502.ほん、もの……?
仕事始めの一日は、朝から容赦がなかった。
筆頭大将ともなればなおさらで、その付き人として動くルティーにも、休む間はない。
「これは各将への通達分で、こっちは支援統括隊に、あとで補給隊への申請書類をまとめて……」
抱えきれないほどの書類を両腕に載せ、落とさぬよう細心の注意を払いながら廊下を進む。
その先、談話室の前に、一人の男が立っていた。
「選ぶのは、こちらだ」
低く落とされた言葉は、まるで独り言のように空気に沈み、そのまま彼は振り返ることなく歩き去っていく。
ルティーは思わず足を止め、その背を目で追った。
(トラヴァス様……?)
いつもと変わらぬ無表情。だが、その奥に宿るものが違った。なにかを定めた者の、揺るがない静けさ。
遠ざかる足音が廊下の喧騒に紛れて消えていく。それでも、耳に残った言葉だけは消えない。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてはっと息を呑んだ。
「……いけない」
抱えていた書類の端が、ずるりと滑りかける。慌てて持ち直し、小さく息を吐いた。
(今は、仕事を優先しないと)
そう自分に言い聞かせ、再び歩き出す。だが、胸の奥に引っかかった違和感は消えないままだった。
トラヴァスのあの声音。
低く、静かで──それでいて、どこか決定的な響き。
(選ぶって……なにを?)
なにかが動き出している──その感覚だけが、肌の内側をひやりと撫でた。
言葉の意味は掴めない。だが、ただの気のせいにできない冷たさがあった。
廊下を曲がると、慌ただしく行き交う騎士たちの姿が視界に広がっていく。
ルティーはその違和感を押し込めるように、足早に各隊へと向かっていった。
その日の終業後。
ルティーは一人、宿舎へと続く道を歩いていた。
冬の風は強く、木枯らしが乾いた音を立てて吹き抜けている。
日が落ちきる前の、薄暗い時間帯。街の灯りが少しずつ増え始めた。
白い息が空気に溶ける。
ふと、かつての筆頭大将が脳裏を過ぎった。
太陽のように明るく笑うその姿に、胸がひりつく。
今の王宮は、どこか噛み合っていないように感じる。
誰もが優れた将であるはずなのに。
だからこそ、彼女を思い出してしまったのだろうか。
彼女の部下たちの結束と忠誠が、やたらと懐かしく感じた。
だが、その後──散り散りになった仲間たちからの連絡は、ない。
無意識に唇を噛み締め、足元だけを見つめて歩いてく。
その時、視界の端に、影が差し込んだ。
ひとつではない。ふたつ──動かない。
気づけば、足元はその影に覆われていた。
ルティーははっと顔を上げる。
目の前に立っていたのは、背の高い二人組。
「……う、そ……」
声がかすれる。
似ている、と思った。
そんなはずはないと、すぐに否定する。
五年も音沙汰がなかったというのに。
視界が揺れる。
「ほん、もの……?」
問いかけながら、首を横に振る。
違う。こんな都合のいいこと、あるわけがない。
それでも、目が離せなかった。
一人は妖しい目元を流し。
もう一人は、誰よりも柔和な笑みを浮かべていて──
その仕草も、立ち方も、声をかける前のわずかな間さえも。
忘れたことなんて、一度もなかった。
「お久しぶりです、ルティー」
「綺麗になったな」
その声を聞いた瞬間。
堰が、切れた。
ルティーは迷うことなく、二人の間へ飛び込んでいく。
「ルーシエさん! ジャンさん!」
一瞬だけ、二人の表情がほどけた気がした。
抱きとめられた腕の中で、押し殺していたものが一気に溢れ出す。
「……ほんとに……来てくれた……っ」
震える声が、途切れ途切れにこぼれる。
顔を埋めたまま、必死にしがみつく。
触れているのは、確かなぬくもりだった。
幻じゃない。
夢でもない。
ちゃんと、生きている。
約束は、途切れていなかった。
「頑張っているようですね……私はあなたを誇りに思いますよ」
「アンナの傍にいてくれて、ありがとう……ルティー」
その言葉は、あの頃となにも変わらなくて。
胸の奥が、優しく満ちていく。
「う、ぅ……あああああっ!!」
喉の奥から溢れ出る声を抑えきれなかった。
積み重ねてきた日々。押し込めてきた感情。そのすべてが、今この瞬間に解き放たれていく。
叫ぶように泣くルティーを、二人は何も言わず、ただ静かに包み込んでくれる。
かつてアリシアのもとで働いていた直属の部下。
副官だったルーシエと、諜報員だったジャン。
アリシアの死とともに国を去り、ある人物を探すと言って消えた二人。
その彼らが、今ここにいる。
「ジャンさん……ルーシエさん……っ」
しゃくり上げるたびに、声が途切れる。
「ルティー。こんなところで泣いていては、冷え固まってしまいますよ」
「俺たちはマックスの家に行くつもりなんだ。行こう、ルティー」
当然のように差し出される言葉に、胸の奥が温かく満ちていく。
ルティーは何度も頷き、そのまま二人の後について歩き出した。
王都の街を、今日はどこか夢の中のような感覚で進む。
マックスの家は、一般区に入ったすぐの一軒家だった。ジャンは迷いなく扉へ向かい、ドアノッカーを使うこともなく手をかける。開いた瞬間、カランカランと軽やかなベルが鳴った。
さらに一歩踏み込んだジャンが、玄関脇の呼び鈴を鳴らす。澄んだ高い音色が室内に響いた。
(そういえば、マックスさんの奥さんは……)
ふと思い出し、ルーシエを見上げた。彼はわずかに頷くだけだ。
やがて、奥から女性の足音が近づく。
「はぁい、お待たせし──」
その声が、途中で止まった。
「ジャンさん……!?」
「久しぶり、セリカ」
セリカの目が大きく見開かれ、そのまま潤んでいく。
「入ってください……! すぐにマックスも帰ってくると思いますから!」
促されるままに中へ足を踏み入れると、外の冷気とは別世界のような温もりが迎えてくれた。
「どうぞ、座ってください。今、お茶を淹れますね。ジャンさんには、もちろんミルクティーを」
セリカは落ち着かない足取りで台所へ向かった。その背を見送りながら、ルティーはそっと息を吐く。
隣にはルーシエ。向かいにはジャン。
それだけで、胸がいっぱいになる。
(……本当に、いる)
もう二度と会うことはないかもしれない──そう思っていた。
目の前にいることが、まだ信じられずにいる。
やがてカップの触れ合う音がして、セリカが戻ってきた。
湯気の立つ紅茶が置かれた、その直後。玄関のベルが鳴る。
「ただいま、セリカ!」
帰宅を知らせる大きな声とともに、リンリンと鈴の音が重なる。
セリカが顔をほころばせて迎えに行き、室内の空気が一段と柔らぐ。
「ねぇ、今日はお客さまが来てくれたの」
「客?」
近づいてくる足音。ソファーに座る二人は、嬉しそうに目を細めている。
マックスはどんな顔をするだろうか──そう思うと、ルティーの胸もわずかに高鳴った。
「客って一体──」
扉が開く。
騎士服姿のままのマックスが現れ、その動きがぴたりと止まった。
視線が、ゆっくりと二人へ向けられる。
「お邪魔していますよ、マックス」
「変わり映えしないな」
ルーシエの柔和な声。
ジャンの含みのある笑み。
しばらくの間、立ち尽くすようにして二人を見遣る。
マックスの瞳が、揺れた。
その奥に、堪えきれないものが浮かび上がる。
「……来るなら、連絡くらいしろよな……っ」
なにかを飲み込むようにして。
彼は、袖で目元を拭っていた。




