95 芽吹ノ章 二十二
それから数日。
妙珠はなかなか体調が戻らず、まだ寝たまま過ごしている。
「大丈夫ですか、妙珠殿」
「殿、お帰りなさい」
そう言って布団から出ようとする妙珠を手で制する。
「そのまま、そのまま」
竹丸はすやすやと寝ている。
「ごめんなさい、まだ竹丸を抱いてやれなくて・・・」
「いいのですよ。まずは体を治してくださいね」
「・・・はい。ごめんなさい・・・」
顔を横へ向けてしまった。その横顔は、出会った頃の儚げな天与様の横顔に見えた。
枕元にあの櫛が置いてある。
はやく、この櫛で梳いた妙珠の美しい髪を見たいと思った。
「大丈夫です。おれは必ず、妙珠のところへ帰ってきますからね」
数日後、姉上がおれのところに来た。几帳台を挟んで向かい合わせに腰を下ろす。
岩姫は母上に預けてきたのだろうか。ひとりでおれに会いに来るのはずっとなかったことだ。
「義陽、妙珠殿はどう?」
「・・・まだ寝ております。体が辛そうで・・・」
「かわいそうに。まだ満足に竹丸を抱いてやれていないのでしょう?それに・・・」
姉上は言葉を切った。
「女房達から聞きました。乳も出ていないとか・・・」
「・・・はい。妙珠本人も気にしていました」
腹の底に重いものが沈む。胸を悪戯に締め付けるような鈍い感覚。
「医者には見せたの?」
「はい。ともかく、栄養を付けよと・・・」
「・・・食べ物は?」
「食べても戻してしまいます」
はぁ、と姉上がため息をつく。
「・・・八幡様はこういう場合もご利益をくださるのかしら?」
「さあ・・・勝負事の神様ですからね。ですが、安産祈願は八幡様でお願いしました」
「都なら陰陽師がいるのでしょうけど・・・このようなところでは・・・・」
陰陽師?
おれは、思わず立ち上がって走り出した。
「あ、義陽!?」
姉上の呼ぶ声は聞こえなかった。
淡影殿に頼んで、ミカナ殿を借りた。
竹丸を抱いたおれと、姉上が立ち会う。
妙珠を前に、ミカナ殿が何やら詞を読み上げ、香に火をつける。部屋の四隅に塩を盛り、縄を張る。
「では、参る」
そう言って一心不乱に髪を振り乱して両手で印を結ぶと、前に置いた式神を下ろす紙の札がふわっと浮き上がる。
「!!」
ミカナ殿が手をかざすと、その式神は一瞬光を放って消えた。
「・・・・・」
「終わった」
長い沈黙の後、ミカナ殿が一言そう言った。
「・・・どうなのですか?」
「・・・少し、違うところで話そうではないか」
そう言ってミカナ殿は立ち上がった。
「はっきり結論を言う。悪いものが憑いておるということはない」
「・・・そうですか」
全身の力が一気に抜ける。
「では、何が悪いのですか?」
姉上が身を乗り出す。
「・・・悪いものが入ったのではない。良いものがすべて出てしまったのじゃ」
・・・・・・。
すぐには言葉の意味が分からなかった。
しばらくして、おれと姉上が同時に、おれの腕の中の竹丸を見る。
「なので、今はおれには何もできぬ。払うものがないのでな。医者の言うように、精の付くものを食べさせるしかないじゃろう」
「・・・助かりますか?」
「そこまではおれにはわからん。人の寿命はそれぞれじゃ」
おれは肩の力が抜けて、がっくりとうなだれてしまった。
「気をしっかり持たれよ。人はだれしも、やるべきことを成すしかない。あとあと、夢見が悪くないようにな」
「・・・はい」
ミカナ殿はそれだけ言って出て行った。
大の男が幼い娘に人の道を説かれているのは滑稽だったろう。
だが、どんなに笑われても、恥をかいてでも、妙珠を救いたい。
「義陽・・・」
姉上がおれの肩に手を置く。
おれはその手を握ると、出来る限りの笑顔を作った。
「駄目と決まったわけではありません。妙珠にはもう少し頑張ってもらいましょう」
竹丸はおれの腕の中で手足を伸ばしたり縮めたりしている。
誰も悪くない。誰にも罪はない。それがわかっただけでも前に進んだのだ。
「関ノ府の北、甲斐の依田盛広へ使者を送り、我らに組するか否かを問うた!だが、その返答を待ったが返事はなく、それどころか依田は兵を集め、戦御体を入手したとの知らせを受けた!これより、我ら霞は軍を率いて、甲斐の依田を征伐に向かう!我らに逆らう緋家に組することの愚かさを思い知らせてやるがよい!」
おおー!!
宗近殿は家臣たちを集めて決起を行った。
「姉上・・・おれはまた戦に出なくてはなりません」
「どうしても、義陽が行かねばならないのか、わたしが殿に掛け合います!」
姉上の鼻息は荒い。
「いけません。汐永が出ないとなれば、今後汐永家は霞家とのつながりを他の者に疑われます。以前とは違います。われらは大きくなり過ぎました。やるべきことを成さなければ」
「ですが・・・」
「妙珠のことを頼みます。近頃は薄い粥なら食べられるようになってきました。竹丸は父上と母上に預けていきます」
「・・・必ず、帰ってくるのですよ。妻と子を置いて行ったきりは許しません」
「承知しております」
「妙珠殿にも・・・会ってお行きなさいね」
「はい」
おれは頷いた。
「・・・妙珠殿、起きていますか?」
「殿・・・・」
おれが入ってくると、やつれた青白い顔をおれの方へ向けた。
おれが鎧を身に着けていることで察したのだろう。すこし悲し気に眉を寄せた。
「すみません。行かなくてはいけないところが出来てしまいました」
「はい・・・。ご無事でお帰りくださいね・・・」
「もちろんです。調子はいかがですか?」
「今日は・・・だいぶ良いです。粥を半分いただきました」
「それはよかったです!おれが帰ってきたときには、また一緒に飯をいただきましょうね」
「・・・はい。思い出しますね・・・・。霜田での・・・」
「・・・大根汁は旨かったです。いまでも舌が覚えています」
そう言うと、少し笑う。
「あんなもので・・・よかったのですか・・・?」
「はい。あのとき、妙珠を嫁にすると決めましたから」
「・・・よかった・・・・」
「妙珠は、おれでよかったのですか?」
「・・・はい、もちろん。・・・わたしは・・・幸せです。殿のおかげで・・・・わたしは幸せですよ」
「おれもあなたと一緒にいられることが幸せです」
「・・・ありがとうございます。もったいないお言葉です・・・」
疲れた目でおれを見る。
なんだろう、胸が痛い。目頭が熱い。
もっと、一緒にいたい。それだけなのに。
「おれの留守中は、姉上が来てくれます。急いで帰ってきますから、待っていてくださいね」
「・・・はい。お待ちしております・・・」
「約定してください」
「・・・はい」
そう言って少し笑顔を見せた。
こけた頬と窪んだ目、それでも妙珠は天女様だ。
あまりに美しい。あまりに儚い。
そしてあまりにも、愛しい。




