371.傍にいてって言ったのは、あたしの方さ
宿に着くと、薄暗いランプの光が二人を優しく迎えてくれた。
古い木の香りが、かすかに空気の中に混じっている。
一室を借りると、ブラジェイは静かにクロエの手を取った。
その手の温かさに胸が高鳴るのを感じながら、クロエは導かれるまま部屋へと足を踏み入れる。
床板が軋む音、扉がゆっくりと閉まる音、夜の静けさ──
二人だけの世界に迷い込んだような、くすぐったい空気が流れた。
「風呂、先に入って来い。風邪引くぜ」
「ブラジェイは大丈夫かい?」
「俺ぁ後で大丈夫だ。ま、一緒に入ってもいいんだがな」
「……ばか」
「わはは」
笑うブラジェイの声は、夜の静寂の中で楽しげに響いた。
いつもの調子、いつもの安心感を伴う笑い声。クロエの胸に温かく染み渡る。
「無理強いするつもりはねぇからよ、行ってこい」
そう言われ、クロエは小さく頷きながら浴室へと歩みを進めた。
扉を開けると、石造りの浴室の冷たい空気が体を包み込む。
湯気の立ち上る湯船を見つめると、クロエはふと我に返ってしまった。
(なにやってんだい、あたしは……っ)
頭の中で自分を戒める声が響く。ただの気まぐれなわがままにブラジェイを付き合わせてしまい、クロエは頭を抱えた。
ついさっきまで、ミカヴェル相手に胸を締めつけられるような切なさを抱えていたというのに。今はその傷心のまま、別の温もりを求めてしまっているのだ。
矛盾に満ちた感情に、心の奥がざわつき、混乱した。
それでも、今夜は帰りたくなかった。誰かのぬくもりを一晩中感じていたかった。
その気持ちは疑いようもなく、純粋な欲求だった。
──今夜は……ずっとあたしのそばにいてほしいんだよ。
自分で紡いでしまったその言葉を反芻し、今さらながら顔を熱くさせる。
一緒に風呂にと言われて初めて、ブラジェイがそういう意味で捉えていることに気づいた。
(あたしだって、そんな考えがなかったわけじゃないが……)
クロエはぶるぶると顔を横に降りながら湯船に浸かった。
ミカヴェルの駒として、誰とも結ばれずに生きていくという覚悟があったはずなのに。
揺らいで、人肌を求めてしまった。
己の欲求に気づいてしまったクロエは、肩をすくめるようにして、湯船の中でぎゅっと体を抱きしめた。
一度も誰かに委ねられたることなく二十九歳になった肌が、温もりに飢えるかのように反応している。
ただ一夜の間違いくらいなら、許されそうな気がした。
ブラジェイに、受け入れてさえもらえるなら。
決心を固め、湯船から上がる。
肌から雫が流れ落ち、クロエはそっとローブを纏った。
浴室の扉を開けると、ブラジェイは交代で浴室へと入っていく。
緊張で胸が高鳴る中、クロエは二つ並んだベッドの一つに腰を下ろして待った。
そして、服を着込んで出てきたブラジェイの姿を見て、絶句した。
(なんだ……その気になってたのは、あたしだけってことかい)
そう思うと、胸の奥がぎゅっと痛む。
最初はただ純粋に、一緒に過ごしたかっただけだった。
だと言うのに、今はローブ一枚で期待している自分がなんだか滑稽で、自嘲の笑みが零れる。
「早かったけど、ちゃんと温まったのかい? ブラジェイ」
「おう。俺はそんなに冷えてなかったしな」
ブラジェイは向かいのベッドにどっかりと腰を下ろす。その姿勢は堂々として、しかし目はまっすぐクロエを見据えていた。
ランプの光で、彼の後ろの壁は影が大きく映し出される。
「安宿で悪かったな。もっと街中に行きゃあ良かったんだが」
「そんなの、構わないさ。庁舎のベッドと変わらないよ」
「俺と同じ部屋でよかったか?」
「傍にいてって言ったのは、あたしの方さ」
その言葉に、ブラジェイは立ち上がり、クロエの隣に座り直した。
心臓が、とくん、と胸の奥で鳴る。
「ブラジェイ……あんたって男は、よくわからないね。どういうつもりであたしなんかに付き合ってくれてるのさ。嫌なら、無理やり家に送ってくれればよかったんだよ」
「嫌じゃねぇからここにいるんだろうが」
クロエは思わず息を呑んだ。
ブラジェイの言葉は、簡単に心の奥に届いてしまう。
嫌じゃない──そんな単純な事実に、胸がざわつく。
「……そ、そうかい……」
小さく答えながら、クロエは視線を伏せ、頬を熱くさせた。ローブをぎゅっと握りしめ、緊張と恥ずかしさに震える。
ブラジェイはその様子に気づいたようにふと笑い、軽くクロエの頭をぽんと撫でた。
「ガチガチじゃねぇか。ま、ちょっと話でもしようぜ」
体が固まっていたことを指摘され、思わず頬が熱くなる。
「話って……なにか言いたいことでもあるのかい?」
「仕事の話っていうのも色気がねぇしな。言いたいことあんなら、なんでも言ってくれ」
「なんでもって言われてもねぇ……あたしはティナみたいに、あれこれ話題を提供できないよ」
「ありゃあ、ただうるせぇだけだ。けどまぁ、ああいう中身のない話でかまわねぇよ」
中身のない話をするティナの顔を思い浮かべ、クロエはふふっと小さく笑った。
クロエの微笑みを見て、ブラジェイも自然に笑みを漏らす。
「ティナはほんと、見ているだけで元気をもらえる子だよ」
「元気すぎて困るくれぇだ。朝から晩まで、ずっとしゃべりっぱなしからな」
「ははっ、ティナはそこがいいんじゃないのさ。だからずっと一緒にいられるんだろう?」
クロエの問いに、ブラジェイは肩をすくめて笑う。
「ま、放っとくと勝手に喋って勝手に怒って、勝手に機嫌直す奴だしな。楽なもんだ」
「そういう子が好みなのかい?」
ぽろりと出たその言葉に、クロエはハッとした。
探りを入れるような響きになったが、ブラジェイは気づいた様子もなく、当然のように言った。
「好みかどうかで女を見たことはねぇよ」
淡々としたその答えが、逆にクロエの胸をざわつかせた。
どんな女を好むか──そんなことを聞いたつもりはなかったのに、気にならずにはいられない。
「じゃあ……今までどんな人と付き合ってきたのさ」
思わず口をついて出た質問に、ブラジェイはわずかに視線を落とす。
「聞いてもつまらねぇぞ」
「……聞いてみたいんだ、あんたがどんな恋愛をしてきているのか……嫌なら無理して言わなくてもいいんだよ」
「別にかまわねぇよ。なんか話そうって言い出したのは、俺の方だしな」
そう言って、ブラジェイは背中側のベッドに手を置き、少し天井を見上げるように話し始めた。




