第1話 星を耕す魔女 一番幸せな朝
柔らかな朝の光が、緩やかな丘陵に広がる麦畑を照らしていた。
黄金色に染まり始めた穂先が、微風に揺れてさらさらと心地よい音を立てる。
私はふかふかの土に膝をつき、そっと指を沈めた。
指先から伝わるのは、夜の冷たさをわずかに残した土の湿り気と、生命の力強い鼓動。
目を閉じ、意識を深く、この惑星の奥底へと繋いでいく。
……この区画は、少し鉄分が足りないかな。重力の層を、あと数センチだけずらして……。
魔力を込め、祈るように小さく指を動かす。
目に見えない『星の重力』が、地層の奥深くを優しく揺らした。
私の指先で踊る重力は、まるでお母さんが赤ん坊をあやす手つきのように繊細だ。
深層にある栄養豊かな土が、呼吸をするようにゆっくりと表層へと浮き上がり、役目を終えた古い土と入れ替わっていく。
私――アストラは、いまだ研究されていない謎の魔法体系、『星』の属性を持って産まれた。
操れるのは主に重力。あとは、ほんの少し先の未来を覗き見ることができる『未来視』。
私が物心ついた頃、この村はとても貧しかった。
領主へと納める税も高く、その日食べる物にも困るほどで、お父さんとお母さんも必死に作物を育てていたけれど、土は痩せ、不作の連鎖から抜け出せずにいた。
だから、幼い私が自分の魔法に気づいた時、それは希望の光に思えたのだ。
『星』の魔法は、単なる破壊の道具ではない。
惑星が持つ生命のサイクルを、ほんの少しだけ手助けすることができる。
私は誰に教わるでもなく、泥だらけになりながら、小さな手で土壌の改善を試行錯誤し続けた。
そして、ついに成功した日。
一面に青々と茂った芽を見て、私は飛び跳ねて喜んだ。
ただ、純粋に褒めてほしかった。
これでもう、お父さんもお母さんも、村のみんなもお腹を空かせなくて済むのだと自慢したかった。
「お父さん、見て! 私、魔法でお野菜を元気にできたよ!」
笑顔で駆け寄った私を迎えたのは、称賛の声ではなかった。
――ガタガタと震え、見る間に血の気が引いていくお父さんの、幽霊でも見たかのような青ざめた顔。
あの時の絶望的な沈黙を、私は今でも、昨日のことのように思い出すことができる。
この国において、魔法使いは「人間」ではない。
王国の所有物、つまりは代えのきかない『国家資産』として登録される。
発見した国民には報告の義務があり、報告者には多額の褒賞金が支払われる。
しかし、もし隠匿したことが発覚すれば、本人は最も過酷な労働を強いられ、隠匿に関わった人間すべてが「反逆罪」として極刑に処される。
報告された魔法使いは聖騎士団の厳重な管理下に置かれ、その身も、心も、未来のすべてを国の繁栄と戦争のために捧げる義務を負う。
死ぬまで魔力を絞り取られ、戦場に投じられ、すり減れば捨てられる。
それが、この国に生まれた魔女が辿るべき、冷たい鋼のような運命だった。
……それでも私は今、ここにいる。
この村の誰も、私を褒賞金目当てに国へ売ろうとはしなかった。
お父さんの青ざめた顔は、私への恐怖ではなく、私を失うことへの、そして村が滅ぶことへの底知れない恐怖だったのだ。
村の人たちは皆、発覚すれば自分たちも殺されるという死刑台の上に立ちながら、私を隠し、今日まで守り続けてくれた。
私が魔女と村のみんなに伝わったとき、当時はとても貧しかったのに、その日食べる物すら困っていたのに、私を助けてくれたのだ。
そんな優しくて、温かい人たちがいるこの村で、私は生きていきたい。
だから私は、この強大な力をひた隠しにし、一粒の種が芽吹くためだけの、ささやかな「土壌改良」にその一生を捧げると誓った。
「アストラちゃん、おはよう! 今年もあんたのおかげで、最高の芽が出たよ」
顔を上げると、隣の畑を耕していた老農夫のジムさんが、しわくちゃの顔に満面の笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「おはよう、ジムさん。この区画の調整も終わったよ。来月には、村始まって以来の金色の波が見られるはずだよ」
「ははは! そいつは景気がいいや。あんたはこの村の宝物、いや、豊穣の女神様だねぇ」
ジムさんはそう言って、腰に下げていた麻布の包みを差し出してくれた。
「ほら、お礼だ。カミさんが今朝焼いたばかりのパンだよ。あんた、今日は特別な日なんだろ?」
受け取った包みからは、香ばしい小麦の香りと、手のひらをじわりと温めるぬくもりが伝わってくる。
「……ありがとう、ジムさん。大切に食べるね」
そう。今日は、私の二十歳の誕生日。
この国では、二十歳を過ぎて魔力の発現がない者は「非魔法使い」として、一生を平民として生きる権利を公的に保障されることになる。
二十歳を過ぎてから魔法が発現することは稀にあるらしいけど、その力は弱く国に役立つような魔法を使えないかららしい。
だから、今日一日を無事に過ごし、徴兵の記録に名前が載らなければ、私は永遠に「普通の村娘」として、この村で生きていけるのだ。
ジムさんだけじゃない。すれ違う村人たちが、皆、言葉には出さずとも温かな眼差しで私を見守ってくれる。
私が土壌改良に成功して以来、この村から飢えの二文字は消えた。
私にとって、この「パンの温かさ」や、作業を終えた後の「土の匂い」こそが、何物にも代えがたい幸福のすべてだった。
……だから、絶対に知られてはいけない。
一度でも国家の財産として「接収」されれば、二度とこの温かな土に触れることは叶わない。
冷たい鉄の檻に囲まれ、地図の上の数字として扱われるだけの部品。
そんな未来に、私の居場所なんてない。
私はただ、この村で土に触れ、みんなと笑い合い、そしていつか、この愛する村の土に還りたい。
それが、星を操る魔女の、たったひとつの……そして何よりも贅沢な、ささやかな願いだった。
作業を終え、私は自宅の小さなテーブルについた。
二十歳の誕生日の、特別な朝食。
ジムさんにもらったパンを一切れちぎり、口に運ぶ。
噛み締めるたびに広がる甘みと、鼻に抜ける豊かな香り。
「美味しい……」
独り言が、静かな部屋に溶けていく。
食事を終えた私は、習慣となっている『未来視』の儀式のために、古びた石を取り出した。
誕生日の朝、これからの運命を占う。
石に魔力を流し込むと、透明な石の中に銀河のような光が渦巻いた。
二十歳。今日を越えれば、私は自由になれる。
星よ、どうか私に、永遠の平穏を――。
星石に浮かび上がったのは、まばゆいばかりの『吉』の光だった。
穏やかな波のように広がる銀色の輝き。
それは、今日一日が、そしてこれからの人生が、平穏に満ちたものであることを約束しているかのようだった。
「……よかった」
私は胸を撫で下ろし、窓の外を眺めた。
青い空には雲一つなく、世界は祝福に満ちている。
昨日までは――いや、今この瞬間まで。
その予兆は、私の未来視には、ただの一片すら現れていなかったのだ。
村の入り口の方から、平穏を切り裂くような、重々しい鉄の靴音が聞こえてくることさえ。
不吉な金属音。馬の嘶き。
そして、私の家の前に止まった、逃げようのない、決定的な運命の足音。
トントン、と。
優しく、けれど拒絶を許さないリズムで、古びた木の扉が叩かれた。
それが、私の人生が『灰色』に染まり始める、最初の合図だった。




