ・システムズさん? ADSL回線の設備導入工事です」
「お願いします」
航が答えた。作業員は14歳の顔を一瞬だけ見て、それ以上は何も聞かなかった。NTTの現場の人間は、契約者が誰だろうと、工事指示書通りに動く。
作業員が建物の中に入っていく。
神崎が、腕を組んだ。
「鳴海。俺、ISDNの前のあの音、もう一回聞きたかったな」
「は?」
「ダイヤルアップ。ピーガガガガってやつ。あれが鳴って、繋がるまでの緊張感。ADSLになったら、もう二度と聞けないだろ」
「128kbpsで年越したお前が何言ってんだ」
航は、工事車両の向こうに広がる三郷の風景を見た。
1月の田んぼ。霜で白い。TXの予定地では、重機が動いている。祝日じゃないから、動く。
あと4年で、ここに駅ができる。
その頃には、光ファイバーの時代が来る。ADSLすら過去のものになる。
だが、今日。2001年1月22日。
1.5Mbpsは、航にとって最初の「太い血管」だ。
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午前11時。
「工事完了しました。接続テストをお願いします」
作業員が帰っていった。
サーバールームに、新しい機器が増えている。ADSLモデム。NTT純正。白い筐体に、前面のLEDランプが4つ並んでいる。POWER。ADSL。LAN。ALARM。
航は、モデムの電源を入れた。
POWERが点灯する。ADSLランプが点滅を始めた。回線同期を試みている。
10秒。20秒。
ADSLランプが、点滅から——点灯に変わった。
同期完了。
「アイリス。回線速度を計測しろ」
「計測中」
アイリスの声が、スピーカーから響いた。
「下り1.1Mbps。上り380kbps」
「1.1……理論値は1.5だろ。7割か」
神崎が、モニターに張り付いた。
「ADSLの速度はNTT収容局からの距離で決まります」
アイリスが、補足した。
「マギ・ハブから三郷電話局まで、直線で約1.5キロ。メタル回線の実経路はもう少し長い。距離による信号減衰で、理論値は出ません」
「じゃあ、これが限界か」
「いいえ。むしろ好条件です。2001年1月の三郷でADSLを使っている人間はほぼいません。同じケーブル束の中に他のADSL信号がなければ、干渉ノイズが発生しない。この速度が安定して出るのは、マスターが最初のユーザーだからです」
神崎が、口笛を吹いた。
「独占か。贅沢だな」
「贅沢ではありません。先行者利益です」
航は、画面を見ていた。
1.1Mbps。ISDNの128kbpsの約8倍。
128kbpsの細い糸で半年戦ってきた体には、この速度差が骨の髄まで沁みる。
「おい、鳴海。Yahoo! JAPAN、開いてみろ」
航が、ブラウザを立ち上げた。
Yahoo! JAPANのトップページ。
ISDNでは、画像が上から少しずつ表示されていた。テキストが先に来て、画像はじわじわと。読み込みに15秒はかかっていた。
3秒。
ページ全体が、表示された。
「……速い」
神崎が、呟いた。
「速すぎる。これ、本当にこのボロ工場の回線か?」
「ボロ工場言うな」
〈回線同期を確認しました。メティスの市場データ取得モジュールを、ADSL対応に切り替えます〉
メティスの声が、別のスピーカーから響く。
〈これまでISDNの帯域制約で15分かかっていた日次データの取得が、推定2分に短縮されます〉
〔テミスからも報告します〕
テミスの声。
〔法令データベースの同期速度が向上しました。特許庁、法務局、裁判所の公開情報を、リアルタイムに近い精度で監視できます〕
三つの声が、サーバールームに重なった。
航は、モデムのADSLランプを見ていた。緑色の光。点灯。安定。
「マスター」
アイリスの声。
「感想を述べてもよろしいですか」
「言ってみろ」
「1.1Mbpsは理論値の73%です。ただし、他のユーザーが増えれば干渉で低下します。今の速度を楽しめるのは、三郷がまだブロードバンドの僻地だからです。皮肉ですね」
「毒舌は帯域に関係なく安定してるな」
「品質管理です」
航は、椅子の背にもたれた。
39歳の記憶が、2026年のオフィスを思い出していた。光回線。クラウドに分散したAI群。ミリ秒単位のレスポンス。
あの世界から見れば、1.1Mbpsは蛇口から出る水滴だ。
だが、14歳の航にとって——128kbpsの井戸水で戦ってきた航にとって、この1.1Mbpsは川だった。
初めて、流れる水で手を洗える。
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午後1時。
神崎が、コンビニの袋を提げて戻ってきた。
「祝いだ」
袋の中身。肉まん。2個。
「コンビニの肉まんで祝いかよ」
「文句あるか。コンビニの肉まんを馬鹿にすんな」
航は、肉まんを受け取った。
温かい。包みの紙が、蒸気で湿っている。
一口、齧った。
肉汁が、口の中に広がる。
39歳の舌が「コンビニの既製品だな」と判定する。14歳の胃が「うまい」と受け取る。
神崎が、隣で肉まんを頬張りながら言った。
「で、最初に何する?」
航は、肉まんを飲み込んだ。
「ボットだ」
「プロメテウスか」
「ああ。128kbpsじゃ見えなかったものが、1.1Mbpsなら見える」
航は、モニターに向き直った。
「アイリス。2ちゃんねるのプロメテウス関連ボットの通信ログ、12月分を全件取得。帯域に余裕があるうちに、パケットの中身まで解析しろ」
「了解しました。推定所要時間、8分」
ISDNなら2時間かかった処理だ。
「メティス。日経平均の正史乖離、最新値を出せ」
〈計測中〉
画面に、グラフが表示された。
青い線と赤い線。航の記憶にある正史と、現実の株価推移。
〈2001年1月22日時点の日経平均。正史データ:13,840円。現実値:13,317円。乖離:マイナス523円。前回計測(12月末)より47円拡大しています〉
「まだ広がってるか」
〈はい。ただし、拡大のペースは鈍化しています。マスターの直接的な市場介入が減少しているためと推測されます〉
航は、グラフを見つめた。
523円。
小さな数字。だが、それは航がこの時代に存在していることの証拠だ。
俺がいるだけで、歴史は変わる。
佐伯さんに言われたことが、頭をよぎった。
「字じゃない。紙を読め」
パケットも同じだ。データの字面だけじゃない。パケットの「紙」を読む。
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午後3時。
「マスター。ボットの通信ログ解析が完了しました」
アイリスの声が響いた。
航は、モニターに向き直った。
「報告しろ」
「12月中のプロメテウス関連ボットの投稿総数、4,891件。うち、通信ヘッダにメタデータが含まれていたものが312件。128kbpsの環境では、このメタデータの取得が間に合わず、投稿本文のみの分析に留まっていました」
「1.1Mbpsで、初めて見えたデータか」
「はい。そして、このメタデータの中に」
画面に、文字列が表示された。
「特定のパターンを検出しました」
神崎が、画面を覗き込んだ。
「何だ、これ。投稿ヘッダに埋め込まれた識別子か?」
〈補足します〉
メティスの声。
〈312件のメタデータを統計分析した結果、投稿順序に一定のアルゴリズムが確認されました。一見ランダムに見えますが、投稿のタイムスタンプを16進数に変換すると、特定の規則性が浮かび上がります〉
画面に、数列が表示された。
航は、目を細めた。
「これは……」
〔テミスから報告します〕
テミスの声が、割り込んだ。
〔このタイムスタンプの規則性は、暗号化通信のハンドシェイクパターンに類似しています。具体的には、テクノウェーブが1997年に出願した特許——『分散ノード間の暗号化通信プロトコル』——のアルゴリズムと構造的に一致します〕
航の指が、キーボードの上で止まった。
テクノウェーブ。
霧島がパクった、あの倒産した会社の技術。
「神崎。前にDDoSのパケットを分離した時、二つの設計思想があっただろう」
「ああ。ヘリオス——霧島が書いた荒削りなコード。そして、ボットネット——化け物が書いた研ぎ澄まされたコード」
「このボットのタイムスタンプ制御は、どっちだ」
神崎が、画面を睨んだ。
5秒。
「……化け物の方だ」
神崎の声が、低くなった。
「ヘリオスじゃない。ボットネットと同じ設計思想。しかも、テクノウェーブのプロトコルを使ってる」
航は、椅子から立ち上がった。
「テクノウェーブの技術を知っている人間は限られる。霧島は知っていた。だが、霧島はヘリオスを書いた側だ。このボットを書いたのは、霧島じゃない」
〔補足します。テクノウェーブの従業員は破産時3名。代表取締役と技術者2名。代表は破産後に死亡。技術者2名の消息は、公開情報では追えていません〕
航は、窓の外を見た。
1月の三郷。低い太陽。
テクノウェーブの技術者。
霧島にテクノウェーブの技術を渡した「誰か」。ボットネットを書いた「化け物」。
同一人物か。それとも別か。
まだ見えない。だが、指紋が増えた。
「アイリス。このパターンのデータ、全件保存。インデックスは『プロメテウス_指紋_001』。テクノウェーブの特許明細書との照合結果も添付しろ」
「了解しました」
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午後5時。
F501iが鳴った。
着信。番号を見る。佐伯事務所。
航は、イヤホンではなく、電話として受けた。
「佐伯さん」
「渡辺から連絡があった」
佐伯の声。煙草を咥えたまま話している。
「公示送達が完了した。霧島への訴状は、裁判所の掲示板に2週間掲示された。送達の効力が発生した」
「つまり——」
「欠席裁判に進める。渡辺が口頭弁論の期日を入れる。霧島が出てこなければ、判決だ」
航は、目を閉じた。
判決。
佐伯の言葉が甦る。テミスが以前引用した、佐伯の記録。
「判決は武器ではない。杭だ。地面に打ち込んでおけば、相手がどこに行っても引っかかる」
霧島は消えた。ヘリオスの通信は10月3日以降、完全に途絶えている。ケイマン諸島に8,700万を逃がして、雲隠れした。
だが、判決が出れば——霧島怜という名前に、杭が打たれる。
「佐伯さん。ありがとうございます」
「俺に礼を言うな。渡辺に言え」
電話が切れた。
航は、F501iをポケットに戻した。
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深夜。午前1時。
神崎は仮眠室に引っ込んだ。
航は、一人でモニターの前にいた。
画面には、1.1Mbpsで取得した膨大なログが流れている。128kbpsの時代には見えなかったノイズの海。その中に、プロメテウスの指紋が混じっている。
「マスター」
「なんだ」
「reprompt.comの掲示板に、新しい投稿がありました」
航の指が、止まった。
「void_1337か」
「いいえ。別のアカウントです。アカウント名は『1337_admin』。投稿時刻は、本日午後11時47分」
「表示しろ」
画面が切り替わった。
投稿日時:2001年1月22日 23:47:12
本文:
回線、太くなったね。
航は、画面を睨んだ。
void_1337とは別のアカウント。だが、口調が似ている。
「IPアドレスは」
「多重プロキシ経由。ただし、経由パターンがvoid_1337と91%一致します」
「同一人物か」
「断定はできません。しかし、同一のインフラを使っている可能性は高い」
航は、椅子の背にもたれた。
Lは、ADSLの開通を知っている。
工事は今朝だ。まだ12時間しか経っていない。
NTTの工事情報に、アクセスしたのか。それとも、マギ・ハブの通信そのものを、外部から観測したのか。
「アイリス。この投稿も記録しろ。インデックスは『L_contact_002』」
「了解しました。なお、前回のL_contact_001との間隔は14日です。2週間に1回のペースで接触してきていることになります」
「定期連絡のつもりか」
「あるいは、マスターの反応を観察しているのかもしれません」
航は、モデムのADSLランプを見た。
緑色の光が、暗い部屋の中で静かに点灯している。
1.1Mbps。太くなった回線。
それは、こちらから世界を覗く窓が広がったことを意味する。
だが同時に——世界から覗かれる窓も、広がった。
航は、モニターの電源を切らなかった。
今夜は、ログを流し続ける。1.1Mbpsの帯域で、プロメテウスのパケットを一つ残らず記録する。
128kbpsでは見えなかったものが、ここにある。
モデムの排熱が、足元に溜まっている。サーバーのファンが、低く唸っている。
航は、肉まんの包み紙をゴミ箱に捨てた。
指先に、まだ油の感触が残っている。
佐伯の茶とは違う。コンビニの、安い、温かい油。
でも——胃の中に、確かに残っている。
1月の深夜。三郷。
1.1Mbpsの回線が、暗い工場の中で脈打っていた。




