98 花舞ノ章 一
「他にも客がいるようですな」
屋根の上に見え隠れする影を見つめる。
「そうだろうな。われら以外にも思惑を抱く者は多い」
「いかがなさいますか?」
「行くしかあるまい。今宵を逃せば後はない」
「承知しました。手筈通りに」
「頼む」
男はそう言うと、屋根の上を走る影を見つめた。
今宵、桐高上皇の居所で宴が催される。
いくらかの公卿、高名な僧侶、貴族たちも招かれた。
朝から女房や使用人たちが慌ただしく庭を整えている。
昼頃から貴族たちが院御所に集まり始め、御遊が始まるのを待つ。
舞のための舞台が組まれ、その正面に上皇のための御簾が下ろされる。
今夜の客たちの目的のほとんどが、今夜招かれた白拍子である。今、都で最も人気の高い白拍子とあって、貴族や公卿たちの間でも話題に上がっていた。
「寵を受けぬ白拍子だという話だ」
「いや、この宵を待っていたのではないか?」
「神の如き舞を舞うと言われておるが、真か?」
「見るものすべてを虜にすると言われておる」
誰かの寵愛に身を委ねることなく、その所作の美しさ、舞の華麗さ、そして機知に富んだ唄、そして生まれ持った艶のある美貌で都中で知らぬものもない。
誰がその白拍子に寵愛を与えるのかという話で持ち切りの中、此度の上皇からの指名に貴族たちが、「これ以上ない御仁だ、あきらめざるを得ない」と悔しがっていた。
先日、顕和親王が何者かに暗殺された。
それは見るに堪えない光景であったらしい。
自宅の部屋の中で壁と天井を血で染め、体は腕、足、首、胴・・・すべてがバラバラに切り裂かれていたという。
桐高にはそのような殺し方を好む集団に心当たりがあったものの、口をつぐんだ。
沈黙は我が身を助ける。
その直後の宴の催しだけに、院御所の警護に当たる武士たちには、宴の集まる皇族、公卿、貴族たちについての厳しい緘口令が敷かれ、百人規模に及ぶ警戒が行われた。
宵の口になると、笛や鼓の演奏が始まる。
それまで話声でがやがやとしていた場が、すっと音楽一色に満たされる。
香が焚かれ、あたりに甘い香りが漂い始める。
そこにいる誰もが、白拍子の登場を心待ちにしていた。
瑞奈王はいつも通り、白い水干に袖を通す。赤い長袴をはき、頭には長烏帽子をかぶる。
腰に鞘巻という舞に使う短刀。扇を懐に入れ、長い髪を先端で縛り後ろへ垂らす。
白粉で顔を白く塗る。濃くなりすぎてはいけない。だが、夜会の時は舞台が暗いので、薄すぎると顔が見えにくい。どれくらいが一番良いかは、経験で知っている。舞台を見ればわかる。自分を引き立たせる、一番美しく見せるための化粧が。
そして濃い目の紅を唇に差し、頬にも紅を添える。
こうして白拍子は、より神に近い存在へと変貌する。白拍子は舞により神を降す役を果たす。
やがて鼓の音が変わる。
出番だ。
扇で顔を隠して、舞台へ上がる。
舞台の中心まで進み、ゆっくりと扇を下げ、顔を露にする。
まわりの貴族たちから、「おお・・・」と、低い声が漏れる。
「瑞奈と申します」
会釈はしない。だが、目線は上げない。
上皇のいる御簾の方を見てはいけない。それが流儀だ。
ゆっくりと両腕を広げ、笛と鼓に合わせて指を躍らせる。
足運びは静かに。足音を立てない。
扇を持った手で、静かに宙を掬う。
誰もがその舞の美しさに息を飲んでいる。ため息さえ聞こえる。
瑞奈王は舞の所作の中で、時折扇で顔を隠す。
その一瞬であたりを窺う。居並ぶ貴族や公卿たち。舞台の正面に御簾が掛けられ、あそこから上皇がこちらを見ている。
視線を感じる。たくさんの視線。
・・・待っていた。
ずっとずっと。
この時を。
斎尾は、ひとりの滅士、四人の創徒を連れて屋根の上を飛び回る。
顕和親王暗殺ほど容易い仕事はなかった。
「ただ、殺せばいい」
そう伶守からは言われていたが、そんなつまらない仕事などするものか。
どうせ殺すのだ。これ以上ないくらいに派手に殺したい。
殺しとは芸である。
恐怖とは、芸を際立たせる最高の導きである。
今夜の上皇暗殺もそうだ。
ただ殺すならいつでもできる。そう思っていたから、破主も伶守も手を出さなかったのだろう。使い道があるからだ。
だが、緋家も紀基が死去した今、滅亡の一途をたどりつつある。その緋家を都から追い出した木曽霞だって虫の息だ。伊豆霞家から木曽討伐の兵が出た以上、上皇にはもう用がない。
殺したってかまわないだろう?どうせ用済みだ。
今夜のことは、顕和親王暗殺の時と違って斎尾の独断だ。
上皇が消えれば伶守の価値も消える。そうなれば、二の衆の破導である斎尾が破主に次ぐ地位を得る。
簡単なことだ。
やるべきことはやってしまえ。
院御所の上まで来た。下の方に、篝火の明かりが見える。
斎尾が五人の部下たちに目くばせすると、五人はそれぞれに散っていった。
「さて、こちらも宴だ」
ニヤリと嗤うと、斎尾は腰の太刀を抜いた。
その篝火の火の粉がはぜて飛ぶ。その音は笛の音に消される。
瑞奈王は舞を続ける。
―――舞を見ている全員をわたしの虜にする。
それが瑞奈王が白拍子として持つ、やらなくてはならない使命。
舞台を大きく使い、誰からも、どこからも、すべての見る者が魅了されるように。
その場の誰もが、手に持った盃を忘れるほど。
香の煙が風に揺れるものの、瑞奈王のまわりだけは刻が置き去りにされたように、篝火の光さえその明るさを恥じらっていた。
時には水面を走る白い鳥のように。
時には池に映る満月のように。
そして、笛に合わせて、”今様”を詠む。
ゆっくりと、ひとつひとつの音を響かせるように。
月影高く 照らせども
露の命は 朝に消ゆ
法を守ると 誓いし人の
・・・・
ゆっくりと、最後の一節を読み上げる前に、桐高上皇の前に進む。
手に持った扇を捨て、腰の短刀を抜く。
一気に御簾の前に走り寄る。
この舞が終わった時、この呪いも消える・・・。
心は誰に 寄り添ふや




