505.私に習得できるでしょうか
もしかしたら、ルーシエにはすべて見抜かれているのかもしれない。
ルティーが平静を装っていることも、その内側に押し込めたものまでも。
それでもルーシエはなにも言わなかった。問うことも、踏み込むこともせず、ただ静かに歩き出す。
ルティーも遅れまいと、その隣へと歩み寄った。
「ルーシエさんも、アンナ様には会っていかれないんですか?」
疑問は自然と零れた。
ルーシエはわずかに視線を伏せ、ゆっくりと頷く。
「ええ。私としても、会ってなにをどう話せばいいものか……」
「顔を見るだけで、アンナ様は笑顔になると思いますけれど」
「わかっています」
短く返された言葉のあと、二人の間に沈黙が落ちた。冷たい空気が二人の間を流れ、靴音が夜の石畳に淡く響く。
ルーシエは息を吐き、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「ルティーだから言いますが……ジャンが会ったのは、アンナの父親──ロクロウという人物なんです」
「アンナ様の……」
思わず息を呑む。ルーシエは静かに頷いた。
「あの上級ポーションも、彼がくれたものなんですよ。本当に素晴らしいトレジャーハンターでした」
「そうだったんですね……! アンナ様にお話ししたら、きっと喜ばれます!」
胸が弾むように言葉が出る。けれどルーシエは、ゆるやかに首を横へ振った。
「父親に、存在を認識すらされていなかったことを……私は、口にしたくないのですよ」
その一言で空気が変わった。ルティーの喉が、ひゅっと細くなる。
「アリシア様の妊娠がわかる前に王都を出ているので、無理もないのですが……」
「……」
ルティーは言葉を返せなかった。
それをそのまま伝えることが──どれほど残酷か。
アンナを傷つける可能性があるなら、どんな小さなことでも触れたくはない。
それはルティーも同じだった。
「雷神自身も、告げる必要はないと言っています。望むならば、そういう機会が自然とやってくると」
「雷神?」
「ロクロウの二つ名です。その道ではとても有名なんですよ」
言われてみれば、どこかで耳にした覚えがある気もした。
「上級ポーションを手に入れられるくらいの方ですものね……」
「ええ。なんの躊躇もなくくださったので、さすがに驚きましたが」
あの光を思い出す。手の中で静かに輝いていた、エメラルドグリーンの液体。
ただ見ているだけで、どこか安らぐような、不思議な力を帯びていた。
「セリカさん……飲むでしょうか」
ぽつりと零れた言葉。
彼女はすぐに使う決断をしなかった。受け取ってはいたが、その意味の重さを測るように、大事に抱えていた。
「無理に勧めるものではありませんからね。どれほど価値があるものでも……使うかどうかは、その人の生き方に関わることですから」
その言葉は、柔らかくも重みを持っていた。
あれは傷を癒すだけの薬ではない。過去を塗り替え、未来の形さえ変えてしまうかもしれないものだ。
だからこそ、軽々しく手に取れるものではない。
「……でも、聞こえるようになったら、きっと嬉しいですよね」
その言葉に、ルーシエはわずかに微笑んだ。
「ええ。ですが──今のままでも、彼女は十分に幸せそうでしたよ」
その一言で、光景が蘇る。
食卓を囲む笑顔。
言葉を繋ぐマックスの声。
自然に補うジャンの仕草。
不自由はあるはずなのに、それを感じさせない時間。
穏やかで、満ち足りた空気。
「……はい」
自然と頷いていた。
満たされていることと、完全であることは、同じではない。当たり前のことが、胸に静かに落ちていく。
「だからこそ、彼女の選ぶ答えが最善なんでしょう」
ルーシエの声は静かで、揺るぎがなかった。
夜風が二人の間をすり抜ける。だが、不思議と寒さは感じない。
隣にいるだけで、どこか守られているような感覚があった。
やがて宿舎が見えてくる。見慣れた建物の前で、ルティーは足を止め、ルーシエを見上げた。
「今日は本当に素敵な時間を過ごせました」
ルーシエの柔和な笑顔が返ってくる。
「私もですよ。ルティーの元気そうな姿を見られてよかった」
心が満たされ、白い息をひとつ吐く。
すると、ルーシエが懐から一冊の本を取り出した。
「これを受け取っていただけますか?」
「あ、そう言えば、ルーシエさんは本を書いてるって……!」
「大したものではありませんよ。雑学書、のようなものだと思ってください」
差し出されたのは、手のひらに収まるほどの小さな本。
紙の手触りが、どこか温かい。
「ありがとうございます!」
「それともう一つ」
続けて差し出されたのは、魔法の書だった。
受け取りながら、ルティーは首を傾げる。
「これは……雷の書、ですか?」
ルーシエは静かに頷いた。
「詳しくは本に書きましたが……習得できれば、役立つ時が来るかもしれません」
「雷魔法……私に習得できるでしょうか」
「そればかりは、なんとも……しかし、肌身離さず持つことで、習得できる確率が上がるという研究結果も出ています」
半信半疑ではあるものの、拒む理由はどこにもない。
ルーシエの言葉が無駄だったことなど、これまで一度もなかったのだから。
「わかりました。今度習得師のところに行ってみます」
「ええ……けれど書には相性がありますから。決して無理をしてはいけませんよ。それだけは約束してください」
「はい、大丈夫です。無茶はしません」
まっすぐに答えると、ルーシエは安堵したように目を細めた。
「会えて嬉しかったですよ」
「私もです……本当に」
胸の奥がまた、じんわりと熱を帯びる。言葉にしきれないものが込み上げてくるのを、なんとか堪えた。
ルーシエは一歩下がり、静かに視線を和らげる。
「では、ここで」
簡潔な別れの言葉。
けれど、そこに込められたものは十分に伝わってくる。
ルティーはぎゅっと本を抱きしめ、小さく息を吸った。
「……はい」
まだ言いたいことがある気がした。
けれど、それを口にすれば、この別れはきっと長引いてしまう。
「ルーシエさん……お元気で」
「ええ。あなたも」
柔和な笑顔は、最後まで変わらない。
ルティーは深く頭を下げ、踵を返した。
宿舎へ向かって歩き出す。
しかし数歩進んだところで、足が止まる。
どうしても、もう一度だけ確かめたくなって──振り返った。
夜の中に立つルーシエの背中は、どこか現実から切り離されたようで。
次の瞬間には消えてしまいそうな、そんな儚さがあった。
「ルーシエさん!」
呼びかければ、すぐに視線が返る。
「……はい?」
ほんの一瞬の迷いのあと、ルティーは笑った。
「また、会えますよね」
問いというより、願い。
それを受け止めるように、ルーシエは目を細める。
「ええ」
穏やかに、確かに頷く。
「きっと、また」
それは約束のように、静かに落ちた。
ルティーは今度こそ前を向き、宿舎の扉へと歩み寄った。扉を開き、閉める直前にもう一度だけ振り返る。
だがそこには、すでに誰の姿もなかった。
夜は静かに更けていく。けれど胸の内には、確かな温もりが残っていた。
別れの寂しさと、それ以上に満ちたもの。ルティーはそっと胸に手を当てる。
(……明日も、頑張ろう)
小さく息を吐き、ルティーは本と魔法の書を抱きしめた。
その指先が、かすかに熱を持つ。
なぜかはわからない。
けれど──これを手放してはいけないと、そんな思いが湧き上がっていた。




