第17話「14歳の残機」
2000年10月16日。月曜日。
三郷市立皐月中学校。保健室。
午前11時。
航は、ベッドに横たわっていた。
白いシーツ。消毒液の匂い。窓から差し込む秋の光。
3時間目の途中で、立っていられなくなった。数学の授業中、黒板の数字が二重に見えた。隣の席の奴が「鳴海、顔やべえぞ」と言って、航は保健室に来た。
「……大丈夫? 鳴海くん」
保健室の先生——40代の女性——が、心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫です。少し、眠れなくて」
「眠れない? 最近、夜更かしでもしてるの?」
「……少しだけ」
先生は、航の額に手を当てた。
「熱はないわね。でも、顔色が悪いわ。今日は早退した方がいいかも」
「……そうします」
先生が、保健室を出ていく。
航は、天井を見上げた。
この2ヶ月。秋葉原で霧島と対峙し、テミスを起動し、渡辺弁護士を口説き、六本木で証拠保全を執行し、DDoS攻撃を受けて徹夜でサーバーを守った。
眠れたのは、1日平均3時間。
39歳の精神は耐えられる。オールで仕事を回した経験は何度もある。だが、14歳の肉体は別だ。成長期の体が、睡眠不足で悲鳴を上げている。目の奥が熱い。指先が冷たい。頭の中に薄い膜がかかったように、すべてが遠い。
ポケットの中で、F501iが振動した。
画面を見る。
『マスター。体調は大丈夫ですか』
航は、イヤホンを片耳に入れた。
「……聞いてたのか」
『F501iのマイクで、保健室の会話を拾いました』
「盗聴だな」
『監視です。マスターの健康状態は、最優先の監視対象です』
航は、天井を見たまま苦笑した。
『マスター。休んでください』
「休んでる場合じゃない。渡辺先生から、サイバーリンクの訴訟について連絡が——」
『神崎さんが対応しています。渡辺先生との連絡も、テミスが文面を作成して神崎さんが送信しました。佐伯先生との打ち合わせは、明日に延期しました』
航は、目を閉じた。
「……勝手に」
『はい。勝手にしました』
アイリスの声が、少しだけ変わった。
『マスター。あなたの体は一つしかありません。私たちはサーバーが壊れればバックアップから復元できますが、あなたには——残機がない』
航は、F501iを握ったまま、何も言えなかった。
窓の外で、秋の風が木の葉を揺らしていた。
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午後3時。
航は、早退して家に帰った。
自室のベッドに倒れ込む。母親は仕事でいない。
眠ろうとした。だが、頭が止まらない。
霧島の事業停止。DDoS攻撃。プロジェクト・プロメテウス。渡辺弁護士からの訴訟の進捗。テクノウェーブの特許権移転登録。証拠保全で押さえたサーバーのフォレンジック調査。
全部が同時に走っている。
39歳の脳は「優先順位をつけろ」と命じる。14歳の体は「眠れ」と叫んでいる。
F501iが震えた。
画面を見る。
『寝てください』
航は、F501iを枕の横に置いた。
目を閉じる。
暗闇の中で、アイリスの声が聞こえた気がした。
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2000年10月20日。金曜日。
三郷。マギ・ハブ。
午後2時。
4日間、休んだ。学校も休んだ。ひたすら眠った。
久しぶりにマギ・ハブに来ると、神崎が缶コーヒーを差し出してきた。
「おう。生きてたか」
「死んでない」
「死にかけてたろ。アイリスが『マスターの心拍数が異常値を示しています』って、3日間ずっと俺に報告してきたぞ」
航は、缶コーヒーを受け取った。
「状況を聞かせてくれ」
「おう」
神崎が、モニターの前に座った。
「まず、サイバーリンク。事業停止のまま、霧島は行方不明。渡辺先生が訴訟の準備を進めてるが、相手方に送達ができない状態だ。霧島が見つからないから」
「会社の法人登記は」
「まだ生きてる。代表は霧島怜のまま。解散も清算もしてない」
〔補足します〕
テミスの声が、スピーカーから響いた。
〔サイバーリンク・ジャパンの法人登記を確認しました。最終変更は2000年6月の増資時です。事業停止は登記上反映されていません。代表取締役の住所は六本木のオフィスになっていますが、現地確認では不在です〕
「つまり、幽霊会社だ」
航は、缶コーヒーを啜った。
「渡辺先生は何と」
「公示送達でいくって。裁判所の掲示板に訴状を掲示して、一定期間で送達したとみなす手続き」
〔公示送達の場合、掲示から2週間で送達の効力が生じます。その後、欠席裁判で判決を取ることが可能です〕
「勝てるのか」
〔証拠保全で押さえたCVSログに、テクノウェーブの特許明細書との一致が確認されています。霧島氏本人のコミットです。欠席裁判であれば、ほぼ確実に勝訴判決が出ます〕
航は、頷いた。
「ただし——」
神崎が、言った。
「勝訴判決が出ても、霧島が見つからなけりゃ執行できない。金も取れないし、差し止めも形だけだ」
「わかってる」
航は、窓の外を見た。
「霧島を潰すのが目的じゃない。サイバーリンクの表の顔を法的に潰す。それは六本木で、もうやった」
「じゃあ、何が目的だ」
「記録を残す」
航は、モニターに向き直った。
「裁判所の判決という公的記録に、『サイバーリンク・ジャパンはテクノウェーブの特許を侵害した』という事実を刻む。霧島が将来、どんな名前で復活しようと、この記録は消えない」
〔佐伯アーカイブに類似の考え方があります。案件番号4201。佐伯先生の記録に、『判決は武器ではない。杭だ。地面に打ち込んでおけば、相手がどこに行っても引っかかる』とあります〕
航は、テミスの言葉を聞きながら、薄く笑った。
佐伯さんらしい。
「メティス。サイバーリンクの資金の流れ、追えてるか」
〈報告します。事業停止後、サイバーリンク・ジャパンの法人口座から、3回に分けて合計8,700万円が海外口座に送金されています。送金先はケイマン諸島。名義は不明〉
「8,700万……投資家から集めた3億のうちの残りか」
〈その可能性が高いです。ただし、送金のタイミングが証拠保全の2日後であることから、霧島は証拠保全を受けた直後に資金の退避を行ったと推測されます〉
「逃げ足だけは速いな」
航は、缶コーヒーを置いた。
「ヘリオスの通信は」
「それが——」
神崎の声のトーンが変わった。
「DDoS攻撃の後、ヘリオスの通信が完全に消えた」
「消えた?」
「ゼロだ。パケットの署名も検出されない。完全に——」
「電源を切った」
航は、呟いた。
「霧島は、ヘリオスごと地下に潜った」
「アイリス。何か拾えてないか」
「いいえ、マスター」
アイリスの声が、サーバーのスピーカーから響いた。
「ヘリオスの通信は、10月3日を最後に途絶えています。ネットワーク上のどこにも、痕跡がありません」
航は、椅子の背にもたれた。
10月3日。DDoS攻撃の翌日。
あのメッセージを送った直後に、霧島はすべてを遮断した。
「……挨拶だ、って言ってたな」
「はい。『これは挨拶だ。本番は、これからだ』と」
「挨拶だけ済ませて、消えた。次に出てくる時は——」
航は、目を閉じた。
「——本番のつもりで来る」
サーバーのファンが、低く唸っていた。
窓の外で、秋の夕日が傾いている。三郷の田んぼが、黄金色に染まっていた。
稲刈りが終わった田んぼ。その向こうに、TXの工事現場が見える。造成された更地と、土を掘り返す重機。まだ駅の形すら見えない。
航は、立ち上がった。
「神崎。霧島のことは渡辺先生に任せる。俺たちは、次の手を打つ」
「次って何だ」
「回線だ」
航は、モニターを指した。
「DDoSで痛感した。128kbpsのISDNじゃ、大規模攻撃に耐えられない。帯域が細すぎる」
「ADSLか」
「ああ。NTTに回線を開放させる。合法的に」
神崎が、目を光らせた。
「テミス。NTTの回線開放に使える法律、洗い出してくれ」
〔了解しました。電気通信事業法の関連条項を精査します〕
航は、窓の外を見た。
14歳の体は、4日間の休養でようやく動くようになった。
だが、39歳の頭はもう動き始めている。
霧島は消えた。だが、霧島の背後にいる「誰か」は消えていない。
次に備える。回線を太くする。城壁を厚くする。
戦いは、まだ続いている。




