529.離して
トラヴァスの部屋を出たアンナは、自室に戻るため王宮の廊下を歩いていた。
すると前から赤髪の男が歩いてくる。
なぜか、フルーツやパンなどの食べ物を、両手いっぱいに抱えて。
「カール?」
思わず声を掛けると、カールの肩が跳ねた。
「アンナ……!」
驚いたような表情。いつもの笑顔が出ていない。
その不自然さに、小首を捻りながら尋ねる。
「どうしたの? そんなにたくさん食べるつもり?」
「あ、ああ、まぁ……夜食だ、夜食」
「夜食って……」
ふと、グレイを思い出した。軍学校時代はフードコンテナいっぱいに夜食を詰め帰っていたことを。
(カールも夜食用に持って帰ってたって、言ってたわね)
ふっと息を吐く。呆れはしたが、夜食を食べるのは自然なことなのだろう。彼らにとっては。
「大丈夫? 運ぶの手伝いましょうか」
一歩踏み出し、手を伸ばす。
「い、いや、いい! 大丈夫だ、問題ねぇ」
逆にカールは一歩引き、食料を横に向けた。体で遮る形だ。
その態度に思わず眉を寄せた瞬間、ふと血の匂いが漂ってきた。
手が止まる。喉が引き攣る。
それは、ティナの──あの時の血の匂い。
脳が一瞬で暗闇に覆われ、昨夜の光景が広がった。
足元が覚束ない。
きっとカールの部屋は、その匂いで充満してしまっているのだ。
ティナの胸に突き刺さったカルティカが、脳裏に否応無く映し出された。
体が鉛のように重く、息が一気に苦しくなる。
「おい……どうしたんだよアンナ!?」
果物がいくつも床に転がった。気づけば、カールに左肩を揺すられている。
赤い瞳が、目の前にあった。寄せた眉が心配げに下がっている。
もう、言わずにはいられなかった。
「昨晩の女のことだけど……」
カールの腕がわずかに跳ねて、右手が離れていく。
「も、もういないぜ?」
「わかってる。その女が持っていた短剣が欲しいのよ」
「え? あ、あれか……あれは……」
一瞬、間が空く。
「す、捨てた。一緒に燃やしちまったからよ」
カールは左腕に抱えるバゲットに視線を寄せている。
目を逸らしてバツの悪そうな彼を、責めることもできない。
「……そう」
息が漏れた。
形見の品さえもない。そう思うと、声を上げて泣き叫びたくなる。
だができなかった。心配させてしまうだけだ。
視線を沈め、カールの横をすり抜ける。
「待てよ、アンナ。どうしたんだよ。あの短剣がどうかしたのか?」
背中にカールの声が届く。
「……なんでもないの」
振り返らず去ろうとした瞬間。
手首が乾いた音を立て、掴まれた。
肌に食い込むような指先。強引に振り向かされ、視線をぶつけられる。
燃えるような瞳から、思わず目を逸らした。
「離して」
「離さねぇよ。なんかあったろ」
答えられない。でも肯定もしない。
カールはしばらくそんな姿をじっと見ていたが、ひとつ息を吐いた。
「わかんねぇよ、言ってくれねぇと」
「……」
それでも、言葉が出てこない。
カールは一度顔を歪めたが、すぐに意思のある顔へと立ち戻る。
「わぁった。無理にとは言わねぇよ。けど、話せる時には言ってくれ」
言葉は出ない。
正直、そんな日が来るのかどうかはわからなかった。それでも彼の気持ちに応えて頷く。
手は離された。空気に触れた手首が、一瞬で冷えていく。
「……なんでも言ってくれよ」
声が耳に届く。
これ以上心配をかけるわけにも、疑惑を向けられるわけにもいかない。
「ごめんなさい、もう大丈夫よ。少し疲れていただけ」
無理やり笑みを作る。けれど、人の機微に聡いカールには通じないだろう。
すぐに踵を返す。急いで足を踏み出し、逃げるように去る。
「アンナ!」
離れた場所から、カールの声が飛んできた。その場で足が止まる。だが振り返らない。
そんなアンナに構わず、カールは叫んだ。
「俺は筆頭大将のためなら、なんだってやれる。どんなことでも頼ってくれよ!」
熱い言葉。胸が苦しくなるくらいの。
しかし、今かけてほしい言葉はそんなことではなかった。
なにも反応することなく、早足でその場を去る。
違う……違う。
ただ、苦しい。
助けを求めるように行き着いた先。
それは自室ではなく──シウリスの部屋。
その扉をノックし名前を告げる。
「……アンナ?」
中から漏れる、ほんの少しの驚きが混じった声。
「入れ」
しかし直後の声は冷たく、鋭い。
そうしてアンナは──言われるままに、自らの意志で足を踏み入れた。




