第29話 喪失——または、忘れたものについて
目を開けた瞬間、世界が違って見えた。
いや、違う。
世界は変わっていない。
変わったのは、自分の「目」だ。
聖司は、天井を見つめた。
古びた木の板。蜘蛛の巣。窓から差し込む朝日。
青い文字が浮かばない。
【契約視認】。転生してから当たり前のように使ってきたスキル。
それが、もうない。
聖司は、右手を顔の前にかざした。
ただの手だった。
何の情報も表示されない。何のステータスも見えない。
ただの、四十八年分の記憶を持った、三十五歳の男の手だった。
「先生、おはようございます」
イリアが、ドアを開けて入ってきた。
その手には、湯気の立つカップ。
「お茶を淹れました」
聖司は、ゆっくりと起き上がった。
イリアを見る。
彼女の中に「ユキ」を探そうとしない。
翡翠色の瞳。尖った耳。控えめな笑顔。
それは、ただの「イリア」だった。
「ありがとう」
聖司は、カップを受け取った。
口をつける。
軟水のお茶。いつもの味。
だが、今日は——違う気がした。
「最適解」ではない。
彼女が、俺のために淹れてくれた、ただのお茶だ。
「先生、どうしたんですか?」
イリアが、首を傾げた。
「私の名前、覚えてますか?」
「……イリア、だろう」
「よかった」
イリアが、ほっとしたように笑った。
「あれ、先生、泣いてるんですか?」
聖司は、頬に手をやった。
濡れていた。
「……何でもない。少し、疲れが残っているだけだ」
午前中、トーマスが事務所を訪ねてきた。
「湊先生、ちょっと相談があるんですが」
「座れ。何の相談だ」
トーマスは、椅子に座った。
「木工所の営業報告書なんですが、仕入先の書き方がよく分からなくて」
トーマスが、書類を差し出した。
聖司は、それを受け取った。
見えない。
青い文字も、浮き上がる条文も、何一つ見えない。
かつてなら、一瞬で「ここが不備だ」と分かった。
今は、何も分からない。
「……少し、時間をくれ」
聖司は、書類を机に広げた。
一行目から、読み始めた。
三十分が経った。
聖司は、書類を睨みつけていた。
トーマスが、心配そうに見ている。
イリアも、何も言わずに見守っている。
——ここだ。
聖司の指が、一点を指した。
「トーマス。この仕入先の『登録番号』、桁数が一つ足りない」
「え?」
「北方森林組合の正式な登録番号は八桁だ。ここには七桁しか書いてない」
トーマスが、身を乗り出した。
「本当だ……! 気づきませんでした」
「原本照合だ。お前の持っている登録証と、この書類を突き合わせて確認しろ。必ず、原本と照合する癖をつけろ」
聖司は、書類を返した。
「直したら、また持ってこい。俺が確認する」
「ありがとうございます、先生!」
トーマスが、嬉しそうに頭を下げた。
聖司は、小さく息を吐いた。
見えない。青い文字も、浮き上がる条文も、何一つ見えやしない。
だが不思議だな。
この薄汚れた羊皮紙の匂いが、今はたまらなく愛おしいんだ。
午後、バルザックが事務所に来た。
「おい、湊。お前、何かあったか」
「何が」
「雰囲気が違う。なんつーか……『軽く』なった」
聖司は、苦笑した。
「荷物を下ろしたんだよ。重すぎる荷物を」
「……?」
「気にするな。ただの疲れだ」
バルザックは、しばらく聖司を見つめていた。
やがて、肩をすくめた。
「まあ、お前がそう言うなら、そうなんだろう。——体は大事にしろよ」
「ああ」
バルザックが出ていった後、聖司は窓の外を見た。
紫がかった空。二つの月。
この世界は、何も変わっていない。
だが、聖司の中で——何かが、確かに変わった。
夕方。
聖司は、机に向かって書類を整理していた。
慣習法。
この世界には、仕様書(成文法)の他に、人々の中に根付いた「暗黙のルール」がある。
聖司は、それを一つ一つ、自分の目で確認しなければならない。
スキルがあった頃は、自動的に表示された。
今は、自分の頭で考え、自分の手で調べるしかない。
——面倒だ。
だが、この面倒さが——かつて日本で実務を覚えたての頃の、あの感覚を思い出させた。
万年筆の重み。
羊皮紙の手触り。
インクの匂い。
全てが、懐かしかった。
「先生」
イリアが、横に立っていた。
「今日は、早めに休んでください。顔色が良くないです」
「ああ……そうだな」
聖司は、万年筆を置いた。
ふと、手元の職印に目がいった。
日本から持ってきた、十三年来の相棒。
——傷の位置が、変わっている。
先代から引き継いだ傷が、消えていた。
代わりに、聖司が日本で使っていた職印と——全く同じ位置に、新しい傷が刻まれていた。
「……消えたんじゃない」
聖司は、呟いた。
「俺の『物語』は、ここから新しく刻み込まれるんだ」
「先生? 何か言いました?」
「いや、何でもない」
聖司は、職印を握りしめた。
転生者としての力は、失った。
神童としての全能感は、捨てた。
だが——
十三年の実務経験は、まだここにある。
イリアは、まだ隣にいる。
それだけあれば——十分だ。
「イリア」
「はい」
「明日から、また忙しくなる。——覚悟しておけ」
イリアが、嬉しそうに笑った。
「はい、先生。——ずっと、お側にいます」
窓の外で、二つの月が静かに輝いていた。
新しい物語が、ここから始まる。
第29話 完
次回予告
第30話「挑戦者——または、無能という噂について」
「湊聖司が『スキル』を失った?」
「ああ。あの男はもう、ただの凡人行政書士だ」
「なら、今が好機だな。——あの事務所を、俺たちで乗っ取る」
——スキルを失った噂は、瞬く間に広まった。
聖司を「無能」と見なした者たちが、事務所を狙って動き始める。
だが、彼らは知らない。
「泥臭い実務」の本当の強さを。




