509.いいや、私の独断だ。
アンナはその日、頭を抱えていた。
重くのしかかる現実に、指先は力がこもる。胸の奥に、鈍い疲労が沈んでいく。
原因は明白だ。シウリスが自部隊である紺鉄の牙を率いて、出陣してしまったのだ。
フィデル国との取り決めがある以上、本来ならば軽率な行動は控えるべき時期である。
ここしばらくは王宮に留まり、表向きの静穏は保たれていた。だが、それも限界だったのだろう。
剣を振るわぬ日々に、彼の内に溜まったものが、ついに溢れた。
止めても無駄だった。
──ならば、誰が俺の稽古に付き合うのだ?
あの一言で、すべてを封じられた。理屈では返せない。
アンナが応じれば確実に負傷し、またしばらくの間離脱することになる。他の者を当てれば、命がいくつあっても足りない。
結局、魔物を相手にさせるしか選択肢はなかった。
本心では、王都から一歩たりとも出てほしくはない。だが、あの王を閉じ込めておけるはずもなかった。
ならばただ、願うしかない。
余計な火種を持ち帰らぬことを。
「アンナ様。シウリス様が戻られるとの報せが入ったようです」
ルティーの声に、アンナははっと顔を上げる。思考は即座に切り替わり、迷いなく立ち上がった。
足早に執務室を後にし、王城の門前へ。近くにいた騎士たちが慌ただしく整列を始めている。
やがて、遠くに騎影が視認できた。
騎乗した一団──紺鉄の牙。
ストレイア軍の基調色は群青だが、彼らが纏うのはそれよりも深く、重い紺鉄色。視界に入った瞬間から、他と一線を画す存在感を放っていた。
先頭にいるのは、言うまでもなくシウリス。
アンナは一歩前に出ると、肩口に拳を当てる敬礼で迎えた。近づくにつれ、その威圧感が肌を刺す。
魔物を屠ってきた直後の高揚か、いつにも増して鋭い。
「アンナ」
馬を降りると同時に名を呼ばれる。
「お戻りをお待ちしておりました。ご無事でなによりです」
「今日は面白い土産があるぞ」
楽しげな声音。
アンナはわずかに首を傾げる。
その視線を受けるように、シウリスは背後へと目を向け、合図を送った。
次の瞬間、一人の女が乱暴に馬上から引きずり下ろされる。
手首には縄。足元は覚束なく、身体はぐらりと揺れる。
ダークブラウンの髪が風に流れ、小柄な体が頼りなく揺れた。
動きやすさを優先した装束はまるで、トレジャーハンターのようで──
(姉さん!?)
胸が跳ねた。
視界が、わずかに揺らぐ。
アンナの異母姉──ティナ。
ここにいてはならないはずの人物が、目の前に現れている。喉の奥が強く締めつけられた。
「どうした、アンナ。お前の知り合いか?」
探るような問いに、アンナは迷いなく首を振る。
「……いえ、存じません」
声は平静だった。胸の奥で荒れ狂う鼓動とは裏腹に。
会いたいと思っていた。
もう一度だけでもと願っていた。
それがよもや、こんな邂逅になろうとは。
「この女をどうなさるおつもりですか?」
揺れを押し殺し、平静な声で続ける。
ティナは、恐怖に支配されていた。身体は震え、呼吸は浅く、引きつるように乱れている。
外傷は見えない。だが、その怯えは明らかに常軌を逸していた。
「アンナ、この女は面白いぞ」
「なにがでしょうか」
「こいつは、俺が一度殺したはずの女だ」
その言葉に、思考が白く弾ける。
シウリスは、覚えていた。
兎獣人の集落で斬り伏せた女のことを。
忘れている可能性に、どこかで縋っていた自分の甘さを、容赦なく突きつけられた。
アンナはわずかに視線を滑らせ、ティナの顔を盗み見る。その恐怖は、あの時に刻まれたものに違いなかった。
死を与えられた記憶。逃れようのない絶望。アンナが毎年見せられている地獄と、同じものを異母姉も知っている。
しかも今は、敵の捕虜として再びその前に立たされているのだ。恐れない方がどうかしている。
思考が乱れ、呼吸が息が詰まる。
だが、シウリスはそんな内情など気にも留めず、愉快そうに笑っていた。
「そんな女が、我が国の遺跡で好き放題してくれるとは」
ぐい、とティナの顎が持ち上げられる。
喉の奥で詰まる悲鳴。顔色は一瞬で蒼白に変わる。
「わかっているだろうな。ただではすまさんぞ」
一度殺したはずの存在が、生きている。それだけで、シウリスの矜持は傷つく。
加えて王国の遺跡に侵入していた事実が、怒りに火を注いでいた。
この先に待つものは、想像するまでもない。
(姉さん……どうすれば……っ)
しかし、アンナはこの国の筆頭大将だ。
どれだけ助けたいと願っても、敵国の捕虜を逃がすなど許されるはずがない。
思わず拳を握りしめる。
「どうかしたか? アンナ」
「いえ、この女を牢に閉じ込めておきます」
微笑みすら浮かべてみせ、そのままティナの縄を強く引いた。
乱暴に見えるように。不自然でないように。ティナは抵抗せず、ただ従うように付いてくる。
シウリスから距離が開くにつれ、その震えがわずかに落ち着いていくのがわかった。張り詰めていたものがほんの少しだけ緩んだ。
王宮の地下には牢がある。だが、そこはあくまで仮の拘束場所で、本格的な監獄は王都の外だ。
地下牢への階段を降りる直前、二人の将の姿が目に飛び込んできた。
「ティナ殿……」
トラヴァスの声に、カールが反応する。
「そういやこいつ……ティナ!」
二人はそれぞれにティナと因縁があった。
トラヴァスは兎獣人の集落で。カールはミカヴェルを連れ去られた現場で。
アンナは迷いなく、ティナを前へ押し出す。
「お前たち、この女を幽閉所に連れていけ」
そう言いながら、縄をトラヴァスに渡す。
牢ではなく、幽閉所。
その言葉に、二人の目がわずかに揺れる。
「それは、陛下のご命令ですか?」
「いいや、私の独断だ」
「いいのかよ。もし知られちまったら……」
「シウリス様は地下牢に行くことなどない。平気だ」
断言する。しかしトラヴァスは深く息を吐いた。
「書類も捏造する気ですか」
その言葉に、アンナは鋭く睨み返す。
なにを言われようと、引くつもりはない。
「シウリス様に報告するか?」
圧を掛けるように言い放つ。トラヴァスはなにも答えずティナの縄を引いて、そのまま静かに歩き出した。
カールもまた、途中で足を止めかけるティナの背を、ためらいなく押して前へと促す。
地下牢に閉じ込めることだけは、どうしても耐えがたかった。あの暗く閉ざされた場所に、姉を置くなど──考えるだけで胸が軋む。だからこそ、せめて幽閉所に留めるしかなかった。
そして意図的に、トラヴァスとカールにティナを任せた。
牢であれば完全に外界と断たれるが、幽閉所であれば往来もまだしやすい。
あの二人を関わらせておけば、助ける機会が訪れた際、ほんのわずかでも手を貸してくれるかもしれない。
そんな、淡く甘い期待があった。




