507.いくら払ってでも、確実に手に入れておきたい
上級ポーションがマックスの家にある——その情報を耳にした瞬間、トラヴァスの思考は即、行動に切り替わった。
街路を急ぎながらも、脳内ではすでに戦略が組み上がる。終業の鐘を待つ余裕などない。
目指すはマックスの邸宅。家主であるマックスはまだ職務中だが、彼の妻であるセリカさえいれば用は足りる。
王都の地図は頭に入っていて、隊員の居住地もある程度把握している。中でも、マックスの家の位置はわかりやすかった。
貴族地区と一般区の境界線上にあるこの家は、警備騎士が常駐し、巡回も確実に通るため、治安においては他の民家よりも頭一つ抜けている。
視界に入った一軒の家。周りの絢爛さに埋もれた質素な外観だが、一般地区の住居としては整い過ぎているほどだ。ちょうど彼が結婚した頃に建てられたのだろう。
この場所は治安が良い分、土地の値段は尋常ではない。一騎士が即金で買えるようなものでないことは明らかだ。
(上級ポーションを売る気でいる可能性はある。ならばいくら払ってでも、確実に手に入れておきたい)
だが、トラヴァスも予算の制約はある。上級ポーションの価値は未知数であり、相場はまったく読めない。それでも、交渉次第では手に入れられるかもしれない。
瀕死の仲間を目の前にして、ただ願うだけなど──二度とごめんだった。
トラヴァスは玄関のドアノッカーに手を掛け、叩いた。
だが、いくら待っても応答はない。
(留守か?)
ドアを軽く引くと、扉は予想外に抵抗なく開き、カランカランと音を立てる。
耳の悪さは聞いていたが、具体的な程度までは知らない。躊躇うことなく声を掛ける。
「失礼する。第二軍団のトラヴァスだ。セリカ殿に用があって来た。在宅か」
名乗ったが、返答はない。人の気配だけが奥にある。
目を向けると、玄関先に呼び鈴が置かれていた。手に取り、強く振る。
リンリンと高く澄んだ音が響き、奥から「はぁい」という声が返ってきた。足音が近づく。
現れたのは、栗色の髪を後ろで束ねた女性だ。
エプロン姿で、少し首を傾げ、慎重に距離を保ちながらこちらを見ている。
「……どなた、でしょうか」
穏やかな声だが、目の奥には警戒心があった。
トラヴァスは一歩下がり、改めて名乗りを上げる。
「突然の訪問、失礼する。第二軍団のトラヴァスだ。マックスの妻、セリカ殿で間違いないか」
しかしセリカは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。私、耳が……」
その言葉に、トラヴァスは手帳と万年筆を取り出した。自身の所属と名前を記し、彼女に見せる。
目を丸くしたセリカは、トラヴァスに目線を上げて丁寧に言葉を紡ぐ。
「マックスの妻、セリカです。主人がお世話になっております。まだ帰宅しておりませんが、どのようなご用件でしょう」
トラヴァスは再び万年筆を滑らせた。
〝上級ポーションについて話を伺いたい〟
〝あなたが持っているのはわかっている〟
耳が聞こえない——つまり、まだ使用されていない証拠だ。売却済みの可能性もあるが、トラヴァスは断定的な言い回しで、誤魔化しても無駄だと静かに示した。
セリカは一瞬狼狽えたように見えたが、すぐに覚悟を決めた顔つきに変わる。
「……よろしければ、中へどうぞ」
招き入れられ、トラヴァスは部屋に足を踏み入れた。案内されるままリビングの椅子に腰を下ろす。
〝上級ポーションを見せてもらいたい〟
そう書き示すとセリカは頷き、いったん部屋を離れる。そして戻った手には、小瓶が握られていた。
座りながら、そっとテーブルの上に置く。
中の液体はエメラルドグリーンに光を帯び、まるで生きているかのように揺れている。
「なるほど……確かに本物の上級ポーションのようだ」
思わず声が漏れる。耳の悪いセリカの前では、独り言のように響いた。
〝単刀直入に言う。これを売ってもらいたい。相場以上で構わない〟
手帳に書き、セリカに見せる。
彼女はぎゅっと目を閉じ、首を振りながら手帳を返した。
「私はこの薬を、人に渡すつもりはありません」
返答を受け、トラヴァスはまた手帳に記す。
〝ご自身で飲むおつもりか〟
文字を見たセリカは、すっと前を向いた。
「私も文字で記してよろしいでしょうか」
意外な提案だったが、拒む理由もない。トラヴァスは頷き、そっと万年筆を手渡す。
セリカは一心に長文を書き綴る。
やがて返された手帳には、こう記されていた。
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この上級ポーションをお譲りするつもりはございません。
また、現時点で自分のために使う予定もありません。
主人は騎士という立場上、常に危険と隣り合わせにあります。
私の耳が聞こえるようになることよりも、いざという時、この薬が手元にないことの方が恐ろしいのです。
もしも将来、子どもを授かった時に、その子が重い病を抱えていたら。
あるいは不慮の事故や事件に巻き込まれたなら──そう思うと、この薬を軽々しく使うことはできません。
おそらくトラヴァス様も、同じように〝いざという時〟のためにこれをお求めなのだと思います。
ですが、今すぐ必要としているわけではない点も、また同じかと存じます。
第二軍団の将であるトラヴァス様に逆らう意図はございません。
それでもなお、このポーションをお渡しすることはできません。
どうか、ご容赦くださいませ。
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文字の向こうには家族を思い、責任を背負う者の意志が、静かに──しかし確かに刻まれていた。




