370.帰りたくないねぇ……
クロエとブラジェイは、ローラン夫妻に礼を言って家を出た。
見上げれば、星々が静かに瞬いている。空気はひんやりと澄み、日中の暖かさはすっかり影を潜めていた。
「ほら、食え」
そう言って、ブラジェイは袋から包まれたサンドウィッチをクロエに差し出す。
指先に伝わる紙の感触と、ほんのり温かい匂いに、クロエはふと心が和むのを感じた。
「マルタ婆さんの手作りだ。めちゃくちゃうめぇからよ」
「あたしに食べ歩きしろってのかい?」
「かまわねぇだろ。こんな夜で、おめぇは町娘の服装だ。誰も気にしやねぇよ」
「ははっ、確かにね」
ブラジェイの言葉に、クロエは素直に行儀悪くかぶりついた。
シャキッと音を立てる野菜たっぷりのサンドウィッチ。咀嚼するたび、夜の静けさの中で音が柔らかく響く。
「美味しいね……」
「おう。あの婆さん、俺のこといつまでも〝ブラちゃん〟とか呼んできやがるがよ。作る飯は本当に最高だぜ」
ブラジェイの豪快な言い草に、クロエはくすくすと笑った。
笑い声は夜空に溶け、二人の距離をさらに近く感じさせる。
「まだ貰ってきてるからよ。いくらでも食え」
「じゃあ……湖でゆっくり食べたいねぇ」
「ぁあ? 湖だぁ??」
クロエの言葉に、ブラジェイは顔を歪ませた。
「いけないかい?」
「湖なんか行って、どうすんだよ。街の灯りも届かねぇし、真っ暗でなんも見えねぇぞ」
「……やっぱりだめかい」
「ダメとは言ってねぇだろうが。離れんなよ」
そう言うやいなや、クロエはブラジェイに手首を引かれた。
思わぬ接触に、胸の奥がドキンと鳴る。肌に伝わる温度と力加減が、心を焦がす。
二人はゆっくりと歩き出した。夜風が頬を撫でる中、足は土を踏み、街の明かりからゆっくりと遠ざかった。
空気は冷たく澄み、静けさは深まっていく。
湖に着くと、二人は岸辺に腰を下ろした。風が吹くたび、湖面に映された月の揺らめきが光る。
クロエは食べかけのサンドウィッチを再び口に運んだ。
その美味しさに、ひとときの平穏を心に灯す。
「やっぱり座って食べる方が落ち着くねぇ」
「食べ歩きできねぇのが、やっぱお嬢様ってとこだな」
「やめとくれよ。お嬢様なら、こうして外で食べたりしないさ。あんたも食べるかい?」
「おう」
そう言ったかと思うと、急にブラジェイの顔が迫った。
ドキンと音を立てた瞬間、手元でシャリッという音がして離れていく。
「ちょっと、誰もあたしのを食べていいとは言ってないよ。まだあるんだろう?」
「おう、そうか。悪ぃ」
ひとつも悪いとは思っていない様子で、ブラジェイは紙袋からサンドウィッチを取り出した。
豪快にかぶりつき、むしゃむしゃと食べる姿を見ると、ふっと笑ってしまう。
「あんたは本当に美味そうに食べるねぇ」
「おめぇはやっぱ、育ちの良さが出てんだよな。そんな喋り方しててもよ」
「そうかい? ブラジェイと大して変わらないつもりだけどね」
「ぶはは! ねぇな、そりゃあ」
クロエの言葉にブラジェイは腹を抱えて笑い、肩を揺らしている。
「笑いすぎだよ、ブラジェイ」
「ひー、ひー、悪ぃ。おめぇはやっぱ、お嬢さんだと思ってよ。無理してんじゃねぇか? 今の演技がよ」
演技と言われ、クロエはきょとんとした。
確かに、今の自分はミカヴェルに言われて振る舞い始めたものだ。
しかし、それ以前の令嬢としての行動もまた、自分らしいとは言えなかった。当時は窮屈で、心のままに生きられなかったのだから。
ミカヴェルのおかげで、憧れの女海賊のように振る舞えるようになった。それを〝自分らしさ〟だと思っていたが、ブラジェイはその姿を〝演技〟だと言う。
「じゃあ、本当のあたしって……どんな女なんだい?」
自分でも答えの出せない問いを、クロエはブラジェイに投げかけた。
サンドウィッチをあっという間に平らげたブラジェイが、ぺろりと指を舐めながらクロエに目を向ける。
「お嬢様なクロエも、豪快に笑うクロエも、五聖として生きるクロエも、全部本当のおめぇだろ」
「ちょっと。あんたが今、演技してるって言ったんじゃないか」
「人間なんてみんな演技してんだろ。おめぇみてぇに色んなもん抱えてる奴は特にな。まぁ無理してなきゃそれでいい」
クロエはその言葉に、しばし黙り込む。
風が、湖面を撫でてゆく。草の先で露がきらめき、遠くでフクロウの声が聞こえた。
「もしあたしが無理してるって言ったら……ブラジェイはどうしてくれるのさ」
「俺の前でだけは、無理させねぇよ。俺にはそれくらいしかできねぇ。あとはまぁ、気張れや」
「まったく、あんたってやつは……」
気張れという言葉に、呆れながらもクロエの頬は緩んだ。
確かに、気張るしかない。
五聖として、アグライアとして、駒として、時に豪胆に、時に慎重に、時に優しく、時に残酷に──演技を使い分けていくしかないのだから。
クロエはサンドウィッチをそっと口に運ぶ。
シャキッという歯応えに、胸の奥がしくしくと痛む。
自分が何者なのか、わからなくなりそうな夜。
すべてが虚構に塗り固められたような、そんな錯覚にさえ襲われる。
湖面に反射する月の光が、二人の影を揺らした。
胸から込み上げる感情を飲み込み、クロエはそっと涙を押し込める。
ふと隣を見ると、ブラジェイは湖に浮かぶ月を、どこか寂しげに見つめていた。
いつも豪快に笑う男の、初めて見る静かな横顔。
「ブラジェイ……?」
声をかけると、彼はハッとしてクロエの方へ顔を向けた。
「おう、食ったなら帰るか」
笑みとともに腰を上げるブラジェイ。
しかし、クロエはその場に座ったまま、まだ動きたくなかった。
「どうした、クロエ」
不思議そうな声が上から落ちる。
クロエはぽそりと、夜の湖の静けさに溶けるように答えた。
「……帰りたくないねぇ……」
世界にたった二人だけだと、勘違いしてしまいそうになる空間。
ここでは演技も虚飾も必要なかった。
「夜の湖になんて、長居するもんじゃねぇ」
ピシャリと言われ、クロエは膝を抱える。
わがままだとわかっていても、ここから離れたくなかった。
「帰りたくねぇんなら、どっか宿でも取ってやるよ。とにかく立て。ここは──ダメだ」
クロエはブラジェイに腕を取られ、引っ張り起こされる。
その瞬間、勢いのまま体が彼に寄りかかり、抱きしめられた。
「ったく、冷たくなってやがるじゃねぇか。早く風呂に入らねぇと風邪引くぜ」
「……そう、だね」
ばくん、ばくんと胸の奥で鼓動が響く。
クロエはブラジェイを見上げ、言葉が自然に溢れる。
「わがまま、言っていいかい」
「おう」
内容を聞く前に即答する潔さに、クロエは胸を熱くした。
「今夜は……ずっとあたしのそばにいてほしいんだよ」
思ったより素直に出た言葉に、自分でも驚いた。
ブラジェイは目を細め、静かに笑みを返す。
「そりゃあわがままなんかじゃねぇよ。俺もそうしてぇと思ってたんだからな」
その一言で、クロエの顔は一気に熱を帯びた。
「行こうぜ」
そう言い、二人は静かに歩き出す。
星空の下、夜の湖を背に、二人の影は重なり合い、近くの一軒の宿へと姿を消していった。




