508.この少女は、私のことを誤解しているな
セリカの返答は、否定の余地がなかった。整然と並ぶ文字は、迷いなく筋を通している。
本気になれば、上級ポーションを手に入れる手段はいくらでもある。
だが──彼女の思いに触れてしまえば、踏み込むことはできなかった。
(甘いな、私も……)
軽く息を吐く。
柔らかく穏やかな雰囲気を持つセリカだが、内面は非常にしっかりしていることがわかる。
彼女は口頭で断ることもできたはずだ。それなのに、わざわざ紙に文字を残した。
書かれた文字は消えない。同じ形で、何度でも読み手に突きつける。
万が一、この場でなにかが起きたとしても、彼女には手帳という武器ができた。
確かに断ったという事実。その証明のために。
(……周到だ)
トラヴァスは静かに手帳を閉じ、息を整える。
「承知した」
短く告げる。声は届かないとわかっていても、言わずにはいられなかった。
代わりに、頷きをひとつ。確実な意思を示した。
セリカはほっとしたように小さく息をつき、柔らかく頭を下げる。
トラヴァスは椅子から立ち上がり、視線をテーブルの上の小瓶に向けた。
エメラルドグリーンに光る液体は、変わらず静かに揺れている。
手を伸ばせば、届く距離。
それでも触れず、トラヴァスは踵を返した。
***
執務室に戻ると、扉の前に一人の金髪の少女が立っていた。ルティーだ。
手に書類を抱え、不安げな表情をしている。だがトラヴァスの姿を認めると、はっと顔を上げた。
「トラヴァス様」
「わざわざ私を待っていたのか?」
ルティーは小さく頷く。トラヴァスは、書類を自室まで届けるように指示していたことを思い出した。
「すまなかった。ローズにでも預けてくれればよかったのだが」
「ローズさんもそうおっしゃってくださったのですが……気に、なりましたから……」
書類を抱え、視線を下げるルティー。トラヴァスは軽く息を吐き、扉を開いた。
「入りなさい」
ルティーは一瞬躊躇したが、すぐに小さく頷き、静かに室内へと足を踏み入れる。
執務室はいつもと変わらぬ静けさに満ちていた。
トラヴァスは机の前に立ち、手を差し出す。
「書類を」
ルティーの手から書類を受け取ると、一枚目に視線を落とした。そしてゆっくりと口を開く。
「……マックスの家に行ってきた」
ぴくり、とルティーの肩が揺れた。
「まさか、上級ポーションを……」
「私の管理下に置くつもりだったのだがな」
不安げなルティーに、トラヴァスは手帳を開いて見せる。セリカが書き込んだページだ。
「これは……?」
「読んで構わない」
許可を与えると、ルティーは文字を追い始めた。息を止めるような静寂が漂う。
読み終えた瞬間、彼女はほっと息をつく。
「セリカさんは、渡さなかったのですね……よかった」
その言葉に、トラヴァスはわずかに声を下げる。
「軍属の言葉ではないな」
「すみません……」
ルティーは体を縮こまらせていた。手帳を返してもらいながら、トラヴァスはアイスブルーの目を彼女に落とす。
(そもそも、ルティーが回復魔法を使ってくれるならば、それで済む話だ)
しかし言葉にする寸前で、それを飲み込んだ。
結局のところ、セリカの上級ポーションに対する思いと、トラヴァスが考える〝いざという時〟のための保持の理由は同じだ。ルティーが魔法力を温存しているのも、アンナの危機に備えてのこと。
手段が違うだけで、やっていることは同じだった。
肩を落としたままのルティー。トラヴァスはそんな彼女を見遣り、そっと声を落とす。
「綺麗なエメラルドグリーンだったな……見るだけでも、価値はあった」
その瞬間、ルティーの顔にぱっと光が差し込んだ。
「はい! この世のものと思えないくらいに綺麗で……ずっと見ていたくなるような光でした」
ふわりと浮かべる笑みを見て、トラヴァスも頬が緩みそうになる。
しかし、将としての表情は変えずに告げる。
「先ほども言ったが、他言無用だ。マックスとセリカの生活を守りたいならばな」
「……はい、わかっています」
再び書類に目を落とそうとしたトラヴァスは、ふと気になり口を開く。
「ルティーは、入手経路を聞いているのか」
するとルティーは視線を一瞬迷わせ、それから小さく頷いた。
「はい……知っています」
「そうか」
そっけなく言葉を返すと、ルティーは困ったように首を傾げた。
「お伝えした方が、よろしいでしょうか?」
その声には微かな緊張が混ざっている。伝えるべきか、測りかねている表情。
「必要はない」
「え……?」
その短い答えが予想外だったのか、ルティーは目を見開いた。トラヴァスは理由を淡々と説明する。
「上級ポーションの入手など、大半は偶然か、あるいは限られた者だけが辿り着ける経路だ。同じ手順を踏めば手に入るような代物ではなく、再現性などない」
トラヴァスの言葉に納得するところがあったのだろう。彼女はそっと頷いた。
「……はい。だからこそ手放さなくてよかったと……心からそう思います」
無垢な微笑を向けるルティー。その純粋さが眩しくて、胸に軽く刺さる。トラヴァスはその視線からそっと目を逸らした。
彼女とは異なり、トラヴァスは手段を選ばずにでも手に入れようとしていたのだ。後ろ暗さが心を覆う。
「だから、ありがとうございます。トラヴァス様」
「……なに?」
唐突に放たれた、ルティーの言葉。
お礼を言われる意味が理解できず、眉を寄せながら首を戻す。
「だって、トラヴァス様なら、いくらでも上級ポーションを手にする策はおありでしたでしょう?」
トラヴァスのすべてを見透かすような無邪気な微笑み。
否定はしない。選択肢はいくらでもあった。
「それをしなかったのは、トラヴァス様の優しさですもの」
濁りなど欠片もない瞳が、まっすぐに向けられていた。その純真さに、トラヴァスはわずかに目を細める。
「買い被りだ。そこまでする必要はないと判断した──それだけのことに過ぎない」
「はい」
トラヴァスの言い訳に、ルティーは嬉しそうに頷く。
(この少女は、私のことを誤解しているな……)
思いながらも、それがなぜか嫌ではない。むしろ、心地よい温かさを感じている自分に気付く。
彼女の笑みに、トラヴァスは小さく息を吐いた。
「もういい。戻りなさい」
「はい。失礼いたします」
ぺこりと頭を下げ、ルティーは軽やかな足取りで部屋を出ていく。
扉が閉まる直前、彼女は一度だけ振り返り──
「トラヴァス様」
「なんだ」
「やっぱり、トラヴァス様はお優しいです」
くすっと微笑んで、今度こそ去っていった。
扉が音を立てて閉まり、室内に再び静寂が戻る。
トラヴァスはしばし動かず、やがて小さく息を吐き出す。
「……あの娘は」
困ったように呟きながら──
口元には、ほんのわずかな緩みが浮かんでいた。




