506.上級のことは誰にも話すな
年が明けて一週間。
王都の空気は、祝いの余韻をわずかに残しながらも、すでに日常の張り詰めた気配へと戻りつつあった。
トラヴァスは所用のためアンナの執務室を訪れていた。
しかしアンナは不在で、応対に出たのは付き人であるルティーだ。
「アンナ様は現在、シウリス様のもとへ行かれておりまして、間もなくお戻りになると思いますが……」
「そうか……待たせてもらっても構わないか?」
「もちろんです。どうぞお掛けください、紅茶をお持ちします」
ティーポットへ向かおうとするルティーの動きを、トラヴァスは軽く制した。無駄な手間をかけさせる気はない。
「いや、いい。それより、勉強でわからないところがあるなら見よう」
「本当ですか? ありがとうございます!」
ぱっと表情を明るくしたルティーは、自分の机へと急ぐように戻り、椅子へ腰を下ろした。
トラヴァスはその背後へ回り、自然と視線を机上へ落とす。整然と並べられた書類の中に、一冊だけ異質なものが混じっていた。
「これは……雷の書か」
低く呟く。なぜそれがここにあるのか、瞬時には理解できない。
ルティーは振り向かず、わずかに眉尻を下げて微笑んだ。
「習得したかったのですが……体内に取り込んだ瞬間、激痛に襲われてしまい、すぐに取り出してもらいました」
「適性がなかったのだろう。無理をする必要はない」
「いえ、でも習得する方法はあるんです」
言うなり、ルティーは別の小さな本を取り出し、ぱらりと開いた。後ろから覗き込めば、確かにそれらしい記述がある。
〝書を常に携行し、書と魔力との親和を高めることで適性の壁を緩和する〟
その一文を読み、トラヴァスは眉を寄せた。
「眉唾ではないのか? そんな話は聞いたことがない」
「最新の研究によるものだそうです。もちろん、適性が大きく外れていれば難しいと思いますが……一度は体内に取り込むことができたので、この方法を続ければ、不可能ではないかもしれません」
ルティーは一度決めたことを曲げない──その性質を、トラヴァスはよく知っている。
止めても無駄だ。そう判断し、ひとつ息を吐いた。
「好きにするといいが……覚えておいてくれ。適性のない書を無理やり取り込み、使うのは相当のリスクを伴う。痛みだけならばまだいい。習得するだけで皮膚が爛れ、内側から焼かれることもある」
淡々と告げるが、その実、警告の色は濃い。
ルティーは振り向き、トラヴァスを見上げてきょとんとし──そして、ふっと笑った。
「ふふ。その程度……刺される痛みに比べれば」
そこまで言いかけて、彼女は言葉を切る。視線が逸れ、前へと戻された。
金の髪が揺れ、そのつむじが視界に入る。
「刺される、痛み?」
問い返すと、ルティーは何事もなかったかのように本を捲る。
「アンナ様のことですよ? アンナ様の痛みに比べれば、それくらい我慢できるという話です」
確かにアンナは、毎年のように大怪我を負っている。しかし今、アンナの痛みと比べるべき話ではない。
「そんな痛みに耐えてまで、習得する必要はないという話だ」
「もちろんです。そこまでするつもりはありませんから、ご安心くださいませ」
やたらと明るい声。しかし、ルティーは手元の本を捲るばかりで視線を合わせない。
トラヴァスは短く息を吐く。
「もうその本は仕舞って、勉強を……」
背後から手を伸ばし、本を閉じようとしたその瞬間。
視界の端に、ひとつの挿絵が飛び込んできた。
瓶。
閉じ込められた液体。
〝エメラルドグリーンに輝く〟
その一文で、思考が止まった。
「……上級ポーション」
呟きに、ルティーは絵を見ながら口にする。
「生きている限り……薬を飲み込める限りは、あらゆる怪我や病気を治してしまう、夢のような薬ですよね。しかも過去の傷までなくなるとか」
「使用期限もないという話だな。実在するのかも怪しいが」
「ありますよ!」
思いのほか強い反応だった。
ルティーが勢いよく振り向き、至近距離で視線がぶつかる。
「ひゃっ!?」
彼女から驚きの声が漏れた。
トラヴァスは本から手を引き、すぐさま距離を取る。
「すまない」
「……いえっ」
ルティーの顔が、徐々に朱色に染まっていく。
恥ずかしがることでもないというのに、こういう距離には過敏に反応してしまうようだ。
年頃の女子というのは、どうにも難しい──そんなことを思いながら、トラヴァスは話を戻した。
「それで、上級ポーションが在ると断言するからには、それなりの理由があるのだろうな?」
問いかけに、ルティーは顔を赤らめたままで頷く。
「はい。だって、見ましたもの。本当に綺麗で……液体が光ってるんです」
「……夢ではないのか?」
「ち、違いますっ」
ルティーは口を突き出すようにして声を上げた。
その姿は年相応で可愛らしい。
「では、いつ、どこで見たのだ?」
「仕事始めの日でした。マックスさんのお家で見せてもらって……」
瞬間、鼓動が跳ねた。
現在、ローズに中級以上の確保を命じているが、未だ成果は出ていない。
しかも上級。それが民間の家にあるというなら──
「……まだ、使われてはいないのか?」
確認の問いは、自然と低くなる。ルティーは少し首を傾げた。
「多分、としか……奥さんのセリカさんは耳が悪いので、マックスさんは飲ませたがっていると思いますが」
──十分だ。
トラヴァスは即座に踵を返す。手にしていた書類をアンナの机に置き、迷いなく扉へ向かう。
「トラヴァス様!?」
「急用だ。アンナが書類に目を通したら、それを私の執務室まで届けてくれ」
「それは構いませんが、どうして急に──」
説明に割く時間はない。ドアノブに手を掛けると目だけを流す。
「上級のことは誰にも話すな。マックスの家にそんなものがあると知れたら、確実に厄介事を呼ぶ」
低く、鋭く言い切る。
ルティーははっと息を呑み、慌てて頷いた。
「は、はい……っ」
その声を背に、トラヴァスは迷いなく扉を開ける。
冷たい廊下の空気が流れ込む。
トラヴァスはそのまま、まっすぐにマックスの家へと向かった。




