369.そんなことしなくても
ノックをして扉を開けると、薄明かりの中、机に向かってペンを走らせるミカヴェルの姿があった。
インクのかすかな匂いと、紙が擦れる音。外の世界とは隔絶された静寂が、その小さな部屋を支配していた。
「マルタさん、ありがとうございます。食器はそこに──」
そう言いながら顔を上げたミカヴェルは、クロエの姿を見た瞬間、驚いたように目を見開いた。
「おや、クロエだったのか。なにか動きでもあったのかな?」
穏やかに問われ、クロエは小さく首を振った。
「違うよ……ただ、あたしが……ミカヴェルの顔を見たくて来ただけなんだ」
「それはそれは……いただけないねぇ」
苦笑とも溜め息ともつかぬ声。
その柔らかな響きが、クロエの胸をしゅんと萎ませる。
意味もなく訪れていい場所ではないことなど、誰よりも理解していた。それでも、どうしても来ずにはいられなかった。
言い訳のひとつも見つからず、クロエは自分を情けなく思いながら、それでも言葉を発した。
「すまないね……邪魔はしないよ。少しだけでいいんだ。横で見ていても……構わないかい?」
「残念だけど、来客用の椅子がなくてね。そこのベッドでよければ、腰掛けて見ていてくれていい」
「……うん」
まるで少女のような返事をしてしまい、はっとして顔を上げると、ミカヴェルは目を細めて笑っていた。
その笑みは柔らかく、けれどなにかを悟っているようでもある。
「笑わないでおくれよ。あたしだって緊張することはあるんだ」
「緊張とはまた……」
「わかってるよ。ミカヴェル相手に緊張する必要なんてないってことくらいはね」
そう言いながらも、胸の奥はきゅっと締めつけられるように痛んだ。
ベッドに腰を下ろすと、古びた木枠がぎしりと鳴る。その音が、やけに耳に残った。
なにかが起こるはずもない。
たとえベッドのある空間で、二人きりだったとしても。
グランディオルとアグライアである以上、主従を越える関係になることなど、あり得ないのだ。
──そうわかっていながらも、二人きりの空間に流れる空気の重さに、クロエは呼吸を浅くした。
そしてミカヴェルの姿をじっと見つめる。
ランプの灯に照らされたミカヴェルの横顔。長い茶色の髪が光を受けて淡く金色に縁取られていた。
その姿を目にするだけで、胸の奥が痛くなる。
クロエは膝の上で手を組み、静かに息を吐く。
──見ているだけでいい。そう思って来たはずなのに、見るだけでは足りなかった。
ほんの少しでいいから、声をかけてほしい。そんなわがままを、心の底で願ってしまう。
けれど、言えない。勝手に来たのは自分なのだから。
なにも言えず、じっと彼を見つめていると、ミカヴェルはそっとペンを置き、クロエの方を振り返った。
「待たせてしまったかな?」
「……え?」
「せっかく来てくれたのだから、話をしないともったいないでしょう」
「いいのかい?」
「もちろん」
ミカヴェルはへらりと笑いながら立ち上がり、クロエの隣に腰を下ろした。
ベッドがぎしりと鳴る。クロエの肩が沈み、息が詰まった。思ったよりも距離が近い。空気がわずかに熱を帯びる。
ミカヴェルは気にも留めない様子で、少し前かがみになり、クロエの顔を覗き込んだ。
「ずいぶん硬い顔だ。昔はもっと豪快に朗らかに笑っていた気がするけどね」
「……ちょっと今は、落ち着かないのさ。こうしてベッドに腰掛けて話すなんて……」
クロエの言葉に、ミカヴェルは小さく喉を鳴らして笑った。
「クロエはこれだけ美人なのだから、男とこうして話すのが初めてだなんて言わないでしょう?」
「からかうんじゃないよ」
唇を尖らせ、クロエは膝の上で手をぎゅっと握る。
その仕草に、ミカヴェルの目がふっと和らいだ。
「からかってなどいないよ。クロエ……私は結婚していいと言ったはずだ。恋愛だって自由だと。なのに君ときたら、独身を貫いている」
「いけなかったかい?」
「だめかと問われれば、そうではないよ。ただ彼に揺れている状態だけは、いただけませんねぇ」
軽く笑いながらも、その瞳は静かに探っていた。
〝彼〟と言われたクロエは、思わず唇を引き結ぶ。その瞬間、ミカヴェルが眼鏡を外した。
長い睫毛の陰から覗く素の瞳──記憶にあるよりも、ずっと鋭く、そしてどこか脆い。
そのまま伸ばされた指先が、クロエの頬をなぞった。
一瞬の触れ合い。
だが、そこに触れた指の熱は、まるで火傷のように肌に残った。
ミカヴェルの顔が近づく。
光に濡れた瞳が、クロエを真っ直ぐに射抜いてくる。
逃げたいのに、体が動かない。
心が、言い訳を探している。
「ミカヴェル……」
「いけませんねぇ、そんな顔をしては。男を欲情させるだけだ」
こつん、と額と額が触れ合った。
湿った吐息が唇の縁を撫で、呼吸が絡まる。
ランプの光が揺れ、影が二人の顔を覆う。
クロエは、息を止めた。
額に伝うぬくもり。ほんのわずかな距離。
言葉を発すれば、唇が触れてしまいそうで。
その狭間に、言葉が落ちて消えた。
目を閉じたら、きっと終わりだ。
そんな気がして、まぶたを下ろすことができなかった。
ミカヴェルの指が、もう一度クロエの頬をなぞる。
まるで壊れものに触れるように、優しく、慎重に。
けれどその優しさの奥に、別の影がある。
それは演技にも似た、習慣的な手つきだった。
彼は、初めてではない。
十七の時、交渉術として身につけたであろうこの技。
おそらく、ストレイア王国で幾度も実践してきたのだ。
でなければ、ストレイア王国の重鎮と繋がり、第二王妃ヒルデから機密を奪えるはずもない。
この男の〝優しさ〟は、戦略の一部なのだ。
「そんなことしなくても、あたしはあなたのものだよ……ミカヴェル」
その言葉と同時に、ミカヴェルの手がぴたりと止まった。
クロエの胸の奥が、悲しみに濡れる。
ミカヴェルにとってこれは、自分の思い通りに操るための手段に過ぎない。そう思うと、心の奥がぎりぎりと軋んだ。
交渉術など駆使しなくても、クロエは彼の駒として生きる覚悟を持っている。
その忠誠が届いていないことが、痛かった。彼に信じてもらえないことが、なによりもつらかった。
だが、その痛みを顔に出すことなどしない。
誰よりも苦しいのは、ミカヴェル自身だと知っていたから。
「……君を誰よりも信頼しているよ、クロエ」
静かにそう言うと、ミカヴェルはクロエから離れていく。
(信頼……本当に? なら、どうして今……)
クロエの胸に生じた疑問は、彼が立ち上がることで打ち消された。ミカヴェルは眼鏡をかけ直し、へらりと笑う。
「いけませんねぇ……私としたことが、焦ってしまった」
「……どういう意味だい?」
クロエが眉を顰めると、ミカヴェルは視線を逸らしてその眼鏡を光に反射させる。
「言葉通りの意味だよ。私は思った以上に、君と再会できたことが嬉しかったらしい」
ミカヴェルは困ったように、しかしどこか愉快そうに笑った。
ケラケラと響くその声に、クロエはどこまでが本心で、どこからが演技なのか、わからなくなる。
それが彼の強さであり、同時に一番の残酷さでもあった。
「さぁ、もう戻るといい。誰か護衛を待たせているでしょう?」
「……また、来てもいいかい?」
その問いに、ミカヴェルはうっすらと笑みを返す。
「もちろん。仕事の話なら、いつでも歓迎するよ」
たったそれだけの言葉が、刃のように胸に刺さった。
クロエは目を伏せる。
用もなく訪れることは、彼を危険に晒す行為に他ならない。
自分の感情など、最も無意味なものだと、理性が冷たく囁いた。
クロエは悲しみを振り切るように立ち上がる。
背筋を伸ばすと、五聖としての顔を取り戻していた。
「あなたの顔を見られて、嬉しかったよ……ミカヴェル」
「私もだ……クロエ。その服、似合っているよ」
そう言われて、胸はきゅうっと鳴ってしまう。
それがたとえ、クロエを自分の思い通りにさせるための彼の手管だったとしても。
クロエは悲しくて、嬉しくて──そしてミカヴェルを憐れに思った。
扉を開け、階段を上がる。
上階の揺れる灯りの中、ブラジェイが無言で待っていた。
唇が震え、クロエがそっと唇を噛み締めた瞬間。
ブラジェイは無言でその大きな手をクロエの頭に置いた。
「帰るか」
その一言だけが、優しく落ちた。
なにも問うことなく。
なにも気にしていないように。
クロエは、こくんと頷いた。
言葉にならない想いを、胸の内に宿したまま。




