511.誰がシウリス様を裏切りましょうか
翌日。
冬の冷気が残る闘技場に、乾いた金属音が響いていた。アンナは第一軍団の訓練を指揮しながら、一人一人の動きを鋭く見極める。
その最中だった。場の空気が、不意に変わる。誰が現れたのかは、考えるまでもない。
アンナは即座に動きを止め、姿勢を正す。胸に拳を当て、敬礼する。
「いかがなさいましたか。シウリス様」
視線の先に、王の姿があった。闘技場に現れるだけで、場の温度が一段下がる。
胸の奥で、わずかに鼓動が速まった。この場所で何度も死線を越えさせられてきた記憶が、否応なく蘇る。
まさかまた、手合わせを命じられるのではないかと、息を詰めた。
「聞きたいことがある」
「っは。なんでしょう」
短く告げると、シウリスは踵を返した。真紅のマントが風を孕んで翻る。
「ついて来い」
それだけを残し、歩き出した。
アンナは一瞬だけ周囲を見渡し、隊長へ視線で指示を送る。統率を任せると、迷いなく王の後を追った。
執務室か、あるいは談話室か。そう思いながら廊下を進んでいたが、着いた先は屋外だった。
陽光はあるものの、肌を刺す風は鋭い。シウリスは近くの騎士に命じ、アンナと自らの馬を用意させた。
「シウリス様……お話ではなかったのですか?」
「黙ってついてこい」
それ以上の言葉は許されない。
理由を問うこともできぬまま、アンナは手綱を取り、シウリスと並んで王都を出た。
護衛の姿はない。紺鉄の牙も随伴していない。
王と将──ただ二人きりの道行き。
冬の空気は鋭く、頬を刺すように冷たい。馬の蹄が地を打つ音だけが響いていく。
やがて辿り着いたのは、小高い丘だった。王都を一望できる場所。
シウリスは先に馬を降りると、なにも言わずにその景色を見下ろす。アンナも続き、隣に立った。
視界の先には王都が広がり、そのすべてが冬の淡い光に包まれていた。
一体、なにを言うつもりなのか──
アンナは風で乱れる髪を押さえながら、国王の横顔を見上げた。
「聞きたいこととは、なんでしょうか」
次の瞬間、シウリスの視線が鋭く突き刺さった。
冬の空気が裂けたかのように震える。
「言え。昨日の女とはどういう関係だ」
指先に力が入った。
吹き抜ける風が強い。枯葉が舞い上がり、乾いた音を立てて地を転がる。
「どう、とは」
平静を装う。だが内側では、警戒が一気に高まっていた。
悟られてはならない。現状ですら、無事に帰せる保証はどこにもない。
もしも血の繋がりを知られれば──それは死よりも残酷な結果を招く可能性すらある。
そんなことはしないと信じたかった。
けれどグレイの最期が脳裏をよぎるたび、その思いは脆く揺らいだ。
目の前にいるシウリスの、探るような声から逃げたくなる。
「なにかを隠していたように見えたものでな」
「隠すなど……私はなに、もっ!?」
言い終えるより早く、硬質な感触が顎先に当たった。
剣の柄だ。
ぐいと持ち上げられ、強引に顔を上げさせられる。逃げ場を失った視線が、否応なくシウリスの瞳とぶつかった。
その瞳は、獲物を見定めるように冷たく、鋭い。
「嘘は言っておらんだろうな」
「……っ、もちろんです」
金属越しの圧が、じわりと顎に食い込む。
それでも、アンナは視線を逸らさなかった。
逸らした瞬間、すべてを見抜かれる──そんな確信があった。
「ふん、まぁいい」
興味を失ったように、剣の柄が離れる。
アンナは息を整え、乱れそうになる感情を押し込めた。何事もなかったかのように、表情を保つ。
シウリスの視線は、すでに遠くへ向けられていた。
王都ではない。もっと先、時の彼方を見るような眼差しだった。
「……どうされたのですか。なにを危惧しておられるのです?」
先ほどとは打って変わった気配に、アンナは慎重に問い掛ける。
「人間など、くだらぬ」
「……」
答えに詰まる。
どこからその思考に至ったのか、理解が追いつかない。
「だが、この王都は……このストレイア王国は、我が物だ。人も土地も、すべて」
風が鳴る。
どこからともなく、雪がひとひら舞い落ちた。
「ゆえに──守らねばならん」
その横顔には、王としての決意が刻まれている。
「もうなにも守れなかった子どもではない」
胸が軋む。その言葉の裏にある喪失を、アンナは知っている。
守りたかったものは、もう戻らない。
どれほどの痛みを抱えてここに立っているのか。考えるだけで、息が詰まった。
「逆らう者はこの手で潰す。奪われるくらいなら、芽のうちに踏み潰す──我が王国のためにな」
雪よりも冷たい声音。ぞくりと背筋が震えた。
それは寒さか、恐怖か──それとも、畏敬か。
「アンナ」
「はい」
再び視線が交わる。
「お前は、俺をどう思っている」
予想外の問い。
これが〝聞きたかったこと〟なのだとすれば、軽々しくは答えられない。
胸の奥で言葉を選びながら、口を開く。
「色んな感情がひしめき合っていて、一言ではとても」
「っは、上手く言い逃れるものだな。結局は、俺のことなど気にもしておらぬくせに」
その笑いは歪だった。
どこか強がりで、どこか子どものようで。
アンナは思わず一歩前に出る。
「尊敬です」
「なに?」
真っ直ぐに視線を向ける。
「尊敬が、一番多くを占めています」
「……」
理解できない、といった表情。
嫌いだと、憎いとでも言われたかったのだろうか。
だが、それは紛れもない本心だった。
幼い頃から変わらない。今もなお、尊敬している。
「もし俺がお前からすべてを奪ったとしても──同じ言葉を言えるのか?」
冷たい瞳。
試すような、あるいは確かめるような。
アンナは一瞬だけ目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、グレイの笑顔と──血に染まる光景。
(どうしてかしら……)
ゆっくりと目を開く。目の前のシウリスが、なぜか幼子のように見えた。
怯えを隠すために、威圧で塗り固めているだけではないのか。
孤独に触れた気がした。
深く沈み込んだ水底のような場所に、彼はいる。
光の届かない場所で、もがき続けている。
そんな感覚が胸に落ちてくる。
「シウリス様。私はどんなことがあっても──きっとシウリス様を尊敬し続けます」
まっすぐに告げる。
シウリスの瞳が、わずかに揺れた。
「この俺を、裏切ることは許さぬ」
アンナは一瞬、息を詰めた。
そこに、シウリスの怯えと本音が見えた気がした。
フリッツの人気が高まっている今──危惧するのも無理はない。
「誰がシウリス様を裏切りましょうか」
「ふん。俺を王座から引きずり落とそうとする輩など、どこにでもいる」
その言葉の重さが、彼の歩んできた道を物語っていた。だからこそ、アンナは真っ直ぐに告げる。
「私はシウリス様のお傍におります。なにが起ころうとも」
幼き日の記憶が、鮮やかに蘇る。
──つらい時にはシウリス様のおそばにいさせてください。
あの時の願いは、今も変わらない。
隣に立ち続けたい。それが、アンナの夢だった。
叶うならば。
あの頃の、無邪気で優しい彼を取り戻したい。
それがどれほど傲慢な願いであろうと。
「なにが起ころうとも、だと?」
疑念を帯びた眼差し。冷たい光。
アンナの背筋がわずかに震える。
シウリスはマントを翻し、踵を返した。
「面白い。試してやろう」
低く告げると、そのまま馬に跨がる。王都へと向かう背を追い、アンナも馬を進めた。
変わりゆく景色の中。
胸の奥に、重く冷たい予感が沈んでいった。




