500.俺が相手してやってもいいんだぜ?
ミカヴェルから託された手紙を、カールは懐に差し入れた。布越しに紙の硬さが伝わる。
「頼んだよ、カール」
「言われなくても渡してやる。俺が預かった以上はな」
ミカヴェルは満足げに目を細める。
「頼もしい限りだ」
「用が済んだなら、もういいだろ」
それ以上、外にいる理由はない。
踵を返すと、背後でくすりと笑う気配がした。耳障りなほどに穏やかな笑いだった。
扉に手をかけ、押し開く。
外の冷気とは打って変わって、室内は暖かい。木の香りと料理の匂いが混じった、懐かしい気配。
そのまま一歩踏み入れる。その瞬間、目に飛び込んできた光景に、思わず足が止まった。
ブラジェイが豪快に笑いながらキースとなにやら話し、ユーリアスは無言ながらもシェリーの話に相槌を打っている。
チャールズとキャロルは、その様子をどこか穏やかな目で見守っていたのだ。
一瞬、理解が遅れる。
先ほどまでの緊張など、そこにはなかった。
「よう、瞬撃。戻ったか」
ブラジェイが気安く手を上げる。まるで旧知の仲にでも向けるような調子だ。
その違和感に、カールのこめかみがぴくりと引きつる。
「……てめぇら、随分とくつろいでんじゃねぇか」
低く押し出すように言う。苛立ちを隠す気はなかった。
隣でミカヴェルが小さく笑う。
「そういう男だ。怒っても無駄だよ、カール」
「っち」
舌打ちとともに視線を外す。
ユーリアスと話していたシェリーがぱっと立ち上がった。
「そうだ! お兄ちゃん、ミカ!」
そのまま駆け寄ってきて、二人の手を引いた。温もりだけが、まっすぐ伝わってくる。
「ね、二人とも来て! 昔みたいに一緒にお話ししよう?」
だがミカはその言葉にわずかに眉を下げ、首を横に振る。ほんの一瞬だけ、表情に影が差した。
「そうしたいのは山々なんだが……色々と予定があってね」
「ミカ、もう帰っちゃうの?」
名残を惜しむ声。ミカヴェルは一瞬だけ視線を落とし、それから柔らかく目を細める。
「会えて嬉しかったよ、シェリー」
優しい声だった。かつてと変わらない、穏やかな響き。
そのまま顔を上げ、家族へと視線を巡らせる。
「聖夜にお騒がせして、申し訳ありませんでした」
丁寧に頭を下げる仕草。チャールズは腕を組んだまま、ゆっくりと頷いた。
「元気にしているなら、それでいい」
短い言葉の奥に、複雑な感情が潜んでいる。
キャロルは変わらぬ優しさで微笑んだ。
「いいアシニアースをね、ミカちゃん」
キースは苦笑混じりに肩をすくめた。
「兄貴と仲良くしてくれよ」
「カールが私を邪険にするんだよ」
軽口の応酬。カールが睨みつけても、ミカヴェルは気にする様子もない。
その裾を、シェリーがきゅっと掴む。
「……また、会える?」
震えを含んだ声。縋るような眼差し。
ミカヴェルは一瞬だけ目を伏せる。そしてすぐに、穏やかな微笑みを作った。
「そうだね。いつか、時勢が許す時には」
そっと頭を撫でる。シェリーは唇を噛みしめながら、それでも頷いた。
ミカヴェルはそのまま踵を返し、躊躇なく外へ向かう。ユーリアスとブラジェイも続いた。
カールも無言で後を追い、背後の視線を切り離すように扉を閉めた。
外に出た途端、冷気が肺に流れ込む。家の温もりは、消えていた。
四人だけの空間。
静けさの中に、緊張がじわりと戻ってくる。
「用事が済んだってことは、瞬撃が俺たちの仲間になったってことか?」
ユーリアスの声が、静寂を割る。カールは即座に睨み返した。
「お前らの仲間になった覚えはねぇ」
「だろうな」
あっさりと流される。その軽さが、余計に神経を逆撫でした。
ミカヴェルがへらりと笑う。
「まぁ今はそれでいいんですよ」
あまりにも軽い言い方だった。その裏になにがあるのか、考えるだけ無駄だとわかっていても、苛立ちは消えない。
ユーリアスが小さく息を吐き出す。
「穏便に終わったならそれでいいさ。一般人に手を掛けたくはなかったからな」
その言葉に嘘はないのだろう。だからといって信用できる相手ではないが。
カジナル軍のトップである二人が護衛として同行しているのは、ミカヴェルを守るために相違ない。
道中でなにが起こるかはわからず、ましてここは魔物の森。人に剣を向けないとはいえ、チャールズもまた腕の立つ剣士である。
敵国に入る以上、大仰な隊は組めない。だからこそ、最小にして最強の駒を連れて来た──そう理解する。
「そんだけの腕前があって、ただの護衛じゃ物足りなかっただろ」
口元を歪める。
内側で燻るものを、そのまま言葉に乗せた。
「俺が相手してやってもいいんだぜ?」
挑発。
ユーリアスの目が、わずかに細まる。
「二度も俺にやられたくせに、よく言う」
「尻尾巻いて逃げてただけじゃねぇの?」
さらに煽ると、ユーリアスの眉間に皺が寄った。
「誰が逃げただ? 俺がお前を逃してやったんだ」
低い声。張り詰めた空気が一気に臨界に近づく。
互いに、無意識に剣の柄へと手が伸びた。
その瞬間──
「おいおい、やめとけお前ら」
ブラジェイが割って入る。その声は軽いのに、妙な圧があった。
カールの視線がそちらへ移る。
「……あんたでもいいんだけどな。百獣王ブラジェイ」
名を強調する。
だがブラジェイは意に介さず、豪快に笑った。
「それこそやめとけ。お前にゃ無理だ」
迷いのない断言。誇張か、ただの事実としての言葉として言っているのか。
「その背の大剣は、ただのお飾りかよ?」
「せっかくのアシニアースだ。わざわざ血で染める必要はねぇだろ」
挑発にも乗らない。
揺らぎがない。
目の前の男は、自分が負ける可能性を微塵も考えていない。
その確信が、肌で伝わってくる。
(──これが、百獣王)
剣を交えてもいないのに、背筋に冷たいものが走った。直感が警鐘を鳴らしている。
カールはゆっくりと柄から手を離した。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
ユーリアスもそれを見て、小さく息を吐き、手を離す。
「……賢明だな」
「うるせ。今日は気分が乗らねぇだけだ」
吐き捨てるように言うと、ユーリアスは肩をすくめた。
ブラジェイはそんなやり取りを横目に、愉快そうに喉の奥で笑う。
「それでいい。無駄に命を捨てる趣味はねぇだろ」
「誰が捨てるっつったよ」
「言ってねぇな。だが、そうなる」
まるで未来を見てきたかのような言葉。背筋にぞくりとした感覚が走る。
それを振り払うように、舌打ちしながら顔を逸らした。その時、ザッと音を立てて一歩踏み出す音が鳴る。
「帰るぞ、ブラジェイ。ユーリアス」
ミカヴェルの声が、場を締めた。先ほどまでの軽さを消した、命令の響き。
ユーリアスは顎を引き、ブラジェイは気楽に手を振った。
「じゃあな、瞬撃。次は戦場で会おうぜ」
「逃げんなよ」
「どっちがだ?」
ケラケラと笑いながらブラジェイは進んでいく。
苛立ちを隠せないまま三人の背中を見送っていると、最後にミカヴェルが振り向いた。
「また、そのうちにね……私の最高傑作」
思わず奥歯を噛み締める。
「二度とその言葉を使うんじゃねぇ」
「それは難しい相談だ」
くすり、と笑う顔。
「似合わねぇ髪型しやがって」
「また伸ばしてあげるよ」
眼鏡の奥で目を細め、ミカヴェルはもう振り返らなかった。
三人は木々の間に溶けるように消えていく。
気配が、完全に途切れた。
残されたのは、静かな森の音だけだ。
カールはしばらくその場に立ち尽くし、ゆっくりと息を吐く。
懐に手を入れ、手紙の存在を確かめた。薄い紙切れのはずなのに、ずしりとした重みが現実を突きつけてくる。
(こいつはトラヴァスに任せる。あいつなら、最善を選んでくれる)
そこで思考を切り分ける。指先が、無意識に剣へと触れた。
「俺のやるべきことは、こっちだ」
低く呟く。
脳裏に浮かぶのは、あの二人の姿。
まだ決着のついていない戦いが、胸の奥に燻っていた。
いずれ、避けられない。
カールは視線を家へ向ける。
暖かな灯りが、窓からこぼれている。
踵を返し、光の中へ戻っていった。




