敗北の鉢合わせ 2
走るペンの音と、ページをめくる音だけがただっぴろい道場に響く。
四角いテーブルの正面に座る中谷さんが、たまに心配そうに僕を見つめる。
左には黙々と課題をこなす先輩、右にはだるそうにペンを回す茜――どうしてこうなった。
「なっ、中谷さん。この問題なんだけど――」
沈黙に押しつぶされそうになった。もしこれが我慢大会なら、僕は初戦敗退、といったところか。
「私が教えてやろう。これはな、まずはその数式を――」
「それ、Cやで」
先輩の言葉を遮るように、茜が答えを口にした。パキっと芯が折れる音に背筋が凍る。
「お前、答えを教えては勉強の意味がないだろう!」
「学校ちゃうねんで。そんなもんは先生の仕事や。一々解き方教えとったら終わるのも終わらんわ」
一触即発。いや、すでに始まっているのかもしれない。このままじゃ確実に被害者が出る。
「だ、大丈夫大丈夫! 頑張るから、頑張りますから……」
再び、沈黙が僕達を包んだ。
「お、もうこんな時間か。お昼にしようか」
時計の音がお昼を告げる。もうお昼? いや、まだお昼、だ。
ここは精神と時の道場かと錯覚するほど時間の流れは遅い。重力は多分限界値に設定してある事だろう。疲労が物凄い。
「なぁ修ちゃん。どこか美味しいお店教えてや! 昨日のお礼にウチがおごるよって」
「えっ? そんな、いいよ悪いし」
「私がいい店を教えてやろう。だからお前は一人で食べてくるといい。二人は少し待っていてくれ、すぐ昼食の準備をするから」
この二人に一時休戦は無い。お昼とかいいから帰りたい――。
「せやけど――休みなのに随分寂しい道場やな。門下生もおらんみたいやし、潰れとるんか?」
茜の言葉に、先輩の眉がピクリと上がった。
「……家の道場は門下生をとらないだけだ」
「そんな事言うて、本当は誰も入らんだけとちゃうん? 道場は立派やけど、それが師範の腕に比例するわけちゃうからなぁ――」
茜の暴言ともとれる言葉。それは先輩の怒りに火をつけた。
「当主は私だが――その物言い、貴様も武道を嗜んでいる様だな。試してみるか?」
『お前』ではなく『貴様』と言った。冷静を保ってはいるが、完全にご立腹。嬉しくないランクアップ。中谷さんも心配そうに二人を見ている。
「武道? ハハッ、笑わせたらあかんで。武器に頼らな戦えへん武道など、ウチの相手にならへん。やるだけ無駄や」
「逃げる気か? 流石関西人――口だけは達者のようだな」
売り言葉に買い言葉。もうこうなったら誰にも止められない。
「なんやて!? ほなやったるわ! 吠え面かくなや!」
「貴様こそ、歩いて帰れると思うなよ。今日は救急車で家まで送ってやろう」
「ちょ、ちょっと待った! 言い過ぎた茜! しかも勝てるわけない! 先輩はめちゃくちゃ強いんだ、怪我をするのがオチだぞ。とりあえず謝ってくれよ」
僕が連れてきたわけではないが、こうなったのも僕の責任。流石に殺されはしないと思うが、怪我くらいはするかもしれない。
「大丈夫やで修ちゃん。ほな、ウチが勝ったら修ちゃんはもらっていくで」
にっこりと笑い、先輩に言い放つ。僕は賞品じゃないぞ。
「いいだろう。まぁ、病院で昼食を取る事になるがな。百合子、こいつの防具を頼む」
「は、はいっ!」
「そんなんいらんで。持ってくるならアンタの分や。その綺麗な顔、傷ついたら可哀想やからなぁ~」
彼女の唇から覗く八重歯は、今では人を小馬鹿にしているかの様。
道端で感じた不安が、ついに現実のモノとなった。
机を片付けた道場の真ん中、二人が対峙する。
「へぇ、まぁまぁ出来るみたいやな。まぁそれでもウチには勝てへんけど」
竹刀を握る先輩を前に、尚も軽口を叩く茜。
昨日帰り際に言ってた拳法――彼女の独特な構えと自信、それが冗談ではなかった事を悟らせた。
「貴様も――逃げなかった事だけは褒めてやろう。百合子、合図を頼む」
鋭い眼光で茜を睨む。戸惑いながらも、中谷さんが大きく手を上げた。
「はっ、始めっ!」
合図とほぼ同時、真っ先に動いたのは――僕の隣に駆けてきた中谷さん。二人はまだ、一歩も動いていない。
「茜さん……凄い強い人なんですか?」
「いや、どうだろう……。分からないけど、どうして?」
「試合の時、蓮ちゃんはいつもビュンって飛び出してやぁ! ってするんです。でも、今は何だか動けずにいるような気がして……」
ビュンって飛び出てやぁ! 何とも微笑ましい表現だが、絵にすると凄まじいのだろう。
言いたい事は分かった。猛攻型の先輩が動かない――それは茜に警戒しているから。
だが、そんな状況に動きがあった。
先にしかけたのは茜の方。頭を下げたかと思った瞬間、彼女は大きく上に跳んだ。
彼女の身軽さは昨夜見て知っている。僕よりほんの少しだけ低い、百六十八センチはあるだろう先輩の身長を軽々と超え、前方宙返りから全体重を乗せた踵を落とす。
道場に激しい音が響く。振り下ろされた踵を、先輩は竹刀で受け止めた。眉間に浮いたシワから、その衝撃の強さがうかがえる。だが、すぐに竹刀を握りなおした。
サーカスの曲芸の様に宙を舞う茜。その着地の瞬間、獲物を狙うかの如く、先輩の竹刀が茜を襲う。
常人には避けようが無い太刀。だが、空中で身体をひねり、茜はそれをひらりとかわした。
先輩が少し驚いた顔を見せる。しかし彼女の勢いは止まらない。
無数の剣が茜に向かう――まさに猛攻。
一撃でも当たれば勝負はつくだろう威力の太刀。
茜は次々とかわすが、その顔に試合前の余裕さは感じられない。
そもそも、剣道と拳法じゃ後者が圧倒的に不利。リーチの長さ、攻撃の威力、どれをとっても勝てる要素はない。
まさに手も足も出ず。防戦一方の茜に、勝敗は見えたように思えた。
「そりゃあああああああああああ!」
道場に鳴り響く、茜の咆哮と衝撃音。
天を突くように、真っ直ぐ蹴り上げた後ろ回し蹴り――それは先輩の竹刀を粉砕した。
そして、間髪いれずにもう一回転、茜の拳が、先輩の腹部に深々と突き刺さる。
「ぐはっ!」
先輩の口から放たれた飛沫は終決の合図。そのまま床に崩れ落ちた。
「蓮ちゃん!」
中谷さんが先輩に駆け寄る。
「ぐっ……お……お前……」
初めて見る、先輩の苦痛に歪んだ顔。
「へぇ、普通は気絶しとるはずなんやけど、気を持っとるだけ大したもんやな」
息を切らし、玉の様な汗を浮かべながら茜が言った。
「興ざめやな、今日は帰るで。ほな修ちゃん、またメールするな~」
道場を出て行く茜に、何も声をかける事が出来なかった。
余りにも衝撃的な光景。それは虎口先輩が負けた事だけではない。
茜が竹刀を折った蹴りを放った時、僕は確かに目撃した。
彼女の背中に、大きな猿の姿を――。




