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戦ぎの淡い影 ― 平安戦御体戦記  作者: ひろくま
第三章 芽吹

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86 芽吹ノ章 十三

それからというもの、おれの人生の正式な地獄が始まった。

伶守(れいもり)殿がおれに稽古をつけると言い始めたのだ。


それを地獄と言わずして、何を地獄と言おうか。

ある時は滝から突き落とされ、ある時は一晩中木から吊るされ、ある時は頭だけ出して土に埋められて、犬に小便をかけられた。

これで強くなるのか!?霊力(れいりき)ってそういうものなのか!?


今日は丸太に抱きついて、崖から転がり落ちる鍛錬だそうだ。

「し・・・死ぬ・・・・」

「死なぬためにやっている。今死んでどうする?」

「普通の人は、こういうことで死ぬんですよ、伶守殿・・・」


毎日体中に痣を作って、生きているのが不思議なくらいぼろぼろになっている。

それでも、床に就く前に筆をとる。これだけはどれほど疲れ果てていてもやめてはならない。

おれの書いたこの書を、霞家の英雄譚として後世に残すために。



あの日から、姉上はおれの筆の邪魔をしに来ることはなくなった。

だが、普段顔を合わせるといつもの姉上だ。

それでいい。おれはおれに言い聞かせる。





それに・・・。

「わが殿、だいじょうぶですか?このように毎日傷をお作りになって・・・」

妙珠殿がおれを気遣ってくれる。

「いえ、だいじょうぶです。もう慣れましたから・・・はははは」

嘘だ。慣れる日が来る気がしない。

「傷のお薬をお塗り致します。上を脱いでくださいまし」

「あ、いえいえ!そこまでは申し訳なく・・・・」

「何をおっしゃいますか。わが殿のお世話をするのが妻の役目。ご遠慮はおやめください」

「・・・では、かたじけないです・・・」

おれは着物を脱いで背中を向ける。

「あら・・・傷だらけじゃないですか・・・おかわいそうに・・・」

「はい・・・今日は地面に寝そべり、牛に踏まれる修行でしたので・・・」

「・・・それは、修行なんですか?拷問では・・・?」

「伶守殿は三つの時からやっているそうです」

「まあ・・・・・」




おれが妙珠殿を迎えに霜田へ行ったのはひと月ほど前のことだ。

”野菜たちの収穫を終えました。わが身はいつでも殿のお傍へ参ります”という書状が届き、おれは喜び勇んで妙珠殿を迎えに行った。

父上と母上も、それに兼信殿も祝言の用意をせねば!と張り切っている。

その話になると、姉上だけが不機嫌だ。

それがちょっとうれしい。



「痛っ!」

薬が傷に染みた。

「あ、申し訳ございません!」

「い、いえ、だいじょうぶですよ」

おれはあわてて笑顔を作る。相変わらず、これは苦手だ。

「ふふ・・・。あ、すみません」

妙珠殿は以前兄上と一緒にいた頃より、強く明るくなった印象がある。

あの頃の天女様の美しく儚げな雰囲気は影を潜めたが、誠心誠意おれに尽くしてくれる妙珠殿がとても愛らしい。








霞家が伊豆を制圧したことで、各地から霞の縁者、さらに緋家に反する武家たちが集まりつつある。

この伊豆の周辺でも緋家側と霞側で小競り合いが頻発し、毎日のように勢力図が書き換えられることになった。



「おれは都で、つまらんことだがやることがある。おれがいない間も、鍛錬を忘れるな!」

と言って、伶守殿は伊豆を出て行った。おれは心底ほっとした。

鍛錬を怠るな、と言われても、背中を牛に踏ませるなどということを、どうやったら自分でできるのだろう?


そんなことを考えている時に、宗近殿に呼ばれた。

「伶守がいないと暇だろう?」

・・・・悪い予感しかしない。

「いえ、けっこうお忙しいです。自分で穴を掘って自分を埋めなくてはならないので」

「近々、近郊から武家たちが集まってくる。それぞれの名前と領地を書き留めてくれ」

「・・・聞いてますか?おれの話」


どうやら、緋家軍が京を出てこちらへ進軍しているという知らせが入ったらしい。

それで軍を取りまとめ、緋家軍を迎え撃つ準備をするということらしい。


「はぁ。また戦です・・・姉上」

「・・・あれに乗って出陣するの?」

心配そうにおれを見上げる。

「わかりません。ですが、戦御体を動かせる人材は不足してますからね。畑松を倒したことで、材料が入るようになって織部衆の皆さんが張り切ってしまって。戦御体を作りすぎているんです。乗り手もいないのに」

「もう、危ないことは駄目ですよ。あなたは強いわけじゃないんだから」

「承知しています。ですが、おれも武士の子、後ろの方で小さくなっているわけにもいかないのです」

部屋の真ん中で二人は向かい合って話している。

前のように、隣に来てくれないのが寂しい気もするがこれは我慢するしかない。ましてや今は同じ屋敷に妙珠殿もいることだ。

「・・・・義陽」

「はい?」

急に姉上が真剣な目でおれを見た。

「・・・・・」

「・・・・・」

「なんでもありません」

「何ですか!?」

姉上は何か言おうとしたはずなのだが、そのまま黙って出て行ってしまった。

やはり妙珠殿との婚儀が妬けるのだろうか。だとすればおれにはうれしいことだが・・・。

あんなはっきりしない姉上は初めてだ。気にならないわけがない。




「我が名は稲部長綱(いなべながつな)と申します。以後、霞家の再興に尽力いたします」

なんというか、田舎から来た山男、と言った風貌の男だ。

髪も髭も黒々として、伸びたい放題にもしゃもしゃしている。

「どちらの国から参られたのですか?」

おれは別に興味はなかったが、一応聞いてみた。それが仕事だ。

相模(さがみ)から参った。手土産に、鹿を二頭、熊を一頭持ってまいりました」

「鹿と、熊?」

「おう!綺麗な鹿と、大きな熊だ!旨い鍋が作れる!」

「・・・はぁ」

「お前も鹿と熊を喰えば、もっと体が大きくなるぞ!」

もしゃもしゃはそう言って、おれの背中をドンと叩いた。

・・・馬鹿力。

一瞬、息ができなかった。


上総(かずさ)から参りました、上原幸臣(うえはらゆきおみ)と申す者にございます。どうぞ、お見知りおきを」

そう言って頭を下げる。

さっきとはうってかわって、整った顔立ちの優男。身なりもやたら綺麗で、常に着物の埃を払っている。

「はぁ、どうぞお見知りおきを」

「しかし、伊豆とは、こうも埃っぽいところなのですねぇ。潮の香りがして、どうも鼻が曲がりそうです」

着物の袖で鼻を隠す優男。

その時、一匹の蝿が優男の顔の前を飛んでいった。

「まぁ!蝿などが舞っておるではありませんか!成敗!!」

腰の刀を抜く。

「や、やめてくだされ!蝿一匹に刀を抜くなど!!あ、危ない!!」

優男は蝿を追いかけまわして部屋の襖を切り刻んだ。



「武蔵から参りました、千浦和門(ちうらかずかど)と申す!」

「禿げ頭の小男だ」

「は!?」

「あ、す、すみません。なんでもないです」

いかん、頭が混乱して心の声と口から出る声を間違えた。

「ええと、此度は、何ゆえに我らに助力をいただけると?」

「ごほん、――よくぞ聞いてくだされた。われは武蔵国住人、千浦和門と申す者。いやいや、名乗りだけで終えるなど千浦の家名に泥を塗るもの。そもそも我が千浦家というは、今を去ること二百余年、まだ東国に王法の光も行き届かぬ頃より武をもって国境を守り続けた家にて――いや、二百では足りぬ、祖父は三百と言い張っておりましたな。始祖は千浦為景(ためかげ)公。北の荒野に巣食い、人を喰らうとまで噂された悪大夫(あくだいふ)黒鋼丸(くろがねまる)を討ち果たした御仁にございます。その折、為景公はただ太刀を振るったのではござらぬ。三日三晩、雪を踏み分け、兵を伏せ、敵の息遣いを読み、ただ一太刀――それが千浦の始まり。以来、我らは剣を誇らず、守りを誇る家。されど世は乱れ、朝廷の威も遠のき、武蔵の地もまた群雄割拠。

その折、救いの手を差し伸べてくだされたのが――霞家にござる。霞宗長公の代、飢饉にて民が倒れ伏した折、霞の御旗(おんはた)は武蔵へ風のごとく現れ、米を分け、兵を退け、名を求めず去られた。恩とは、言葉ではなく生き方に宿るもの。ゆえに我ら千浦は代々申し伝えております。霞の旗立たば、千浦は影となれ。影は名を求めぬ。ただ主の背を守るのみ。ゆえに此度、伊豆にて霞の御旗上がると聞き、鎧も乾かぬまま馬を走らせ参じた次第。ああ、申しておきますが、千浦の馬は早い。これは血統でしてな、曾祖父の代より――(以下延々と続くが略)」




「殿!」

おれは宗近殿のところへ飛び込む。

「・・・どうした?」

「どうもこうも、まともな奴が来ません!名前と顔も覚えられません!人が多すぎてここが狭くて仕方ありません!もしゃもしゃで優男でよく喋る禿げ頭です!」

「最後の方は何のことだ?」

「細かいことは気にせんでくだされ!ともかく、もう限界にございます!これなら牛に踏まれた方が幾分かマシというもの!」

「・・・言うことはわからんが、気持ちはわかった。ともかく、真摯(しんし)に勤めよ」

「はい!わかりました!御免!」


そう言ってその場を辞した。


・・・あれ?


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