第18話「ブロードバンドへの宣戦布告」
2000年11月15日。水曜日。
三郷。マギ・ハブ。
午後8時。
「128kbps」
神崎が、モニターを睨んでいた。
「これが、今のISDNの限界だ。2回線束ねて128。どう足掻いても、これ以上は出ない」
航は、隣で腕を組んでいた。
DDoSの夜が頭にこびりついている。128kbpsの回線が数秒で飽和した。ケーブルを物理的に引き抜くしかなかった。9時間のダウンタイム。
あの時、帯域が太ければ——少なくとも、論理爆弾のペイロードを解析する時間は稼げた。
「ADSLなら?」
「理論値で下り1.5Mbps。実測でも1Mbps近くは出る。ISDNの8倍以上だ」
「なぜ、導入しない?」
神崎は、舌打ちした。
「NTTだよ。あいつらが、ADSL用の回線を開放しねえんだ。今年の春から郵政省が開放しろって指導してるのに、『技術的に困難です』の一点張りで引き延ばしてる」
〔補足します〕
テミスの声が、スピーカーから響いた。
〔1999年のNTT法改正と電気通信事業法の改正により、NTTには回線の開放義務があります。しかし、実際の運用では設備の準備が整っていない、干渉問題の検証が必要等の理由で、新規参入を事実上妨害しています〕
「言い訳のオンパレードか」
〔はい。佐伯アーカイブに類似パターンがあります。案件番号2903。大企業が行政指導を受けても、手続きの複雑さを盾に引き延ばすケースは珍しくありません〕
航は、目を細めた。
「テミス。マギ・システムズの電気通信事業の届出、通ってるな」
〔はい。7月に神崎さんが提出した届出が受理されています。届出番号、関東A-12847〕
航は、神崎を見た。
「あれ、通ってたのか」
「おう。お前が霧島とバトってる間に、俺が出しといた。VOのサーバー運営で通信事業の届出が必要になるかもしれないって、テミスに言われて」
〔正確には、将来の事業拡大を見据えた予防的措置として提案しました〕
航は、小さく笑った。
テミスの「予防的措置」が、今になって武器になる。
「アイリス。NTTの三郷収容局の設備状況、調べられるか」
「確認します」
アイリスの声が、スピーカーから響いた。
「——NTT東日本の公開情報によると、三郷電話局はADSL対応設備の導入予定がありません。ただし、メタルの加入者回線は敷設済みです。設備さえ追加すれば、技術的にはADSLの提供が可能です」
「設備がないことを理由に断られるってことか」
「はい。NTTが自社で設備を整えない限り、三郷ではADSLが使えない。いつになるかは未定です」
航は、立ち上がった。
「待ってられない。佐伯さんに相談する」
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2000年11月20日。月曜日。
本所。佐伯誠一事務所。
午後2時。
もう慣れた、煙草の匂いが染みついた階段を上がる。3階。
佐伯は、分厚い法令集を開いていた。
「電気通信事業法、第33条」
佐伯が、読み上げた。
「『電気通信回線設備を設置する電気通信事業者は、他の電気通信事業者からの接続の請求に応じなければならない』」
「つまり、NTTは回線を開放する義務がある」
「義務はある。だが、実際には手続きが複雑で、個人や中小企業が申請しても門前払いされる」
佐伯は、煙草に火をつけた。
「で、テミスが面白いものを見つけた」
航は、イヤホンに手を当てた。テミスの声が流れてくる。佐伯には聞こえない。
〔NTT東日本の内部規定に、『研究開発目的の回線貸与』という項目があります。これは、大学や研究機関向けの特別枠です。通常の商用申請とは別の審査ルートで処理されます〕
航は、佐伯を見た。
「研究開発目的……」
「マギ・システムズは、有限会社だ。普通なら対象外だが——」
佐伯は、書類を取り出した。
「鳴海。お前の会社の定款を見ろ。事業目的の第3項」
航は、書類を見た。
「情報通信技術に関する研究開発及びその成果の普及」
「……これ、俺が書いたやつですね」
「ああ。お前が設立時に、『なんとなく格好いいから』と入れた文言だ」
佐伯は、薄く笑った。
「これが効く。研究開発を目的とする法人として、NTTに回線貸与を申請する。テミスが作った申請書類を見たが、完璧だ。法的な瑕疵は一切ない」
「通りますか」
「通すんだよ」
佐伯は、煙を吐いた。
「NTTが断れば、こっちは電気通信事業法に基づいて、郵政省にNTTへの業務改善命令を求める申立てをする。申立書は、俺が作る。テミスの下書きがあるから、半日で仕上がる」
航は、佐伯を見た。
業務改善命令の申立書。行政機関への書類作成は行政書士の領域だ。佐伯が自分の仕事として手を動かす。渡辺弁護士に振るのではなく、佐伯自身が。
「佐伯さんが直接やってくれるんですか」
「当たり前だ。これは法廷の仕事じゃない。行政手続きの仕事だ。俺の領分だ」
佐伯は、朱肉池に目を落とした。
「NTTが『はい』と言えば、それで終わる。言わなければ、俺が書類で殴る」
航は、頷いた。
「やりましょう」
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2000年12月5日。火曜日。
三郷。NTT東日本・三郷電話局。
午前10時。
航は、神崎と共に電話局の前に立っていた。
「……マジで来たな」
神崎が、呟いた。
「来たな」
「ガキが電話局に乗り込むとか、正気じゃねえぞ」
「正気じゃないから、ここにいる」
航の鞄の中には、テミスが作成し佐伯が監修した申請書類一式。そして、NTTが拒否した場合に即日提出できる業務改善命令の申立書の草案。佐伯の判子が押してある。
航は、入口に向かって歩き出した。
受付。40代の男性職員が、こちらを見た。
「いらっしゃいませ。ご用件は」
「マギ・システムズ有限会社の鳴海です。ADSL回線の研究開発貸与について、打ち合わせに来ました」
職員の顔が、一瞬固まった。
「……少々お待ちください」
職員が、奥に消えていく。
5分後。
スーツ姿の男が現れた。50代。名刺には「設備管理課長」とある。
「マギ・システムズさんですね。申請書類は拝見しました」
「よろしくお願いします」
会議室に案内された。
長いテーブル。NTT側は3人。航と神崎は2人。
課長が、書類を広げた。
「研究開発目的でのADSL回線貸与、ということですが——」
課長の目が、航を見た。
「失礼ですが、代表者の方は」
「俺です」
「……あなたが」
「はい。マギ・システムズ有限会社の鳴海です。本日は代表の木村に代わり、出席しています」
会議室が、静まった。
「中学生……ですよね」
「はい」
課長の顔に、薄い笑みが浮かんだ。事務手続きの一環として来た相手が14歳のガキだった。門前払いの空気が漂う。
「申し訳ありませんが、当社としては——」
「電気通信事業法第33条」
航が、遮った。
「『電気通信回線設備を設置する電気通信事業者は、他の電気通信事業者からの接続の請求に応じなければならない』」
課長の笑みが、消えた。
「マギ・システムズは、電気通信事業の届出を済ませています。届出番号は、関東A-12847。確認されましたか」
「……確認しました」
「であれば、貴社には接続の請求に応じる義務があります。拒否される場合は、電気通信事業法に基づき、郵政省にNTTへの業務改善命令を求める申立てを行います」
航は、鞄から書類を取り出した。
「これは、当社の顧問行政書士が作成した、申立書の草案です。貴社が本日中に接続を拒否された場合、明日付で郵政省に提出します」
課長の顔から、血の気が引いていた。
隣の職員が、書類を手に取った。ページをめくる。法令の引用。判例の参照。NTTの過去の行政指導歴。
「……よく、できてますね」
職員が、呟いた。
「ちょ、ちょっと待ってください——」
課長が、言った。
「待ちません」
航の声は、平坦だった。
「俺たちは、法律に則って申請しています。貴社が法律に則って対応されるなら、何の問題もない。対応されないなら、法律に則って対抗します。それだけです」
沈黙。
課長が、隣の職員と目配せした。
「……少々、お時間をいただけますか」
課長が、言った。
「30分だけ」
課長たちが、会議室を出ていく。
神崎が、航を見た。
「……お前、マジでやべえな」
「何が」
「NTTの課長を、完全にビビらせてた」
「ビビらせたんじゃない。佐伯さんの書類を見せただけだ」
ポケットの中で、F501iが震えた。
『マスター。NTTの課長の心拍数は推定できませんが、退室時の歩行速度から判断して、佐伯先生の書類は十分に効いています』
航は、窓の外を見た。
三郷の冬空。灰色の雲。
25分後。
課長が戻ってきた。顔色は悪いが、表情は落ち着いていた。本社の判断を仰いだのだろう。
「……鳴海さん」
「はい」
「回線貸与の件、承認します」
航は、表情を変えなかった。
「工事日程は」
「来週中に調整します」
「よろしくお願いします」
航は、立ち上がった。
「神崎、行くぞ」
「おう」
会議室を出る。
廊下を歩きながら、航は佐伯事務所に電話をかけた。3コールで出た。
「佐伯さん。通りました」
電話の向こうで、佐伯が煙草を吸う音がした。
「そうか」
それだけ言って、切れた。
神崎が、隣で笑った。
「佐伯さん、あいかわらずだな」
「ああ」
航は、F501iをポケットに戻した。
「……ビビらせたんじゃない。法律を説明しただけだ」——さっき自分で言った言葉を、航は反芻していた。
違う。
佐伯さんの書類が、NTTを動かした。テミスが法令を解析し、佐伯が申立書を仕上げ、その書類の重みが、14歳のガキの言葉に説得力を与えた。
俺の力じゃない。書類の力だ。
電話局の駐車場を出ながら、神崎が言った。
「で、いつ繋がるんだ」
「設備の導入が先だ。三郷電話局にはADSLの対応機器がない。承認されたのは回線貸与であって、設備はNTTが用意する。早くても年明けだろう」
「年明けか……」
「待てないか」
「待てるわけねえだろ。128kbpsで年越しとか、拷問だぞ」
航は、三郷の冬空を見上げた。
灰色の雲。12月の乾いた風。
2000年が、終わろうとしている。
承認は取った。あとは設備が入るのを待つだけだ。
だが——待っている間も、128kbpsの細い回線で、霧島の影を追い続けなければならない。ヘリオスの通信が消えてから2ヶ月。プロメテウスの手がかりはまだ見えない。
航は、ポケットの中のF501iを握った。
年が明ければ、回線が太くなる。
それまでは、この細い糸で戦う。




