第26話 疑惑——または、信じたいものについて
翌朝。
聖司は、いつもより早く事務所に来た。
一睡もできなかった。
目を閉じるたびに、先代の言葉が蘇る。
今のイリアは、俺が救った『オリジナル』ではない。
机に座り、窓の外を見つめた。
紫がかった空に、二つの月が薄く残っている。
この世界は、誰かに「設計」された。
自分は、「二人目」として送り込まれた。
そして、イリアは。
「先生、おはようございます」
イリアが、事務所に入ってきた。
いつもの笑顔。いつもの声。
「お茶を淹れますね」
イリアは、慣れた手つきで茶を淹れ始めた。
軟水のお茶。聖司の好みを、完璧に把握している。
完璧に。
聖司は、その言葉に引っかかった。
完璧すぎる。
彼女の動きは、全てが「聖司を喜ばせるための最適解」に見えた。
笑顔の角度。声のトーン。お茶を差し出すタイミング。
全てが計算されているように見えた。
「先生?」
イリアが、不思議そうに聖司を見つめていた。
「どうしたんですか? 顔色が悪いですよ」
「何でもない」
聖司は、お茶を受け取らなかった。
イリアの手が、空中で止まった。
「先生?」
「今日は、いい。自分で淹れる」
聖司は、立ち上がった。
イリアの顔が、曇った。
午前中、一人の老人が事務所を訪れた。
白髪。深い皺。背中は曲がっているが、目だけは鋭い。
「行政書士さん、相談があるんじゃが」
「座ってくれ。何の相談だ」
老人は、椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「わしは、この街で10年以上暮らしておる。じゃが、戸籍がないんじゃ」
「戸籍がない?」
「ああ。11年前のある日、気がついたらこの街にいた。それ以前の記憶が、曖昧でな」
聖司の体が、強張った。
11年前だ。
先代が消去された年だ。
「帰化申請をしたいんじゃ。この街の、正式な市民になりたい」
「帰化申請には、居住実態の証明が必要だ。10年以上の居住記録があれば、申請は可能だ」
「記録なら、ある。わしがこの10年で借りた家、払った税金、買ったパン——全部、記録がある」
老人は、鞄から書類の束を取り出した。
「これで、わしが『本物』だと証明できるかね」
聖司は、書類を精査した。
家賃の領収書。税金の納付記録。商店の購入履歴。
10年分の「生活の証拠」が、そこにあった。
「これだけあれば、居住実態の証明には十分だ」
「そうか。良かった」
老人は、安堵の息を吐いた。
「正直に言うとな、わしは時々、不安になるんじゃ」
「何が」
「わしは、本当に『わし』なのか。11年前より前の記憶がないわしは、もしかしたら——誰かの代わりに、ここに置かれた偽物なんじゃないかと」
聖司は、老人を見つめた。
その目には、聖司と同じ不安が宿っていた。
「じゃがな」
老人は、小さく笑った。
「わしは偽物かもしれんが、この10年で食べたパンの味は本物じゃ。この街で出会った人たちとの思い出も、本物じゃ」
「記憶がなくても、わしはこの10年を生きた。それは、誰にも否定できん『事実』じゃろう」
聖司は、答えられなかった。
老人が帰った後、聖司は机に座ったまま動けなかった。
——この10年で食べたパンの味は本物じゃ。
老人の言葉が、頭の中で響いていた。
イリアは、「再配置」された存在かもしれない。
だが、この11年間——聖司と共に過ごした時間は、「本物」ではないのか。
彼女が淹れてくれたお茶。彼女が見せてくれた笑顔。彼女が流した涙。
それは全て、「設計された演技」なのか。
それとも——
「先生」
イリアの声が、聖司を現実に引き戻した。
「今日、何かあったんですか? 朝から、ずっと——」
「イリア」
聖司は、イリアを見つめた。
その目は、冷たかった。
「お前に、聞きたいことがある」
「はい。何ですか?」
「お前は——11年前のことを、覚えているか?」
イリアの表情が、わずかに曇った。
「11年前? すみません、よく分かりません」
「俺がお前を檻から出した時。お前は、俺に何と言った?」
「えっと、『あなたは』と言って、それから——」
「それから?」
「『ありがとう』と、言いました。ですよね?」
聖司は、黙った。
イリアの答えは、「正しい」。
第1話の記録と、一致している。
だが——
「その時、お前の手は震えていたか」
「え?」
「俺の手を取った時、お前の手は——震えていたか」
イリアは、困惑した顔をしていた。
「すみません。覚えていません」
聖司は、目を閉じた。
やっぱりか。
彼女は、「記録」を持っている。
だが、「記憶」がない。
あの時の恐怖。あの時の安堵。あの時の——震え。
それが、彼女の中に存在しない。
「悪いな」
聖司は、立ち上がった。
「俺は、目に見える『書類』しか信じないことに決めたんだ。お前の笑顔に、どんな関数が組み込まれているかなんて興味はない」
イリアの顔が、蒼白になった。
「先生、何を言って」
「今日は帰れ。俺は、一人で仕事をする」
「でも——」
「帰れ」
聖司の声は、冷たかった。
イリアは、しばらく立ち尽くしていた。
やがて、小さく頷いた。
「分かりました」
彼女は、事務所を出ていった。
ドアが閉まる音が、静かに響いた。
一人になった事務所。
聖司は、机に突っ伏した。
「くそ」
自分が何をしているのか、分かっていた。
イリアを傷つけている。
彼女が「何者」であっても、今の彼女を傷つけていい理由にはならない。
だが——
信じられなかった。
「設計」された笑顔を、信じることができなかった。
夕方、イリアが戻ってきた。
その顔は、泣いた跡があった。
「先生」
「何だ」
「私、時々——夢を見るんです」
聖司は、顔を上げた。
「夢?」
「私が、今とは違う服を着て、今とは違う先生に、別の名前で呼ばれている夢を」
聖司の心臓が、跳ねた。
「別の名前?」
「はい。その先生は、私のことを——」
イリアは、少し躊躇ってから、言った。
「『ユキ』と、呼んでいました」
聖司の手から、ペンが滑り落ちた。
床に落ちて、砕けた。
「先生? どうしたんですか?」
聖司は、答えられなかった。
ユキ。
その名前を、聖司は知っていた。
高橋教授が、生前——唯一、愛した人の名前。
教授の娘。
二十年前に、病気で亡くなった——教授の、一人娘の名前だった。
第26話 完
次回予告
第27話「幽霊——または、名前の重さについて」
「高橋教授には、娘がいた。名前は、ユキ」
「その人は?」
「二十年前に死んだ。——だが、教授は諦めなかった」
「諦めなかった?」
「この世界を作った理由。転生者を送り込んだ理由。全ては——」
——高橋教授の「本当の目的」が、ついに明かされる。
そして、イリアの存在の意味が——。




