第28話 選択——または、書類の限界について
イリアの瞳が、また光った。
琥珀色の輝き。
それは、彼女の中で「何か」が目覚めつつある証だった。
「先生、私、怖い」
イリアが、自分の体を抱きしめていた。
「知らない記憶が頭の中に流れ込んでくる。桜の花が咲いている道。白い病室。誰かの手を握っている感覚」
聖司は、黙って聞いていた。
それは、ユキの記憶だ。
高橋教授の娘が、最後に見た風景。
「私は私じゃなくなるんですか?」
イリアの声が、震えていた。
聖司は——
職印を、強く握りしめた。
日本から持ってきた、十三年来の相棒。
その冷たい金属の感触が、聖司を「行政書士」に引き戻した。
「イリア」
「はい」
「俺は今から、書類を書く」
「書類?」
「お前を救うための、書類だ」
聖司は、机に向かった。
万年筆を取り出す。
羊皮紙を広げる。
「先生、何を」
「黙って見ていろ。——俺の仕事を、見せてやる」
聖司は、『設計仕様書』を開いた。
高橋教授が書いた、この世界の「契約書」。
そこに、欠陥がないか。
瑕疵がないか。
行政書士の目で、精査する。
「教授。あんたは確かに天才だった」
聖司は、呟いた。
「法と物語を融合させ、世界を作った。だが——」
ページをめくる。
条文を読む。
そして——見つけた。
「ここだ」
聖司の目が、光った。
「第2章第3条。『転生者は、支援要員との関係において、世界の安定に資する行動をとるものとする』」
「それが、何か?」
「この条文には、重大な欠陥がある」
聖司は、イリアを見た。
「『支援要員』の定義条項がない。そして——『支援要員の同意』に関する規定が、どこにもない」
イリアは、首を傾げた。
「同意?」
「お前は、『支援要員』として設計された。だが、お前自身がそれに同意した記録がない」
聖司は、立ち上がった。
「被支援者の同意なき契約——いや、『設計』は、この世界の法においても無効だ。世界法第8条第2項。『手続き上の重大な瑕疵がある契約は、遡及的に無効とする』」
聖司は、万年筆を握った。
「教授、あんたは大きなミスをした」
羊皮紙に、文字を書き始める。
「法には『例外規定』があることを忘れたのか? 俺が今から書くのは、あんたの物語の続きじゃない」
一文字、一文字、丁寧に刻んでいく。
「イリアという一人の『善意の第三者』を救うための、ただの訂正書類だ」
『訂正申請書
申請者:湊聖司(転生者・第2号)
対象:設計仕様書 Ver.0.91
訂正事項:
第2章第3条「支援要員に関する規定」について、以下の通り訂正を申請する。
1. 支援要員「イリア」は、設計時に本人の同意を得ていない。
これは、世界法第8条第2項に規定する「重大な瑕疵」に該当する。
2. イリアは、設計の経緯を知らない「善意の第三者」である。
善意の第三者の権利は、世界法第9条により保護される。
3. よって、イリアに対する「職権消去」は、
法的根拠を欠く違法な処分であり、無効とすべきである。
訂正の代償:
本訂正の代償として、申請者は以下を提供する。
・転生者としての全権限
・この世界における特別な地位
・契約視認(Contract Sight)のスキル
以上を燃料として、世界の訂正を求める。』
イリアが、目を見開いた。
「先生、それって」
「俺が『転生者』であることを、やめるということだ」
聖司は、振り返らなかった。
「俺がこの世界で得た力。スキル。記憶の一部。——全部、差し出す」
「そんな! 先生がそれを失ったら——」
「俺は、元の『中途半端な自分』に戻る。それだけだ」
聖司は、万年筆を置いた。
訂正申請書は、完成した。
「先生!」
イリアが、聖司の腕を掴んだ。
「私のために、そこまで——」
「お前のためじゃない」
聖司は、イリアを見た。
「俺は、行政書士だ。依頼人を守るのが、俺の仕事だ。——お前は、俺の依頼人だ」
「でも——」
「それに」
聖司は、小さく笑った。
「神童なんて、もう飽きたんだよ。完璧な自分より、泥臭い自分の方が、俺には合ってる」
聖司は、職印を手に取った。
訂正申請書の末尾。署名欄の横に、印を押す場所がある。
「イリア。お前に聞きたい」
「はい」
「お前は、『ユキ』になりたいか?」
イリアは、首を横に振った。
「私は私でいたいです。先生の助手の、イリアでいたいです」
「そうか」
聖司は、職印を握りしめた。
「なら、俺がお前を『イリア』に引き戻してやる」
職印を、紙に押し付けた。
その瞬間——
事務所の壁が、揺らいだ。
空間が、ノイズのように歪む。
世界が、訂正申請を「受理」しようとしている。
「先生!」
「イリア、お前を『幽霊』にはさせない」
聖司は、職印を強く押し続けた。
体から、何かが抜けていくのを感じた。
スキルが、消えていく。
記憶が、薄れていく。
それでも——
「俺の全てを賭けて、お前をただの『助手』に引き戻してやる」
光が、事務所を包んだ。
聖司の意識が、遠のいていく。
最後に見えたのは——
イリアの瞳だった。
琥珀色ではない。
元の、翡翠色の——彼女自身の、瞳だった。
第28話 完
次回予告
第29話「喪失——または、忘れたものについて」
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう」
「先生、どうしたんですか? 私の名前、覚えてますか?」
「イリア、だろう」
「よかった。——あれ、先生、泣いてるんですか?」
——世界は書き換わった。
イリアは救われた。
だが、聖司は——何かを、失った。
それが何だったのか、もう思い出せない。




