第十四話
美雪が独立する話を聞いたのは僕が今日で三十五歳になる誕生日の日だった。
魚下店長の指示でバックヤードの整理をしていた夜勤中に僕のポケットに入っているスマホが、鳴り響いた、田中オーナーかと思ってスマホの画面を見たら美雪と表示されていた。美雪とはこの間のホテルの一見以来、体の関係はなく、普通のデートをするようになっていた。今日の夜も僕の誕生日を祝いたいと、美雪が遊びに来る予定だった。その話題かと思って電話に出た。
「竜ちゃん、お仕事中にごめんなさい、今、大丈夫?」
僕は少し手を休め、ちょっとならと言い、美雪の話を聞こうと思った。
「実は、話すタイミングがなくて言えなかったんだけど、私、独立してスナックのママになるの。」
僕は驚きはしなかった、いずれお母さんの知り合いの務めているスナックのバイトを辞めて独立して、自分もスナックを経営をしてママになりたいと、願っていた。美雪は二十五歳になる、そろそろだったかもしれない。僕は美雪に優しい声で言った。
「良かったじゃないか、これから大変だね、準備とか初期費用とか大丈夫そう?手伝いとかあったら、時間見つけて行くよ、美雪は明るいし、コミュ力があるからお客さんがたくさん来て、繁盛すると思うよ、」
頃合いだと思った、美雪の夢は独立して、結婚をして暖かい家庭を築く事だ、独立が叶った。後は幸せな結婚をして暖かい家庭を作ることだ。その役目は僕ではないと、いつも心の中で思っていた。
「それでね、今日の竜ちゃんの誕生日、私のお店でお祝いしたいと思うの店舗がね、もう出来てるんだ、どうかな時間は夜の七時頃、お酒も用意しておくね、当然プレゼントもね、」
僕は一つ返事でいいよと伝え電話を切った、開店祝いのお金も用意しなきゃいけないと思い、バックヤードの整理をしながら、今月の食費と使えるお金の計算を始めた。
今日も魚下店長の仕事欲の小言をくらい、田村さんの冷たい視線と、昼勤の冷たい言葉を受け、家に帰宅してきた。。夜の美雪との七時まで仮眠をとろうと思い、台所があるリビングで横になった。周りは静寂なはずなのに、耳の奥がキーンと音がして、目をつぶると人の気配がした。しばらくして不思議な気持ちになってきた。暖かいスープの匂いがしてきた。この匂いは覚えてる。家の朝の匂いだ、朝、お母さんが作っていたみそ汁の匂い、薄目を開けると、家の台所にお母さんが立っていた、その横にはお父さんが新聞を読んで座っていた。
「お父さん、お母さん、」
僕は心の中で呟いた、二人がこちらを振り返った瞬間に、急にスマホが鳴った。夢か、アラームだった。美雪のお店に行く時間になっていた。顔だけ洗おうと思い、洗面台に向かった。鏡を覗くと、目が赤く腫れ、頬に大量の涙の後があった。タオルで強く顔を拭き、支度をして外に出た。
僕は誕生日を迎えた、三十五歳。、人生はこのまま過ぎてくのだろうか?そう考えながら、繁華街の隅にある美雪のオープンするお店を目指した。あらかじめ、住所を送って貰っていたので、迷うことなくついた、美雪のお店は、少し古いレンガ調のビルの一階にあった、地味な見た目で看板が出ていなきゃ、スナックとは気づかないだろう、外には、四角い大きい電飾スタンド看板があった。そこにはスナック美雪とある。
僕は黒い扉を開けた、
「竜ちゃんいらっしゃい、」
カウンターの中には、作業する、美雪の姿があった、黒いブラウス姿を着ていた。少しピチっとしたブラウスは美雪のふくよかな胸を協調をさせいた。
「美雪、黒似合うね、独立おめでとう、これ少ないけど、」
そういって開店祝いの三万円が入った封筒を美雪に渡した。
「あら、ごめんね竜ちゃんが誕生日なのに、気を使わせちゃって、後で私からもプレゼント渡すね、」
僕はカウンターに腰をかけた、スナックの中の作りは、カウンターの椅子が八個位と、テーブル席が二つと、こじんまりとした、お店だった。店内の照明も少し暗く、青と赤の照明がチラチラと輝く、カラオケもできるみたいだった。美雪がいつもより無口なので、僕から話をかけた。
「美雪、カラオケ、好きだから歌い放題じゃん、お客さんいないとき、楽しめそうだね」
すると、僕の前にカクテルを出してきた美雪は、そうなの!とだけ答えて、またいろいろと作業に戻ったみたいだ、と、その時、奥の裏口から、誰かが出てきた。
「美雪、やっぱりコンビニじゃなくてスーパーに行って買ってきた!」
そう言って現れたのは、若い男だった、顔は、ほっそりとしていて、骨に皮膚をくっけただけの顔で、金髪でホスト風の男だった、黒いシャツの袖を少し、まくっていて、その腕のスキマからタトューが見えている。
「あ、竜ちゃん、紹介するね、この人はお店の立ち上げを手伝ってくれた、よっちゃん」
と美雪から紹介された、よっちゃんと呼ばれた男は、うっすとだけ答えて、奥のカウンターの椅子に腰をかけた、僕はどこで知り合ったの?どんな関係なの?と少し聞きたがったか、それを聞くことが許されないと思った。僕は美雪から出されたカクテルを飲み干した。
グラスを回収しにきた美雪が言ってきた。
「竜ちゃん、これからちょっと会える時間、少なくなるかもしれない。お店のオープンが来週なの、しばらくは、デートできないかもしれない。ごめんね、」
「いいよ僕も今、忙しいんだ、例の魚下店長が結構いろいろ言ってきてさー」
美雪が怒って言ってきた。
「もうその人、竜ちゃんより年下何でしょ?偉そうだよね、竜ちゃんも優しいからな、ガツンと言い返さなきゃ!」
気のせいなのか、その会話を聞いていた、テーブルに座る、ホスト風の男が薄く笑った気がした。
ややあって、夜は更けていった、ホスト風の男はずっとスマホを弄り、僕たちの会話を聞いていた。僕はここにきて二時間くらいだが、まだ一言もその男とも会話ができていない。
「ごめん、竜ちゃん、ちょっとお手洗いに行ってくるね、」
そう言って、トイレの扉に入っていた。それが合図のように、ホスト風の男もトイレの中に入っていった。僕は何となく気が付いていた。僕の中で一つを終わりにするために、少し間を置き、トイレの扉を静かに開けた。中に入ると、洗面台が一つあり、両端に扉がある、右が男子トイレ、左が女子トイレみたいだ。
女子トイレの中から、美雪の聞いたことがない、声がしてきた。
「ダメだよ、よっちゃん、彼氏来てんのに、」
「彼氏、EDなんでしょ?いいじゃん、」
僕はトイレの扉越しで別れをつげた、美雪、いままでありがとう、美雪の太陽になれなくて、ゴメン、お店を出た。夏の終わりの匂いがした、眠りたい、ただ、ひたすら、眠りたい、街の楽しそうな人々の声がなぜか悲しく響いていた。




