530.なぜそのようなことを望むのですか
シウリスの私室に一歩、足を踏み入れる。
ソファに深く腰を下ろして、彼はこちらを見ていた。
もう限界だ。
シウリスの顔を見た途端、涙が零れ落ちた。
皮肉なことに、ティナを殺した張本人の前でしか泣くことができない。涙の理由を知るのはシウリスだけなのだ。
気遣ってくれる部下たちの前で、筆頭大将という立場の人間が泣くことなど許されなかった。
けれど、誰かにわかって欲しい。このどうしようもない気持ちを。
シウリスが喉で笑い、立ち上がる。
「よいぞ、思う存分に泣け」
扉の前で立ち尽くしたままのアンナに迷いなく向かってきた。靴底が床を踏み鳴らし、正面に現れる。
けれど、顔を上げられなかった。視界に入るのは、彼の胸だけ。
「己の無力さがわかったであろう。姉すら助けられぬ、最低な人間だとな」
胸が抉られる。
その通りだ。成す術なく、ただ見ていることしかできなかった。
「生きる価値などない。生きているだけで、周りを不幸にする存在なのだ」
浴びせ掛けられる、心を刺す言葉。否定はできない。ただ、大粒の涙が流れていく。
責められたかった。
どうしようもないくらい、めちゃくちゃに。
優しい言葉なんていらない。ただ罰して欲しいだけ。
許しを乞う立場になどない。
「弱さは罪だ。弱くては守れぬ。失う。無様に泣き叫ぶ」
「──はい……その通りです……」
溢れる雫はひっきりなしに流れて、嗚咽は勝手に漏れる。
それでも彼に慈悲などない。
「せいぜい後悔しろ。己の力に絶望するがいい」
身体中に言葉が重くのし掛かる。苦しみが溜まっていく。
「だが──」
溜められる言葉。視線の先の彼の指が、わずかに握られる。
「死ぬことは許さん。お前には生き地獄を味わわせてやらねばいかんからな」
生き地獄。
耳に流れ込むその言葉に、ゆっくりと顔を上げた。
シウリスのはうっすらと笑っていて──アンナはまた、ほろりと涙を零す。
「はい、ありがとうございます……」
その瞬間、彼の眉は歪んだ。
「……なぜ礼を言う……」
「私に生きて欲しいと……そう、聞こえましたから……」
シウリスの大きな体躯が、わずかに揺れる。
交わる視線。沈黙が落ち、彼の瞳をただ見つめた。
「……なぜお前は俺を憎まない?」
やがて吐かれた言葉は、戸惑いを含む問いだった。
「俺はお前の婚約者を奪い、姉を奪った。その恨みはどこへ消えたのだ」
理解のできぬ顔。そして──垣間見える痛み。
「今お前の目に映っているのは深い悲しみだけだ。……もっと憎め、俺を」
沈むような語尾は、どこか揺らぐ湖面のようだった。
──憎しみ。
そういえば、どこに置いてきてしまったのか。
グレイを殺された当時は、確かに憎かったはずなのに。いつの間にかその感情は、日ごと薄れてしまっている。
だからと言って、完全に消えているわけでもなかった。
先ほどシウリスが放った言葉。
己の無力さ。姉すら助けられぬ、最低な人間。
生きる価値などない。周りを不幸にする存在。
弱さは罪。後悔と絶望。
あれはすべて──自分自身に向けられた言葉だったのではないだろうか。
瞬間、鋭い痛みが胸を刺す。脳内に感情が叩きつけられる。
──誰かにわかって欲しい。このどうしようもない気持ちを。
ハッと息を詰めた。
それは、さっきまで抱いていたアンナの思い。
きっと同じだ。シウリスも。
すべてを失った彼は、叫んでいたのだ。
心に渦巻く感情を。
十歳の頃から──ずっと。
そして、今も。
「憎め、俺を……憎め!!」
歪められた唇。漏れ出るは悲痛な声。
罰されたいのだろうか。
──いや。違う。
知りたい。わかりたい。
手を伸ばせば届くところまできている。なのに触れられない。
もどかしさに体が震えた。
すべてを知っていたのに。
幼き頃、彼を守ったが故に姉が亡くなったことを。
そして妹を守るため、母を殺めるしかなかったことも。
ずっと後悔していたことがある。
あの時、どれだけ突き放されても、傍を離れるべきではなかったのだと。
孤独の淵に立たされていた、彼のことを。
〝シウリス様のおそばにいさせてください〟
その幼き頃の願いと約束を、一度は手放した。
目の前には、なにかを訴えるような瞳のシウリスがいる。
今さらと言われようと、もうこれ以上の後悔はしたくない。
自分を憎めと悲痛な顔をする彼を、もう二度と。
当時は救えなかった、絶望の中の少年を──今こそ。
「憎むことなど致しません」
「……っ」
息の詰まる音がした。
予想外の言葉だったのか。唇を引き結ぶ彼を、そっと見上げる。
「シウリス様は、ずっと傷ついてこられました。もうこれ以上……おやめください」
自分を傷つけたくなる気持ちもわかっている。アンナもつい先ほどまでは同じ気持ちだった。
だからこそ、言える。必要なのは、自分を傷つけることではないと。
けれどもシウリスは顔を歪め、呟くように言葉を吐いた。
「憎め……憎まれたいのだ」
胸が沈む。根深いなにかがそこにある。
「なぜそのようなことを望むのですか……」
その瞬間、シウリスは大きく息を吸った。体が強張る。
握られた拳。ぶつかる視線。
「俺は!!」
弾けるような一声。心臓が跳ねる。
シウリスの顔は引き攣っていた。
飲み込む。けど耐え切れない。
息の吸われる音。
「アンナの心を! 俺で満たしたいだけだ!!」
放たれる言葉。
全身を駆け抜け、靄が吹き飛ばされた。
体が一瞬で熱くなる。
溜め込まれていたものは、驚くほど幼い。
ただの剥き出しの独占欲が、痛いほどに伝わった。
その顔は、ひとりぼっちで膝を抱える子どものようで。
アンナはただ、彼を見つめる。
「恐怖の心であれ、厭悪の心であれ、アンナの心が俺ので満たされればそれでよかった!! なのになぜ、お前は俺を憎まんのだ!!」
シウリスの悲痛な叫び。
胸の奥に仕舞っていた、彼の本音。
ようやく、解放してくれた。
そっと手を自分の胸へと当てる。
なぜだろうか。
先ほどまでの苦しみが落ち着き、心が少しずつ満ち始めていた。
「……シウリス様がなぜそのような荒んだ心になってしまったのかを──私は知っています」
シウリスの体がビクッと動く。恐れるようなその仕草に、言葉を和らげる。
「私の憎む気持ちはすでに人に向けられておりません」
「人には向けておらんだと?」
「はい」
ゆっくりと頷いた。うまく伝わるかはわからない。
それでも、アンナは言葉を紡ぐ。
「シウリス様を深く傷つけた、世界の構造が許せないのです」
まっすぐに伝えると、シウリスは動きを止めた。
彼の姉と妹は、陰謀により殺されている。母親を殺めなければいけなかった状況もあった。
政争、戦争、内部分裂。そんなのはきっと、王家に生まれなければ関わり合いにならなかったはずだ。
心が荒み歪むのも、当然のことだと受け入れる。
だからと言って、すべてが許されるとも思ってはいない。
シウリスには業がある。それは一生背負って生きていかなければいけない。
けれど……いやだからこそ、せめて自分だけは。
憎みたくないなどと、綺麗事かもしれない。
──それでも。
するりと涙が溢れた。
その涙の行方を、シウリスはじっと見守っている。
ぽとりと床に水玉ができた時。
彼は奥歯を噛みしめ、作った拳をワナワナと震えさせ始めた。
「……俺は、憎い……あいつらが……姉や妹を殺した奴らが!!」
掠れた声。消えない憎悪。
忘れろなどというつもりはない。自分の考えを押し付けるつもりもなかった。
アンナはゆっくりと、目を細める。
「きっと……それが愛なのです」
「なに……?」
不可解と言わんばかりに眉根を寄せるシウリスに──そっと微笑む。
「シウリス様がラファエラ様やルナリア様を愛してらっしゃったからこそ、怒りと憎しみがある。シウリス様の愛の深さがわかろうというものです」
言葉を紡いだ瞬間。
シウリスの顔は、子どものように崩れる。
もう離れてはいけない。彼の心を守るのだと。
同じ轍を踏む恐怖を振り払うように──そっと、頷いた。




