510.あなたに顔向けできない……
アンナは、去っていく三人の背を最後まで見送り、視界から完全に消えたのを確認してから、ようやく踵を返した。
張り詰めていた気がわずかに緩み、その分だけ足取りが重くなる。胸の奥にざらつきだけが残ったまま、執務室へと戻った。
扉を開けると、すぐにルティーが柔らかな所作で迎え入れてくれる。
「お疲れ様でございました。そろそろ休憩のお時間ですし、コーヒーをご用意いたしましょうか」
「ああ。頼む」
短く答え、アンナは椅子に腰を下ろした。背もたれに身を預けた瞬間、無意識に息が漏れる。
脳裏に浮かぶのは、ティナの怯えた表情。
カールとトラヴァスに託したが、理解している。助けることなど不可能だと。
(それでも、私の姉だとは気付かれないようにしないと……)
思考は自然とその一点へと収束していく。知られてはならない。決して。
シウリスに気付かれたなら──その先に待つものを想像するだけで、背筋に冷たいものが走る。
グレイを惨殺した、シウリス。
理由は明かされていない。だがその目的が、アンナに近しい存在を排除するためだったとしたら。
(まさか……そんな理由でシウリス様がグレイを殺すわけが……)
打ち消そうとする意識の奥で、否定しきれないなにかが残る。
なぜならこれまでシウリスは、失い続けてきたのだ。
ラファエラを。マーディアを。ルナリアを。
守ろうとしたもの、すべて。
その悲しい積み重ねが、今の彼を形作っている。
もし──その痛みを、アンナにも理解させようとしているのだとしたら。
ぞくり、と背筋に冷たい感触が走った。
幼い頃、傍にいさせてほしいと願ったのはアンナ自身だ。彼の隣で、彼の心に寄り添い続けたいと、あの時確かにそう誓った。
だが結局、アンナは寄り添えなかった。正しくは、寄り添うことを許されなかったのだが──それでも結果は同じだ。
(まさか、私の言葉がシウリス様を歪ませてしまったの……?)
果たせなかった約束。
それが恨みへと変わっていたとしても、不思議ではないのかもしれない。
だが、それでも。
グレイが殺されたという事実だけは、決して受け入れられるものではなかった。
「アンナ様、どうぞ」
ふと差し出されたカップに、思考が引き戻される。立ち上る香りが、張り詰めていた意識を緩やかにほどいた。
視線を上げればルティーが天使のように柔らかく微笑んでいる。
「ありがとう。ルティーも休憩するといい」
「はい。では少々失礼いたします」
静かに頭を下げ、音を立てぬよう扉が閉じられる。その気遣いが、今はありがたかった。
ひとりきりになった室内で、アンナはゆっくりと引き出しを開ける。指先が触れたのは、小さな写真立てだ。
そこには、グレイの姿がある。
笑おうとして、どこかぎこちなく口元が歪んでいる表情。その不器用さが、かえって彼らしくて。
見つめているだけで、張り詰めていた心が少しずつ解けていく。
アンナは写真の前に、そっとコーヒーを置いた。ほんの短い時間だけ、同じ空間にいるかのように。
やがてカップを手に取り、香りを吸い込む。温もりが指先から伝わり、ゆっくりと口をつけた。
「……グレイ」
名を呼ぶ声は、誰に届くでもない。それでも、零さずにはいられなかった。
知りたかった。
なぜ彼は、殺されなければならなかったのか。
だが同時に──もしその理由が、自分にあるのだとしたら。
「あなたに顔向けできない……」
知りたい。けれど同じだけ、知ることが怖い。
その矛盾に耐えきれず、アンナは静かに写真立てを伏せた。彼の表情を見ていられなかった。
思考は再び、シウリスへと戻っていく。
彼は変わってしまった。幼い頃の面影は、もはや残滓のようにしか感じられない。
それも無理はない。あまりにも多くを背負い、あまりにも多くを失ってきたのだから。
恨んでいないとは言えない。だが、それでも責めきることはできなかった。
どれほどの重圧を背負いながら、王として立ち続けているのか──アンナは知っている。
誰よりも多くを奪われ、それでもなお国と民のために剣を取り、決断を下し続けるシウリス。
その姿は、紛れもなく王で。誰よりも尊敬に値する存在だ。
だが、武によって玉座を引き継がれてきたストレイア王家の血は、時に抑えきれない衝動となって噴き出している。
だからこそ王に相応しいと称える者もいれば、恐怖する者もいる。
どちらにしろ、シウリスがいなければストレイア王国は立ち行かない。それだけは確かだった。
一方で最近の彼は、以前にも増して苛立ちを募らせている。
フィデル国との問題。進展のないクロエ殺害事件。
フリッツの結婚に伴う人気の急上昇。貴族たちの思惑。
そして、剣で発散することすら許されない現状。
積み重なった要因を思えば、無理もないと理解はできる。
それでも──
(私にできることは、なに……?)
拳が、自然と強く握られる。
幼い日の約束を果たせなかった自分に、なにができるのか。
かつての夢は、シウリスの隣に並び立つことだった。王となる彼の隣で、支える存在になること。
筆頭大将となった今、その位置にはいるはずなのに。隣に立っている実感が、どうしても得られない。
間には、埋めがたい隔たりがあることはわかっていた。
シウリスが切り離し、アンナがグレイを失ったことで生まれた、深い断絶。
きっと、ここを越えなければならない。
王と将として並び立つために。
ただの幼馴染として、再び笑い合うために。
アンナはゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
逃げない。目を逸らさない。
彼が抱えているものも、失い続けた心も──
すべて、この手で受け止める。
視線が、伏せられた写真立てへと落ちる。
「ごめんなさい、グレイ。私はこれからも、シウリス様を──」
言葉は最後まで紡げなかった。
グレイの仇を討つことよりも、シウリスを見捨てないことを選び取る。
ストレイアの希望としての道であり、この国に生きる者たちのための選択。
そしてなにより──それこそが、アンナの騎士としての矜恃だった。




