第15話「六本木の沈黙」
2000年9月6日。水曜日。
本所。佐伯誠一事務所。
午後2時。
航は、3階の事務所にいた。
佐伯の向かいに、もう一人の男が座っていた。
渡辺誠一郎。60代。白髪を丁寧に撫でつけた、痩せた男。渡辺法律事務所。テクノウェーブ株式会社の破産管財人。
佐伯が呼んだ。
渡辺は、テミスの分析レポートを読み終えたところだった。A4用紙8枚。特許の類似度分析。霧島怜の経歴と時系列。テクノウェーブとの地理的接点。
佐伯が煙草に火をつけた。渡辺は煙草を吸わない。窓が少しだけ開いている。
「……渡辺さん。どうですか」
佐伯が、言った。
渡辺は、レポートの最後のページを、もう一度見た。
「佐伯さん。これを作ったのは」
「彼です」
佐伯が、航を指した。
渡辺の目が、航に向いた。
「君は、中学生だね」
「はい」
「この分析、君がやったのか」
「AIが分析しました。僕が指示を出して、佐伯さんの案件記録を学習させたAIが」
渡辺は、黙った。
航は、渡辺の顔を見ていた。
信じていない。当然だ。14歳の中学生がAIでベンチャー企業の特許盗用を突き止めたなんて、普通は相手にしない。
だが、渡辺はレポートを置かなかった。
「……テクノウェーブの特許は、確かに未処分のままだ」
渡辺が、言った。
「破産手続は終結したが、特許権の買い手がつかなかった。正確には、1999年の時点で、この特許に価値があると判断した人間がいなかった」
航は、身を乗り出した。
「今は、あります」
「何?」
「価値が。サイバーリンク・ジャパンが、テクノウェーブの特許と93.7%一致する技術で3億円を調達しています。つまり、テクノウェーブの特許には少なくとも3億円分の価値がある」
渡辺の目が、わずかに変わった。
「……続けなさい」
「渡辺先生。テクノウェーブの特許を、僕の会社——マギ・システムズに売却してください」
佐伯の煙草の煙が、天井に向かって昇っていた。
「買い取ります。正当な対価で。そして、マギ・システムズの名義で、サイバーリンク・ジャパンの特許出願に対して異議を申し立てたい」
渡辺は、佐伯を見た。
佐伯は、黙っていた。何も言わない。航の言葉を、航に言わせている。
「さらに、特許侵害の証拠を確保するために、証拠保全の仮処分を申し立てたい。渡辺先生に、訴訟代理人をお願いできませんか」
渡辺は、レポートに目を落とした。
5秒。10秒。
「……佐伯さん」
「はい」
「この子は、何者だ」
佐伯は、煙草を灰皿に押しつけた。
「俺の依頼人です」
それだけ言った。
渡辺は、航を見た。
「マギ・システムズの登記簿を見せなさい。あと、特許の買い取り資金をどこから出すのか、説明できるか」
「できます」
航は、鞄からファイルを取り出した。マギ・システムズの登記簿謄本。決算書。銀行口座の残高証明。
渡辺は、それを受け取った。
1枚ずつ、端から端まで読んでいく。佐伯と同じ読み方だった。
「……資本金300万。手元資金が1億を超えている。中学生の会社としては、異常だ」
「ヤフー株の売却益です」
渡辺は、航を見た。
「君、将来は弁護士になるつもりか」
「いいえ」
「そうか」
渡辺は、レポートを閉じた。
「テクノウェーブの特許の売却について、破産債権者への追加配当として処理する必要がある。手続きに2週間はかかる。だが——」
渡辺の目が、静かに光った。
「——やる価値はある。この分析が正しければ、サイバーリンク・ジャパンは他人の技術で3億円を集めたことになる。知り合いの弁理士にも技術面を確認させるが、この類似度なら筋は通るだろう」
航は、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「一つ、条件がある」
「条件?」
「証拠保全の現場には、私が行く。君も来なさい。だが、現場では一切喋るな。私が話す。私が判断する。君は見ていればいい」
航は、頷いた。
「わかりました」
「佐伯さんは?」
渡辺が、佐伯を見た。
「俺は行かない。ここで待ってる」
佐伯は、窓の外を見た。
「書類の仕事は、俺がやった。ここから先は、法廷の仕事だ。渡辺さんの領分だ」
渡辺は、小さく頷いた。
「では、2週間後に連絡する」
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2000年9月25日。月曜日。
午前10時31分。
六本木。サイバーリンク・ジャパン本社ビル。12階。
エレベーターの扉が開いた。
白い壁。ブルーのカーペット。最新型のPCが並ぶデスク。
渡辺弁護士が、先に立った。その後ろに、裁判所の執行官——40代の田村という男。そして、航。
14歳の体が、六本木のオフィスビルのエレベーターから降りている。スーツ姿の大人二人に挟まれて。この違和感に、航自身がまだ慣れていない。
航のポケットの中で、F501iが静かに震えた。
アイリスからの通信。
イヤホンに、テキストが流れてくる。
『12階フロアの通信状況を監視中。異常な暗号化通信を1系統検出。サーバールーム方向』
航は、わずかに頷いた。
「いらっしゃいませ。ご用件は——」
受付の女性が、こちらを見た。
「東京地方裁判所、執行官の田村です」
執行官が、身分証を提示した。
「証拠保全の仮処分決定に基づき、貴社のサーバーおよび関連資料の保全を執行します。代理人は渡辺法律事務所の渡辺です」
渡辺が、決定書の写しを差し出した。
受付の女性の顔から、血の気が引いた。
「しょ、証拠保全……社長を呼びます」
「お呼びください。ただし、執行は決定に基づき即時開始します。サーバールームに案内をお願いします」
渡辺の声は、平坦だった。感情がない。事実だけを述べている。
3分後。
オフィスの奥から、霧島怜が現れた。
黒いシャツ。ジーンズ。細い目。
「何の騒ぎだ」
霧島の目が、執行官を見た。渡辺を見た。
そして——航を見た。
一瞬、霧島の目が細まった。
「鳴海」
航は、答えなかった。渡辺の条件だ。喋るな。
渡辺が、前に出た。
「サイバーリンク・ジャパン代表取締役、霧島怜さんですね。私は弁護士の渡辺と申します。本日、東京地方裁判所の証拠保全決定に基づき、貴社のサーバーに保存されたソースコードおよび関連資料の保全を執行いたします」
渡辺は、決定書を霧島に手渡した。
「申立人はマギ・システムズ有限会社。被保全権利は、旧テクノウェーブ株式会社の特許に基づく特許権侵害の差止請求権です」
霧島の表情が、変わった。
「テクノウェーブ……?」
初めて聞く名前だ、という顔ではなかった。
知っている名前を、予想しない場所で聞いた顔だった。
航は、それを見逃さなかった。
イヤホンに、アイリスの文字が流れる。
『霧島氏の端末から、暗号化通信が急増。サーバールーム方向への送信を検出。データ消去の指示を出している可能性があります』
航は、渡辺の袖を引いた。
渡辺は、航を見た。航は、サーバールームの方向に目を向けた。
渡辺は、即座に理解した。
「執行官。サーバールームの保全を最優先でお願いします。データの改ざん・消去の恐れがあります」
「了解です」
執行官が、足早にサーバールームに向かった。
霧島が、航を睨んだ。
航は、黙っていた。
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午前11時15分。
サーバールーム。
執行官と、同行した技術者が、サーバーの中身を確認していた。
「ソースコードのバージョン管理システムですね。CVSで全履歴が残っています」
「保全対象として記録してください」
航は、部屋の隅に立っていた。
渡辺が、霧島と廊下で話している声が、微かに聞こえる。
イヤホンに、テミスの分析が流れてきた。
マギ・ハブの神崎が、リアルタイムでテミスを動かしている。
〔サーバールームのCVSログを遠隔取得しました。テクノウェーブの特許明細書と高い一致率を示すモジュールが3件存在します。コミットログの著者名は『R.Kirishima』〕
航は、目を閉じた。
霧島怜。本人のコミット。
〔さらに、本日午前10時33分——執行開始の2分後に、大規模な削除コミットが試行されています。ただし、執行官の到着により物理的にサーバーへのアクセスが遮断されたため、削除は不完全です。元データの復元が可能です〕
間に合った。
渡辺が、サーバールームに戻ってきた。
「鳴海くん。技術者が保全手続を進めている。あと1時間ほどかかるそうだ」
「はい」
「霧島は、弁護士を呼ぶと言っている。当然の対応だ。これから先は法廷で争うことになる」
航は、頷いた。
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午後1時。
証拠保全の執行が完了した。
サーバーには、裁判所の封印が貼られた。赤い紙。「証拠保全執行済」の文字。
航は、渡辺と共にビルを出た。
六本木の昼下がり。9月の陽射しが、ガラス張りのビルに反射している。
「渡辺先生。ありがとうございました」
「礼を言うのは早い。これからが本番だ。霧島の弁護士が出てくる。訴訟は長くなる」
渡辺は、腕時計を見た。
「今日の報告は、佐伯さんにしておく。君は三郷に帰りなさい。中学生は、学校があるだろう」
航は、苦笑した。
渡辺は、タクシーを拾って去っていった。
航は、六本木の通りに立っていた。
イヤホンの中で、アイリスが言った。
『マスター。証拠保全は成功しました。霧島氏の削除コミットも不完全で、復元可能です』
「ああ」
『ただし——一つ、気になることがあります』
「なんだ」
『霧島氏がテクノウェーブの名前を聞いた瞬間の反応です。あれは「知らない名前を聞いた」反応ではありませんでした。「知っている名前を、予想外の場所で聞いた」反応です』
「俺も、そう見た」
『つまり、霧島氏はテクノウェーブの技術を意図的に使用しています。偶然の一致ではなく、出所を知った上で流用している』
航は、歩き出した。
「アイリス。もう一つ、気になることがある」
『はい』
「霧島は、俺が来ることを予想していなかった。証拠保全も、テクノウェーブの名前も。全部、想定外だった」
『はい。反応から見て、そうだと判断します』
「あいつは俺より2年早くこの時代に来たと言った。俺より多くのことを知っていると。多くの準備をしてきたと」
航は、立ち止まった。
「だが、今日の霧島は——準備ができていなかった。法律で攻められるという選択肢が、あいつの想定に入っていなかった」
『……マスター。それは何を意味しますか』
「二つの可能性がある」
航は、イヤホンに向かって言った。
「一つ。霧島は、俺が思っているほど未来のことを知らない」
『もう一つは』
「霧島の知識には、偏りがある。技術は知っているが、法律は知らない。未来を全部知っている人間じゃなくて——」
航は、言葉を切った。
——部分的に知っている人間。
アイリスが秋葉原で報告した「完全な準拠ではない。模倣、あるいは部分的な移植」。
霧島のヘリオスは、アイリスやメティスとは違う。
霧島の知識は、航のように2026年を「生きた記憶」として持っているのではなく——
「……誰かから、渡されたんだ」
呟いた。
「霧島は、2026年から来たんじゃない。2026年の情報を、誰かから受け取った」
イヤホンの中で、アイリスが沈黙した。
3秒。
『マスター。その仮説が正しい場合、「誰か」とは——』
「わからない。まだ」
航は、歩き出した。
六本木の雑踏の中を、14歳の体が歩いていく。
今日、霧島の足場を一つ崩した。
だが、霧島の背後にいる「誰か」は、まだ見えていない。
ポケットの中のF501iが、一瞬だけ震えた。
アイリスからではない。
メールの着信通知。
差出人:不明。
件名は、一行だけ。
「——よくやった。だが、まだ足りない」
航は、画面を見つめた。
六本木の喧騒が、遠くなった。




