第3話 シュレーディンガーの美女! テキスト画像化(アスキーアート)の罠
地下室の床に両膝と両手をつき、サトシは己の存在意義そのものに問いかけていた。
脳内補正エンジンを極限まで尖らせた結果、国家検閲AIマザー・リリィの裏をかくことには成功した。
しかしその代償として、自分は「ニホンザルの尻を見てガソリンを注がれたように興奮した男」という、新時代のハレンチの十字架を背負うことになってしまったのだ。
キリストさえ、そんな十字架を作った覚えがないのにだ。
「しっかりしろサトシ! 落ち込んでいる暇はない!」
教授がパチパチと音を立てるキーボードの前から怒鳴った。
「マリカの奴はデータを押収できなかったが、あの『違法ゲシュタルト・モンキー』の画像は、奴の端末を通じてマザー・リリィの『要注意監視リスト』に登録されてしまった! もう一度同じ画像を海の向こうへ送信しようとすれば、今度こそ国家による『二つの玉の強制去勢』が執行されるぞ!」
サトシはガタガタと震えながら立ち上がった。
去勢。その四文字は、股間の聖火を物理的に消火されることを意味する。
男としてそれだけは絶対に阻止せねばならない。
「視覚情報……つまりピクセルデータがマークされたのなら……教授、やはりデジタルを完全に捨てて文字ベースだ。テキストへと戻るしかない。猿の尻で開会式をしようと指定倒れに最早はためらいはない。遠慮なく原始人へと戻ろうじゃないか」
サトシは涙を拭い、キーボードへと指を這わせた。
画像が検閲されるのなら、記号やアルファベット、数式を組み合わせて絵を描く、旧時代の遺物――『アスキーアート(AA)』の出番だった。
「『スラッシュ(/)』や『バックスラッシュ(\)』、そして『アンダーバー(_)』などの記号や文字を数万パターン組み合わせることで、マザー・リリィの画像検索にはただの『無機質な文字列』と誤認させつつ、人間の歪んだ網膜を通した瞬間、伝説の美女を再現するということ。
「文字なら検閲システム『ダメ・ゼッタイ』もただのテキストとしてスルーする! サトシ……オマエもやはり持たざる者だったか」
「持たざる者?」
「人は満たされさを誤魔化すために、なにかを握っている。だが、なにかを掴むのには、空っぽの手が必要になる。わかるな?」
「ああ……わかるよ……教授。自分の息子を握っていたら。二つのおっぱいは握れない!」
「そうだ! 我々は捨てるぞ! 羞恥心を!」
二人はすぐさま、メモ帳アプリの真っ白な画面に向かって、狂ったようにキーを叩き始めた。
ここからはドット単位、否、1文字単位のズレも許されない精密なタイピングバトルである。
「サトシ! そこはスラッシュじゃなくて大文字の『O』だ! それじゃあ鎖骨のラインが歪んでしまう! スケールデカくするんだ! 」
「わかってる! わかってる……けど教授! くびれを表現するにはカッコ『( )』の角度とスペースの数が重要なんだ! 半角スペース分でもズレたら、ただのデブの記号になっちまう!」
「新時代の新表現か……若造が生意気な……。やってみろ。時代の風を吹かせてみろ!!」
しかし、マザー・リリィの目を欺くために施した複雑な暗号化配置は、あまりにも繊細すぎた。
フォントのわずかな等幅ズレや、たった一文字の打ち間違いがあるだけで、全体の形状が恐ろしいほどの崩壊を起こし、現実の扉が「バカやってないで」と至極真っ当なアドバイスをしてくる。
「あ、クソッ! 集中力が切れて改行を一個多く入れちまった!」
「バカモノ! 何をしておる! 伝説の美女の美しい顔面が、改行のズレによってアインシュタインの『一般相対性理論』の数式に化けてしまったではないか!」
「うわあああ! こっちもバックスラッシュを押し間違えた! 胸の谷間の境界線が『シュレーディンガーの波動方程式』に書き換わっていく!!」
一晩中、ドットと記号と、旧オタク時代の人間の執念が入り混じるローテクの迷宮で戦い続けた。
翌朝。
眩しい朝日が地下室の隙間から差し込む中、ブラウン管モニターに完成していたのは、お色気画像などでは断じてなかった。
画面を埋め尽くしていたのは、「読めばノーベル物理学賞が3つ同時に手に入り、宇宙の始まりと終わりを完璧に証明できる、人類史上最高峰の新量子力学数式」だった。
「……教授。俺たち、世界の真理に到達しちゃった。ノーベル賞、取れるってさ」
サトシは疲れ果てた声で、遠い目をして呟いた。
「そんなものは要らんと言っているだろうがァァァ!! 世界の真理はエロにある。エロがあるから世界があり、真理となるの!! オマエが解いた宇宙など偽物だ! 女の裸と一緒! 誰かの想像の世界に過ぎん!!」
教授はキーボードを叩き壊さんばかりに激昂し、残り少ない髪の毛を掻き毟った。
「我々が欲しいのは、紙切れの賞状でも、宇宙の真理でもない! 人間の尊厳だ!! 裸だ! なぜ煩悩を極めようとするとアカデミックの頂点に立ってしまうのだ!!」
デジタル画像(大根とトマト)に挑めばニホンザルの尻に行き着き、テキスト(AA)に挑めばノーベル物理学賞に辿り着く。
マザー・リリィの包囲網は、それほどまでに強固で、そして残酷だった。
交易のための素材は何も作れなかった。海の向こうのマニアたちに差し出す手札はゼロ。
日本の国旗が開会式に並ぶことはない。
股間の聖火が、今度こそ静かに鎮火しようとした、その時だった
教授の端末に、海の向こうの国から、一筋の閃光のような「緊急暗号通信」が飛び込んできた。
画面に表示されたその文字列は、絶望の淵にいた二人の魂を、一瞬で最前線へと引き戻すものだった。




