迫り来る不安
――龍ヶ崎家――
一体、何がどうなっているんだろう。
家庭ではありえない、天井の大きな梁を目にした時は、また虎口先輩に助けられたのか、と思った。でも、そうじゃない。
辺りを見渡して、雰囲気の違いと、隣で無防備に寝息を立てる龍ヶ崎さんを見て――混乱した。うん、ちょっと整理しよう。
昨夜、僕は十二支枝の二人――唐牛胡桃と毛利未華の待つクルミルクに行った。
目的は、捕らわれた狗飼さんを救うため。
着いてみたら、牛なのか羊なのか犬なのか良く分からない置物があって。
それには爆弾が仕掛けられていて。
止めたければ――エッチ……しろって?
「何だ――夢か」
思考を停止した。
これは夢だ。そう考えるのが無難だろう。
そうと分かれば、もう少し龍ヶ崎さんの顔を眺めていても――。
目が合った。
僅かに頬を染め、楽園を埋め尽くす高貴な花の様に。
「おはようございます。修司さん」
そう言って、微笑んだ。
「あ、お、おはよう……ございます……」
布団の中で、きつく太ももをつねったけど――痛かった。
「昨日、一体どうなされたんですか?」
「昨日……ですか? 実は良く覚えていないんですよ」
龍ヶ崎さんに、一連の出来事を説明する。
「それで――どうなされたんですか?」
「えっ……どう……って……」
責めるような厳しい視線。続きを言えと、相手に要求された――その先を語れと。
「す、隅にあったベッドに行って……。その……」
思わず言葉に詰まる。清々しい朝のはずなのに、静まり返った道場に流れる重圧。拷問に等しい。
「最後まで…致したのですか……?」
「……分からないんです。記憶が……無くて……」
覚えているのは、アメリカン顔負けのボリューミーな膨らみと、柔らかさと、味。
「そう……ですか……」
寂しそうに顔を伏せるその表情は、どんな刃物よりも鋭く、僕の心に罪悪感を刻んだ。
「すいませんでした……」
「どうして謝るのですか? 何に対しての謝罪ですか?」
「それは……」
「状況は理解いたしました。朋子さんのためだという事も。でも、見知らぬ女性に迫られて、修司さんはほんの僅かでも――嫌だ、と思いましたか?」
畳み掛けるように放たれた、龍ヶ崎さんの問いに答える事は出来なかった。
躊躇いはしたが、嫌だとは思わなかった。
背中を押されるがまま、広げられた腕の中に。
「誰とでも……致すのですか?」
「それはっ――。……違うと……思います……」
歯切れの悪い返事だった。きっぱりと否定する事など出来なかった。
健全な男子なら当たり前だ――と、おどけられる雰囲気でも。
その瞬間。龍ヶ崎さんが僕の身体を床に押し倒した。物静かな彼女らしくない、積極的な行動。
「私の気持ちに……気付いておられるのでしょう?」
生まれて初めてだった。避けようのない好意を、はっきりとぶつけられたのは。
「求めれば――受け入れてくれる。そうですわね?」
多分、龍ヶ崎その人に求められて応じない男は、世の中には存在しない。
家柄も良く、容姿も、性格も。全てのパラメータに全振りした挙句、強くてニューゲームしてもう一周した様なステータス。苦手なのは――料理だけ。
だからこそ、僕じゃない。
「……龍ヶ崎さんが僕を慕ってくれるのも、皆が傍にいてくれるのも――僕が主だから……だと思います」
「私のこの気持ちは……偽物だと……言うのですか……?」
寂しそうに呟くその瞳からは、今にも涙が零れ落ちそう。
好意を踏みにじるような、酷い事を言っている自覚はある。だけど、そうでなきゃ説明がつかない。
僕は今まで、女の子とロクに話した事は無かった。バレンタインデーは母からチョコを貰う日だと思っているし、女の子から届くメールは、やたらテンションの高い文面で謎サイトに誘導するモノばかり。顔面を含む全ての偏差値は、贔屓目に見ても平均よりやや下。
そんな僕が、時雨町に来た途端。あの石版を割った瞬間。
不自然な程、周囲に彼女達が集まってきた。
全てが決まっている事のように、無条件で寄せられる好意。
それは――僕の不安を助長させていった。
「全てが終わったら……改めて想いを伝えます……」
そっと胸に顔を寄せて、彼女が呟いた。
「私の元へ来てくれただけで、今は充分です――」
全てが終わったら。
一体僕達はどうなるのだろう。
想像したら――とても怖くなった。
――浴宮神社――
彼の居ないこの場所を訪れるのは――いつ以来だろう。長い階段を上がると、彼の母上が境内の掃除をしていた。
「あら。おはよう蓮ちゃん」
「おはようございます」
彼の母上は、巫女の衣装が良く似合う素敵な女性。優しい微笑みは、少女であり、聖母でもあるかのような、見る者の心を癒す力を持っている。
「あら、ごめんなさいね。修ちゃんまだ戻ってきてないのよ」
「あ、いえ。今日は恵ちゃんに渡すものがあって」
そう言って紙袋を軽く持ち上げる。中に入ってるのは普通の漫画本で、無論そんな約束はしていない。恵と接触する理由を作る、ただの小道具だ。
「あらそうなの。色々とありがとうね。まだお部屋で寝てると思うから、起こしちゃってくれる?」
「わかりました。それでは、お邪魔させていただきます」
頭を下げ、彼の家に向かった。
彼のベッドの上。凹凸の少ない肢体を惜しげもなく晒した幼女が、すやすやと寝息を立てている。薄手のタオルケットは、無残にも床に落下していた。
これは――けしからん光景だ。
「おい。起きるのだ幼女よ」
「ん……。何じゃ――虎か……」
チラリと私を見ると、見るからに不機嫌そうな顔を浮かべ、再び目を閉じた。
「何じゃ――じゃない。その格好、いくら子供でも無防備すぎるぞ」
彼に幼女を襲う趣味はないと思うが――目覚められては困る。
「ふん。わしは子供ではない」
「分かっている。だが、彼も一応男なんだぞ」
「その時はその時。流れに身を委ねるだけじゃ」
「ばっ、馬鹿を言うな! 昔はどうかしらんが、今は幼女に手を出したら犯罪だ!」
冗談じゃない。犯罪者にされても困る。
「じゃからの。わしは幼女などではない。この姿でも、りっぱな成人じゃ」
「は……?」
一瞬、自分の耳を疑った。
「この身体――恵は弱冠じゃ。今は二十歳と呼ぶんじゃったかのぉ?」
「は、は、は、二十歳だとっ!?」
「朝から大きい声を出すでない。うるさくてかなわん」
「でっ、でもっ! 彼の事をにぃにと呼ぶではないか!」
「ああ――あれはの、てれびあにめとやらで覚えたのじゃ。幼子にそう呼ばれて喜ばぬ雄はおらんのじゃろう? わしのようなものを『ごーほーろり』と呼ぶらしいの?」
……有害だ! そんなアニメを放送するな! いや、放送してもいいが、画面の中から出てくるな!
「ちょいちょい迫っておるんじゃがな、全く情け無い小僧よ」
「迫ってくれるなよ……」
「それで、何のようじゃ。昨日はどうなったのじゃ?」
「ああ、言われた通りクルミルクに行ったら、牛と羊が転がっていて、犬が半分牛に食われて、メ~と鳴いていた」
「……全く分からんぞ」
自分でもそう思ったが――説明するのは面倒だった。
「――それでだな、彼が朋子のお尻に顔を埋めていたんだ。引き剥がした瞬間、今度は私達を襲ってきた」
「襲ってきたじゃと? それは性的な意味で?」
「性的な意味で――って何でそんな言葉を知ってるんだ!?」
「目が覚めてから、この世界を学ぶために相当本を嗜んだからの」
……情操教育が必要だったか。時既に遅し。
「……話を戻すぞ。私達が抵抗すると、逃げ出してそのまま隣町、龍ヶ崎の家まで行ったらしい」
「ふむ。ご機嫌じゃのう。それで、小僧は龍の家で捕まえられたわけじゃな?」
「捕まえた……とはちょっと違うんだ……。彼は……龍ヶ崎を……無理矢理……」
「ほう。先を越されてしまったのか。それは残念じゃのう」
恵の言葉が、胸を締め付ける。
「残念だと!? 無理矢理だぞ! そんなの許されるわけがない!」
「見知らぬ仲でもないし、抵抗できぬわけでもない。龍が望んだ結果じゃろう?」
「だからといって――」
――私、今とっても幸せですわ。
龍ヶ崎の言葉を思い出す。それが、全ての答え。
それ以上言葉を紡ぐ事は出来なかった。
「で、これからどうするのじゃ?」
「あ、ああ。とりあえず九時に皆を道場に呼んである。羊と牛も来るはずだ。昨夜はまともに話をしてなかったからな」
「ほう。素直に来ると思うか?」
「必ず来る」
家や電話番号まで知られた彼女達に、逃走という選択肢は無い。
まぁ、それでなくてもあの怯え様だ。自分でやっていながら、人はタオルの様に回るものだと理解した。獣の力は――世界を滅ぼせるのかもしれない。少々反省している。
「ふむ、では準備するかのう」
大きな伸びをして、恵がベッドから飛び降りる。
「そうじゃ――今日の寄合い、小僧は呼ぶに足らぬ――」
扉の前で、顔だけ振り返り恵は言った。
「明かすのは――もう少し先じゃ」
――常契塚――
家の前まで送ってもらった僕は、そのまま家には戻らず、常契塚と呼ばれるこの場所に来ていた。決して石段を上がるのが面倒だったわけじゃない。
何となく――此処に来れば、この胸のモヤモヤが晴れるような気がしたから。
彼女達は、虎口先輩の道場に集まっているらしい。仲良く皆で遊ぶ――なんて理由ではなく、多分昨夜の事。
自分が何をしたのか、何故龍ヶ崎さんの家に居たのか、僕には何一つ分からない。
そして、何故僕が呼ばれていないのか――も。
分からないし、知りたくもない。
知るのが――怖い。
新しい道路。新しい建物。
僕が時雨町から離れていた十年程で、この町も少しずつ変わっているんだろう。
でも、此処から見える時雨町は、何も変わらない様に思えた。昔の事を覚えてはいないけど、それでもこの場所は、この場所だけは懐かしく感じる。
ハーレムラブコメの主人公のようにはいかない。
誰かを選べば、誰かを傷つける。
でも、誰も選ばないという選択が出来るほど強くは無い。
昨夜、唐牛胡桃にそうされた時、僕は断れたはずだ。爆弾なんてあるはずもないし、もし本当にあったのだとしても、爆発なんかさせないはず。
狗飼さんの為? そうじゃない。誰かとそうなる事を、僕は望んでいた。
望んでいたけど、怖かった。
自分を納得させる理由を探し、自分で決めず、誰かが背中を押してくれるのを待っていた。
もし昨夜、僕が彼女と一線を越えているのだとしても、皆は僕を許すだろう。それで尚、僕に好意を向ける筈。
決して自惚れているわけじゃない。そう確信させる程、異常なんだ。
鬼を封印したら、彼女達はどうなるんだろう。
変わらず僕に好意を向けてくれるのか、それとも蜘蛛の子を散らすように去っていくのか。どっちに転んでも――辛い。
考えるのも嫌になる。
このまま、消えてしまいたいくらいに――。
背後で聞こえた、土を踏みしめる音に振り返る。真夏にしては暑苦しいワークブーツと擦り切れたジーンズ。長袖のシャツを腰に巻き、くたびれたリュックを背負った人物。その格好は、ここが何処か山の頂かと錯覚を起こすようだった。
「おはよう」
彼は柔らかく微笑むと、声量は控えめだが、良く通る声で言った。
「あ、お、おはよう……」
少し驚きながらも返事を返す。
同年代くらいかな。それにしても――イケメンだ。イケメンとはこういう人の事を言うのだろう。中性的な顔立ちと、相反したワイルドな格好。全てが絵に描いたよう。
「哀しい顔をしているね。どうかしたのかい?」
「えっ? あ、いや――別にどうもしないよ」
心配そうに見つめる彼の視線に、慌てて顔を逸らした。心配されるほど酷い顔をしていたのかと思うと気恥ずかしかったし、その澄んだ瞳を見つめているだけで、全てを話しているような気分にさせられたから。
「大丈夫。話せばきっと楽になるよ――」
彼の両手がそっと僕の頬を包み、視線を誘導する。予期せぬ行動に心臓が高鳴った。
どうして僕は男にときめいているんだ? 内に隠された未知なる性癖に目覚めたのか? いやいやそれはない。断じて――多分無い。
「……君も……十二支枝――なの?」
沸いた疑問を、僕は躊躇いもせず口にした。初対面の相手からの過剰な接触。自分の中でもう答えは分かっていた筈。
だけど、彼の返事は予想外のモノだった。
「どっちならいい?」
「え?」
「修司君はどっちを望むんだい?」
その時点で、彼が十二支枝である事は明らか。だけど分からない。
もし僕が『十二支枝じゃない方が良い』と望んだら――。
「十二支枝じゃなくても、僕はずっと君の傍に居るよ」
心を読んだかのような彼の言葉は、僕が今一番欲しかった言葉。訪れた変化に恐怖を、先で待つ未来に不安を感じていた僕の心に、その言葉は優しく寄り添ってた。
「……どうすればいいか……分からないんだ――」
救いを求めた心が、言葉を紡いだ。
「そっか。それはとても辛い事だね」
僕の情け無い愚痴を聞いた彼が、静かに口を開いた。
「つくづく自分の甲斐性の無さが嫌になるよ。いっそ逃げ出したいくらいに」
恥ずかしくなり、自虐的に笑う。
「じゃあ、一緒に逃げよう」
彼の言葉に、一瞬耳を疑った。
「に、逃げるって何処に?」
「何処だっていいさ。君が行きたいところに僕が連れて行ってあげるよ」
嘘や冗談ではなく、彼の言葉が本物である事はすぐに理解した。こんなとんでもない話、普段の僕なら丁重にお断りする筈なのだが。
「この町から……出たい――」
心が、そう告げたのだった。




