馬が会う
『あら、そうなの? 気をつけてね』
電話の向こう。母は、いつもと変わらない調子でそう言った。
しばらく帰らないかもしれない。と家出めいた僕の告白を聞いた上で。
いくら夏休みだとはいえ、理由も告げないそんな発言をすんなりと受け入れられた事に驚き――いや、驚く必要もない。
これが僕の母なのだ……大丈夫なのかよ。
「親御さん、何か言ってた?」
背後から聞こえた声に振り返り「いや、何も」と苦笑する。彼はとても慈悲深い笑みを浮かべ「そっか」と呟いた。
山へと続く道路を歩く。町から離れるように。
家出――と言うのも不適切だろうか。わざわざ家に電話してるし。
逃亡。
逃避行。
そう、僕はこれから逃げようとしている。
自分を取り巻く不確かなモノから。
そしていずれ訪れる未来から。
只の現実逃避だってのは理解してる。
結局、逃げても――。
「逃げても何も変わらない。そんな顔してるね」
「あ、いや……」
自分の気持ちを読まれたのが少し気恥ずかしく、一瞬合った目を逸らす。
「逃げる事は恥ずかしい行為じゃない――」
歩きながら、彼はそう言った。
「何もせず立ち止まっているよりは。流れに身を任せるよりは。前だろうが後ろだろうが、自分の意思で進む事は決して非難される事じゃないと思うよ」
「そう……かな」
「それとも、やっぱり女の子に囲まれていた方が楽しいかい……?」
「そっ、そんな事ないよ!」
少し寂しそうな顔を見せた彼に慌てて否定したが、そんな僕を見てくすりと笑ったそれが、彼の冗談だと分かり、またも気恥ずかしくなる。
「そんな難しく考える必要はないんだよ。自分探しの旅――ってわけでもないね。そうだ修司君、スタンド・バイ・ミーって映画を知ってるかい? 彼らがどうして旅に出たのかは忘れちゃったけど、あの線路を歩くシーンは幼心に焼きついているよ」
――気心の知れた友人と、こうやって冒険の旅に出てみたいなぁってね。
彼の言葉に、僕は深く共感を抱いた。
冒険譚は、いつだって少年の心をくすぐるものだ。
いや、少年だけではない。多分大人になったって、当てのない旅に出たくなったりするんだろう。
「女の子には分からないさ。コレは僕達、男同士のちょっとした冒険だよ」
「男同士――」
どうしてだろう。その言葉は、僕の心にすっと染み渡るような気がした。
考えてみれば、これが普通なんだ。
男同士でつるむのは、少なくとも大量の女性に囲まれて過ごす日常よりはまともだ。時雨町に来る前だって、女子との接点は教室に限定されたモノであって、休日に連れ立って出歩くような事はなかった。親友と呼べる間柄ではなかったが、やはり近くにいたのは同性だったわけで。
でも、今だって別に嫌だというわけじゃない。
皆僕の事を気遣ってくれる優しい子(真剣で切りかかってきたり神経毒を注入されたりもしたが)ばかりだし、一緒に居て楽しい。
それでも何だろう。この安心感は。
「どうかしたかい?」
「ん。いや、僕は同性に飢えていたのかもなって」
そう言った瞬間、彼は僅かに驚いた表情を浮かべて、額を押さえた。
「……修司君が両刀使いだっていうパターンを想像できなかったよ」
「りょっ!? 違っ! そういう意味じゃなくて!」
「ふふ。大丈夫だよ。分かってる」
クスリと笑ったその顔を直視する事がはばかられるのは、実は深層的に僕が二刀流なんかじゃなく、彼があまりにもイケメンすぎるからだと信じたい。
「そ、そうだ! まだ名前聞いてなかったよね?」
「有馬涼――十二支枝、馬の韻さ。改めてよろしく」
「よろしく――涼君」
自然に差し出されたその手を、しっかりと握る。その手はやはり温もりに満ちていた。
「……ちょっといいかな」
チラリと上を見て、涼君が握った手もそのままに歩き出す。道を外れ、誰の目にもつかない、木々に覆われた森の中へ。
「ど、どうしたの?」
問いかけると、彼はピタリと足を止め、
「人目につかない場所で二人きり――修司君はどうしたい?」
妖しげな笑みを浮かべて、そう言った。
「えっ……? ど、どうしたいって言われても……」
どうしたい? どうにかなっちゃうの!? 人気のない、人目のつかない場所で!?
「ふふ。空を見てごらん。アレは雨雲さ。この流れだともう少しで一雨来そうだ」
僕の困惑を笑いながら空を指差す。見ると灰色の雲が浮かんでいた。
「このまま歩いていたら一時間後にはずぶ濡れだろうからね。少しだけスピードを上げないと。道を外れたのはそのためさ」
道を外れるのとスピードを上げる事の関連性は良く分からなかったが、疑問を口にする前にソレは起こった。
彼が両手を開くと同時に、その身体を灰色のオーラが包み込んだ。何度も見た十二支枝の力。それでも僕が驚いたのは、霧が晴れるように消えたオーラの、その先にある彼の姿が見えたから。
足が――増えていた。
いや、足が増えていたんじゃない。変わっていたんだ。
足が。下半身が。
人間のモノじゃなく、馬のソレに。
「ケンタウルス……」
思わず口から言葉が漏れた。
目の前にいる彼――有馬涼の姿は、神話にでてくるソレによく似ていたから。
「気持ち悪くないかな?」
少し寂しげに笑いながら尋ねる彼に、僕は大きく首を横に振った。
狗飼さんは耳や尻尾といった獣の一部が身体に現れるが、彼のようにまるっきり身体が変化するという十二支枝は居なかった。驚かなかったと言えば嘘になるけど、それは畏れからくるものではなく、神々しささえ感じる。
「全然。むしろかっこいいと思うよ」
そう言うと、彼が僅かに安堵の表情を浮かべた。
「よし、じゃあ後ろに乗ってくれるかい? 雨が来る前に移動しておこう」
「あ、うん――」
僕が標準体型だからといって、後ろに乗って重くはないだろうかと少し心配したが、手で触れるとそれは杞憂だと思わせる程、獣の部分は硬い筋肉に覆われていた。
「そんなにスピードは出さないけど、とりあえずリュックにでも掴まっててくれるかな? 残念ながら掴み易そうな大きい胸は持ち合わせてないからね」
僕をからかうような軽いジョークも彼なら。
男同士なら。
困惑する事はなく笑って掛け合える。
「それはちょっと残念。二人乗りにラッキースケベは付き物だと思ってたんだけど」
「――掴む場所がないわけじゃないんだよ?」
「……」
前言撤回。
「ふふ。じゃあ行こうか――」
そう言うと、彼は走り出す。
軽快な蹄の音と肌で感じる風の心地良さは、なんとなく懐かしい感じがした。




