80 芽吹ノ章 七
それから姉上はおれのところへあまり来なくなった。
やってきてもほとんど話さず、おれの肩にもたれかかってぼんやりと遠くを見ている。
ある日の夕刻だった。暗くなってきたので、おれは灯台に明かりをつけて筆を持った。
すると、いつものようにするすると姉上が入ってきて、何も言わずにおれの肩にもたれかかった。
「・・・姉上」
「なあに?」
「姉上がそうしていると、汐永は火が消えたみたいです」
「・・・・」
「おれは早く、おれの邪魔ばかりする姉上に会いたいです」
「・・・・そうだよね。でも・・・・」
「でも?」
姉上は振り向いて、息が軽くかかるくらいまで顔を近づけてきた。
「兄上だけじゃなくて、義陽までいなくなったら・・・って。あの時思って・・・わたし、怖くて怖くて・・・。もう、義陽も戻ってこないのじゃないかと・・・」
初めて見た姉上の哀しい目。今までそんな顔を見せたことがないのに。
まだおれの知らない顔を持っていたんだと、その時知った。
その瞬間、とても特別な何かがおれの中で渦を巻いた。
姉上に触れたい。
とても愛おしく思った。愛したくてたまらなくなった。
姉上じゃない、汐永藤月という女のことがたまらなく愛おしく感じた。
愛しさが他のすべての感情を塗りつぶした。うしろめたさ、喪失感、悲しさ。
そんなものはもうない。おれの前にいる、この人を愛したいという気持ちしかなかった。
おれの一番近くにいる人。
おれのことを、いつも一番に心配してくれる人。
おれにとって特別な人。
おれは姉上の頬に触れた。
こんなに柔らかい。
触れるのは初めてじゃないはずなのに。
少し頬が赤みを帯びてきた。
それでも姉上の目はまっすぐおれを見ている。
目の中のおれは少し潤んでいた。
そして、その目をゆっくりと閉じた。
姉上の唇が何か言おうと動きかけたとき、おれは唇でそれを塞いだ。
驚いたように離そうとしたから、おれは両腕で姉上を抱きしめた。
離したくなかった。
今までずっと、こうしたかった。
今はずっと、こうしていたい。
もう、気持ちを抑えきれなかった。
細い肩を強く抱き寄せる。
姉上の香りがおれの中に満ちてくる。
懐かしさと哀しみに満ちた香り。
どれくらいの刻が経っただろう。
ゆっくりと唇を離す。
姉上は目を開けておれをまっすぐ見つめる。
頬はほんのり赤く紅潮して、熱のある吐息が吐き出される。
とてもとても小さな掠れた声で、おれの名を呼んだ。
「義陽・・・・」
そして姉上はゆっくりと、手をおれの頬にあてて・・・・。
ぱしっ!!
ひっぱたいた。
「痛い!?」
「まったく、調子乗らないで!わたしはこう見えても霞総大将の妻ですからね!」
「で、でも・・・・」
「何?またひっぱたかれたいの!?」
「す、すみません」
「次からはちゃんと許しを得てからにしてちょうだい!」
え?
そう言ってそそくさと姉上は出て行った。
廊下を走る足音が遠ざかっていく。
その瞬間、ひどい罪悪感に苛まれた。頭を抱えて転げ回る。
あー、やってしまった・・・。
・・・明日から、気まずいかな・・・・。
そんなことを思いながら、姉上の唇の感触を忘れられずにいた。
姉上はどう思っていただろう?
次の日、昼間から姉上はおれの書の邪魔をしに来た。
そしてまた何も言わず、おれの肩にもたれかかると、おれの頬をつねった。
「いたた・・・。何でしょう、いきなり」
「何か、言いなさい」
「・・・昨夜はごめんなさい」
「謝ってほしいのじゃないのだけど?」
「ええと。好きです」
「よろしい」
今度は姉上から唇を重ねてきた。
「姉上からするときは、許しはいらないので?」
「あたりまえでしょ!」
それからというもの、以前よりもおれの筆の邪魔をするようになった。
「ともかく、戦御体の入手が急務だ」
宗近殿が、おれと父上、兼信殿を集めて言った。
伊豆の北を走る街道は、畑松によって封鎖されてしまった。それにより伊豆霞領に入って来る物資は限りがある。以前の汐永領で使っていた霜田港が唯一の搬入口となっている。
「そこで、おれがある者たちに頼み、御体を一体、御体匠を一人ここへ呼んだ」
宗近殿は伊豆の地図を広げ、霜田港を示した。
「近いうちにこの霜田港に御体と御体匠を乗せた船が着く。そこで、義陽に迎えに行ってほしい」
「・・・またですか?」
「まただ。兼信殿はこのまま御造所の造営を続けてもらう。その間の政はおれと絃眉殿で行う。よいか?」
「お任せくだされ!わしもまだまだやれるんじゃ!」
父上がどんと胸を叩く。
・・・心配だ。
「ですが宗近殿、戦御体が来たとて、繰り手はおりますのか?」
兼信殿が言う。
「繰り手とは?」
おれにはわからない言葉ばかりだ。
「繰り手とは、御体を動かせる力・・・霊力というが、その力を持った者のことだ。霊力を持った者が御体の御霊石に触れなければ、戦御体は動かぬ」
「ほお・・・」
兼信殿の説明はいつもわかりやすい。それに対し、宗近殿の説明はいつも訳がわからん。
・・・・ちょっと待て。
「あの、おれが港まで戦御体を取りに行く・・・・。戦御体は霊力がないと動かない?」
「そうだ」
事も無げに頷く宗近殿。
「で、おれはどうやってここまで戦御体を運んでくるのですか?」
「わかりきったこと。乗ってくればよい」




