504.だって、私の師匠は
マックスの家を訪れて、数時間。
気づけば夜はすっかり更けていた。窓の外は深い闇に包まれ、街の灯りもまばらに揺れている。
まだここにいたい──そう思う気持ちは確かにあったが、明日も仕事だ。それに、いつまでも居座っては迷惑になる。
胸の内で名残を押し込みながら、ルティーは静かに声を上げた。
「すみません、私、そろそろ……」
「ああ、もうこんな時間か」
ジャンが懐中時計を取り出し、ちらりと目を落とす。その仕草ひとつにも、どこか変わらぬ癖のようなものが見えて、ルティーはわずかに目を細めた。
「泊まってけば。俺とルーシエはそうするけど」
「お前な……」
当然のように言い放つジャンと、それに呆れた声を返すマックス。
かつては『しょっちゅう泊りに来て迷惑だ』と嫌そうに言っていたが、今はなんだか嬉しそうに見えた。再会を喜んでいるのは、きっと彼も同じだ。
しかし、さすがにルティーはそこまでお世話になれない。
「私は宿舎に戻ります。明日も仕事ですし……」
「では私が送りますよ、ルティー」
隣でルーシエがすっと立ち上がる。その自然な動きにルティーも倣って立ち上がり、笑みを見せた。
「ありがとうございます、ルーシエさん」
礼を述べてから、改めて三人へ向き直る。
この時間がどれほど大切だったかを、きちんと伝えたい。
「マックスさん、セリカさん、突然お邪魔してしまい申し訳ありませんでした。とても楽しかったし、ご飯も美味しかったです!」
その言葉を、マックスがセリカの耳元へ運ぶ。「美味しかった、ありがとうって」と簡潔に。
セリカはそれを受けて、ふわりと笑みを広げた。
「私も楽しかった。来てくれてありがとう、ルティーちゃん」
その手の中には、あの上級ポーションがずっと大切そうに握られている。そっと、優しく。
ルティーはその光景に目を細めながら、今度はジャンへと視線を移した。
「ジャンさんも会えて嬉しかったです。まだしばらく王都におられるんですか?」
問いかけると、ジャンはわずかに視線を落とした。
「いや……明日出ようと思う」
あまりにもあっさりと告げられたその言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
ようやく会えたばかりなのに、もう別れが来る。
「アンナ様には……」
「ルティー」
続きかけた言葉は、ルーシエにやんわりと遮られた。ルティーは小さく頷く。
言ってはいけないことなのだと、理解して。
アリシアを死なせてしまった気持ちは、ジャンもルティーも同じだ。
ただ、贖罪のためにアンナの傍にいるか、アンナから離れるか。その決断が違っただけで。
「ジャンさん、お元気で。また王都に来たときには、必ず会いに来てくださいね」
「うん。約束するよ……必ず」
再会はほんの数時間。
それでも、彼がこうして生きている──それだけで、胸の奥は満たされた。
ルティーはもう一度礼を言い、ルーシエと共に家を出た。
扉が閉まると、すぐに外の冷たい空気が頬を撫でる。夜は深く、静かだった。
夜道を歩きながら、ふと隣を見上げる。風に揺れるルーシエの長い銀髪が、淡い月明かりを受けてほのかに輝いていた。白い息を吐きながら、その姿を見つめる。
「どうしましたか、ルティー」
穏やかな声と柔和な笑顔。その変わらなさが、どこか嬉しい。
「いいえ。ルーシエさんは相変わらずお綺麗だと思いまして」
「私はルティーがとても綺麗になったと思いますよ。十歳のあなたも可愛かったですが、もう一人前の女性ですね」
「そんな……私なんか、まだまだで……」
言いながら、視線が自然と落ちる。思い浮かぶのは、アンナやローズの姿。強く、美しく、揺るぎない大人たち。
自分はまだその足元にも及ばない──そう思ってしまう。
ルーシエは歩みを緩め、そっとルティーの横顔を覗き込んだ。
「周りと比べる必要はありませんよ」
柔らかな声音だった。
諭すでもなく、ただ当たり前のことを告げるように。
「あなたはあなたとして、十分に積み重ねてきたでしょう」
その言葉に、胸の奥がわずかに震える。
顔を上げると、真っ直ぐに見つめ返されていた。その視線が、胸の奥にじんと広がる。
「ルーシエさん……」
「ルティーは頑張り屋さんですから……少々心配ではありますけれど」
困ったように微笑みながら、ルーシエは腰を屈める。
目線が合う高さまで降りてくるその仕草は、昔と同じだった。胸の奥が温かくなる。
「いいですか、ルティー。あなたは優秀です。それは私が保証します」
まっすぐに告げられた言葉に、頬がわずかに緩む。
「だって、私の師匠はルーシエさんですもの」
ルーシエは目を細め、くすりと笑う。だがすぐに、その表情は静かに引き締まった。
「しかし、私には仲間がいました。ジャン、マックス、フラッシュ──苦楽を共にし、互いに背を預け合える仲間が」
静かに続けられた言葉は、夜の冷たい空気の中で、胸に響く。
「一人で抱え込んではいけませんよ、ルティー。信頼できる仲間を……軍の者でなくても構わないのです。信の置ける友人はいますか?」
柔らかな問いかけに、言葉が詰まる。即答できず、小さく息を呑む。
「それは……」
「責任感が強いのは美点です。ですが、それだけではいつか折れてしまうものです」
顔を上げられない。代わりに、ぽつりと漏らす。
「それ……トラヴァス様にも言われました。柱を作れって……」
「……そうですか。トラヴァスさんもルティーのことを気にしてくださっているんですね」
どこか安堵したような声音。
だから、言えなかった。
ルティーの柱にはなれないと、きっぱり断られたことなど。
「はい。だから平気です。心配しないでくださいね」
顔を上げ、いつものように笑みを作る。きちんとした、崩れない笑顔。
けれど──それを見たルーシエの表情が、ほんの一瞬だけ曇った気がした。




