第12話「歴史の不整合(バグ)」
2000年7月14日。金曜日。
三郷。マギ・ハブ。
午後2時。
梅雨の晴れ間だった。湿気を含んだ空気が、三郷の街を蒸し上げている。
1階のサーバールームでは、安物のエアコンがオゾンの臭いと不快な金属音を吐き出していた。室温は30度を超えている。PowerEdgeの排熱が、冷房の限界を超えていた。
航は、モニターの前で汗を拭っていた。
期末テストが終わり、午前授業だけの日々が続いている。
部活には入っていない。補習もない。午後はまるごと、マギ・ハブに籠もれる。
「……おかしい」
航は、画面を睨んでいた。
Yahoo!ファイナンスのページ。
株価情報。企業ニュース。IPO情報。
その中に、見覚えのない名前があった。
「マスター。どうしました」
アイリスの声が、スピーカーから響く。
「この会社。『サイバーリンク・ジャパン』。聞いたことがない」
「マスターの記憶に存在しない会社が、2000年のインターネットに存在している。不法侵入と同じですね。検索します」
画面が切り替わる。
サイバーリンク・ジャパン株式会社。2000年3月設立。本社:東京都港区。事業内容:インターネットセキュリティソリューションの開発・販売。
「……2000年3月設立?」
航の眉が、寄った。
「俺の記憶では、この会社は存在しない。港区でセキュリティやってる主要どころは把握してる」
〈マスター。追加情報を取得しました〉
メティスの声が、割り込んだ。
〈サイバーリンク・ジャパンは、2000年6月に3億円の資金調達を完了しています。調達先は、ソフトバンク・インベストメントほか3社〉
「3億?」
〈さらに、7月10日付のプレスリリースで、『AI技術を活用した次世代ファイアウォールの開発』を発表しています〉
航のキーボードを叩く手が、宙で固まった。
AI技術。
2000年に、そんな言葉を使う企業は——
「アイリス。この会社の代表者、調べろ」
「了解しました」
画面に、情報が表示された。
代表取締役:霧島怜。1975年生まれ。25歳。東京大学工学部中退。
「……東大中退?」
航は、画面を凝視した。
1975年生まれ。25歳。
神崎と同世代だ。
「経歴は」
「1998年、東京大学工学部を2年で中退。その後、米国シリコンバレーに渡航。2000年2月に帰国し、サイバーリンク・ジャパンを設立——」
「シリコンバレー」
航は、呟いた。
1998年から2000年。シリコンバレー。
ドットコムバブルの絶頂期だ。
「写真はあるか」
「公式サイトに、1枚だけ」
画面に、顔写真が表示された。
黒い髪。細い目。薄い唇。
どこかで見たような顔だ。
だが、思い出せない。
「……この男、何者だ」
〈マスター。気になるデータがあります〉
メティスが、新しい情報を表示した。
〈サイバーリンク・ジャパンの特許出願リストです。7月12日付で、『分散型AIエージェントによるネットワーク防御システム』の特許を出願しています〉
航の喉が、詰まった。
分散型AIエージェント。
それは、アイリスとメティスのアーキテクチャそのものだ。
「……偶然じゃない」
航は、立ち上がった。
「この男は、俺と同じものを見ている」
---
午後4時。
玄関の引き戸が、開いた。
「ごめんください」
低い声。
航は、モニターから目を離した。
入口に、一人の男が立っていた。
白髪混じりの頭。深い皺。煙草の匂い。
「……佐伯さん」
「久しぶりだな、鳴海くん」
佐伯誠一。58歳。司法書士・行政書士。本所の事務所から、わざわざ三郷まで来たのか。
「どうしたんですか。わざわざ」
「定款の変更届、直接持ってきた。郵送でもよかったんだが——」
佐伯は、サーバールームを見回した。
3台のPowerEdge。4台のCRTモニター。床を這うケーブルの束。そして、熱気。
「——見ておきたかった」
航は、黙った。
佐伯の目が、ゆっくりと動く。モニターの文字を追っている。株価情報。企業データ。通信ログ。
「……やりすぎだ」
佐伯が、言った。
「中学生が、こんな設備を持っている。会社も作った。資金もある。だが、その先は——」
「先?」
「破綻だ」
佐伯は、深い皺の刻まれた顔で、航を見た。
「いいか、鳴海くん。俺は30年、この仕事をやってきた。設立、変更、解散、破産——全部見てきた」
佐伯の服から、煙草の匂いが漂ってくる。来る前に一服してきたのだろう。
「君のやっていることは、10年後の会社が、今の市場で暴れているようなものだ。周りがついてこない。法律が追いついてこない。そして——」
佐伯の目が、航を射抜いた。
「——敵が、できる」
航は、佐伯を見返した。
いつもの「僕」が口まで出かけた。だが、この男の前で13歳のふりをしても意味がない。
「敵は、もういます」
「何?」
「俺だけじゃない。俺と同じことを考えている奴が、他にもいる」
航は、モニターを指した。
サイバーリンク・ジャパン。霧島怜。
「この男です。2000年3月に会社を作って、AI技術を使ったセキュリティを開発している。俺の記憶にない会社だ」
佐伯は、画面を見た。
「……記憶にない?」
「俺は、2026年の未来から来た」
航は、言った。
「信じなくていい。でも、事実です。俺の頭の中には、2026年までの株価も、技術も、事件も、全部入ってる。だから、ヤフー株で稼げた。だから、この会社を作れた」
佐伯は、黙っていた。
「でも、この1ヶ月で、俺の記憶と現実がズレ始めている。日経平均が、俺の記憶より400円以上低い。存在しないはずの会社が、3億円を調達している」
航は、拳を握った。
「俺がこの時代に存在することで、歴史が変わり始めている。そして——俺以外にも、同じことをしている奴がいるかもしれない」
佐伯は、腕を組んだ。
「……鳴海くん」
「はい」
「俺は、君の話を信じるかどうか、判断できない」
佐伯は、立ち上がった。
「だが、一つだけ言える。君が見ているものが本当なら——」
佐伯の目が、静かに光った。
「——書類を、端から端まで読め。法律を、一字一句確認しろ。相手が誰であろうと、証拠を積み上げろ。それが、戦い方だ」
航は、頷いた。
「……ありがとうございます」
「定款の変更届、ここに置いていく。署名と押印、忘れるな」
佐伯は、封筒を置いて、出口に向かった。
「あ、佐伯さん」
航が、呼び止めた。
「なんだ」
「……また、相談に乗ってもらえますか」
佐伯は、振り向かなかった。
「電話しろ。いつでも出る」
引き戸が、閉まった。
---
午後11時。
神崎が、戻ってきた。
「遅くなった。飯、買ってきたぞ」
コンビニの袋。おにぎりとカップ麺。
航は、袋を受け取った。
「神崎。見てくれ」
「ん?」
モニターに、新しい画面が表示されていた。
IRCのログ。
「アイリスが見つけた。秘密チャンネルだ」
画面には、英語と日本語が混ざったテキストが流れていた。
───
[23:41] <anon_7>: 2026年のプロトコル、誰か持ってる?
[23:42] <void_>: 持ってる。交換する?
[23:43] <anon_7>: 何と?
[23:44] <void_>: repromptの管理者情報
───
神崎の顔が、引きつった。
「……void?」
「VOで俺たちに絡んできた奴だ。IRCにもいる」
「repromptって——」
「俺のサイトだ」
航は、画面を睨んだ。
「こいつら、俺のことを探ってる」
〈マスター。追加のログを取得しました〉
アイリスの声が、響いた。
〈23時58分。『void_』から、マギ・システムズのメールサーバーに、1通のメールが送信されています〉
「メール?」
「はい。宛先は、info@magi-systems.co.jp。件名は——」
アイリスの声が、一瞬止まった。
「——『お前も、戻ってきたのか?』」
航の手が、膝の上で握られた。
「……開け」
「マスター、セキュリティスキャンを——」
「いいから、開け」
画面に、メールの本文が表示された。
───
From: void@xxxxx.ne.jp
To: info@magi-systems.co.jp
Subject: お前も、戻ってきたのか?
Admin
お前のreprompt.comは、よくできている。
2000年の人間には、ただの「予言サイト」に見えるだろう。
だが、俺にはわかる。
お前は、「向こう側」を知っている。
俺も、知っている。
会おう。
7月20日。午後3時。
秋葉原駅。電気街口。
一人で来い。
───
航は、画面を見つめていた。
「向こう側」。
それが何を意味するのか、航にはわかった。
2026年。
崩壊した世界。
アイリスとの、最後の会話。
「……マスター」
アイリスの声に、わずかなノイズが混じった。
「このメールの送信者は、私と同種の技術を持っています。パケットの構造が、2026年のプロトコルに準拠しています」
航は、椅子の背を掴んだ。
「俺だけじゃなかった」
呟く。
「俺以外にも、戻ってきた奴がいる」
〈マスター〉
メティスが、静かに言った。
〈『void』の通信パターンを分析しました。彼の背後に、別のノードが存在する可能性があります。中継サーバーの痕跡が——〉
「別のノード?」
〈不明です。ただ、voidは末端ではないかもしれません〉
窓の外で、隣家のエアコン室外機が低く唸っていた。
2000年7月。
航の知らない「敵」が、確実に動き始めていた。




