531.私の覚悟は、決まっておりますから
シウリスには、愛という感情がある。
だからこそ、こんなにも苦しんでいる──そう確信する。
しかしシウリスは、視線を沈ませて薄く笑った。
「俺にそんな感情はない……」
「あります」
自信を持って即断する。しかしシウリスはそれを否定するように睨んだ。
「俺は、お前を犯していたグレイも憎い」
「……え?」
あり得ない事実が時を止めた。
言っている意味がわからない。ただシウリスの瞳を覗く。
「あいつはアンナを穢していたのだろう」
どこか確信の宿った声。
「穢、す……?」
「そうだ。お前の、体を……!」
そうだ。以前も同じことを言っていた。
シウリスには、その行為が穢れたものだとしか映っていないのだ。
王妃を二人娶った父王や、不貞を繰り返した第二王妃のせいで。
アンナは瞳を上げると、まっすぐに訴えた。
「私は犯されてなどいません。虐げられてもいません」
「嘘をつけっ!!」
暴風のように声を叩きつけられる。けれど姿勢は崩さない。
すべてが穢れなわけがないというのに。そうとしか思えないシウリスが、あまりに憐れで。
胸が疼いた。
その行為の本当の意味を──知って欲しい。
「シウリス様」
芯のある声でその名を呼ぶ。シウリスの体が一瞬、硬直した。
叱られる直前の子どものようで。アンナはそっと語りかける。
「互いが思いやり、受け入れ合った男女の行為というものは──なにより尊いものなのです」
空気がそっと流れていった。
シウリスの瞳がわずかに揺れる。
──困惑。動揺。
長年、穢れとしか見ていなかった彼には、きっと衝撃でしかない事実。
瞳がゆっくりと逸らされていく。
「……俺には、わからん」
伏せられた横顔。そんな姿を見ていると、胸が軋んだ。
諦めたような態度が皮膚を突き刺す。
「いつか……きっとわかる時がきます」
そうあってほしい。だがシウリスは自虐的に笑う。
「俺を受け入れる女など、居はしないのにか?」
瞳は向けられないままだった。
ただその目は、誰より悲しく──そして澄んでいた。
あの頃の彼だ。
心臓が鳴る。
幼い頃から抱いていた、畏敬の念。
いつか彼が統べるとき、その隣にいたいと。
当時、アンナは確かに彼が好きだったのだ。
目の前にいる、シウリス・バルフォアのことが。
王族である彼を、好きになってはいけないと理解していながら。
それでも今、その想いが身体中を駆け巡った。
「私なら──受け入れられます」
自然と漏れ出た言葉。
シウリスが顔を上げた。目を見張りながらも、不可解な様子は消えない。
「……なんだと?」
「シウリス様が受け入れて下さるのならば──私も」
「俺に穢されたいとでも言うつもりか」
穢れだと思い込むシウリスに、そっと首を振る。
「そういう時は、穢すとは言わないんですよ」
「ではなんと言うのだ」
その問いには誤魔化さず、誠実に答えたかった。
胸が鳴る。息を吸う。そして──
「愛を確かめ合うと言うんです」
目を細める。
シウリスは息を呑み、ただ呆然としていた。
不思議だった。どうしてだか、頭がすっきりしてる。驚くほど心も落ち着いていた。
いつか、こんな日が来ることを待ち望んでいた。
昔の二人に戻れることを。
「お前の大切な者を奪ってきた、この俺を……受け入れるというのか?」
驚きの声音が静寂に響いた。
胸が震える。身体中が叫ぶ。
そこにいる、と。
幼き頃、共に学び、笑い、強く惹かれた彼の心が今──目の前に。
甘酸っぱさを帯びた心が、一気にアンナを支配していく。
「俺は……」
シウリスの手が、ゆっくりと伸びてくる。
どくん、と鼓動が鳴った。
昔見た瞳が、まっすぐに交差する。
見つめ合うだけで、肌が痺れそうになる。
その手が、指が、目の前に現れ──
止まった。
触れる直前で。息を止めるように。
けれど──揺れた。
「……シウリス、様……?」
声を上げた瞬間、その手は戻っていく。
「……俺はアンナに触れぬと……あいつに約束した」
空気が張り詰めた。
グレイがアンナを守るために交わした、約束。
それが今、枷となってシウリスを繋いでいる。
「……それは……」
グレイの顔が脳裏に浮かぶ。
こんな状況を見て、彼はなんと言うだろうか。
左手の薬指に宿る銀の光が、心を強く締めつける。
(捨てられない……私はあなたを──)
右手で指輪に触れる。
これは、グレイに対する裏切りなのだろうか。
きっと、知られれば非難されるだろう。
カールにも、トラヴァスにも。
だがアンナはもう、自分の気持ちに嘘はつけなかった。
ここで引いてしまえば、また今まで通りのシウリスに戻ってしまう。
離れない。そう決めたのだ。
シウリスのために。なにより、自分自身のためにも。
(ごめんなさい、グレイ……)
心の中で、かつての愛した人に謝罪する。
手に力が宿った。
そして背中の影を振り払うように、まっすぐシウリスに顔を向ける。
「私は、お待ちします」
言葉にすると、胸がいっぱいになった。誰への気持ちでなのかはわからない。
満たされるようで、引き裂かれるようで。唇が震える。
「待つ、だと……」
眉を顰めるシウリスに、ゆっくりと頷く。
「いつか……私に触れてくださる時を……」
時が止まるように、彼は動かなかった。
死を賭したグレイとの約束は、きっとシウリスの中でも重いものだ。
悩み、選び取るのは、彼自身。
シウリスの、わずかに息を吸う音がした。
「……信じても、よいのだな」
確認の言葉に、揺らぎが混じる。
裏切らない。絶対に。
その時には、拒んだりはしない。
「はい」
惑うことなく答えた。
じっと瞳を覗かれる。視線は逸らさない。
ふと──シウリスは目を細める。
「覚悟せねばならんぞ……互いにな」
覚悟という重い言葉。
なのにその声音は、どこか柔らかで。
頬は自然と緩んでいく。
「もちろんです。私の覚悟は、決まっておりますから」
そう告げた。迷いはない。
シウリスはほんの一瞬、眉を上げ──
「……っふ」
笑った。子どものような顔で。
懐かしさに、胸がきゅうっと締め付けられる。
──待っています。
アンナはもう一度、心でそう呟いた。




