368.あたしが、会いに行きたいだけなんだよ……
ミカヴェルの身を隠す場所として選ばれたのは、カジナルシティの郊外にある、一見して民家風の農家だった。
そこには、かつてフィデル軍に仕えたローランと、その妻マルタという老夫婦が暮らしている。
しかしその家は昔、軍の隠し物資庫として使われていた秘密の場所。地下には堅牢な作りの部屋がある。
詳しい事情は話せないままにミカヴェルを託すと、彼らは迷わず引き受けてくれた。
ミカヴェルはそこに書物や地図を持ち込み、ひっそりと暮らし始めた。
必要な連絡は最小限で、ミカヴェルからの連絡はローランを通じて軍に知らされ、必要があれば会いにいく程度だ。
どこに敵の諜報の目があるかわからないので、それは慎重に行われていた。
同じカジナルシティにいるというのに、彼に会えることは滅多になかった。
むしろ、近くにいるのに会えないという事実が、クロエの胸を焦がしていく。
顔を思い出すたびに、声を思い出すたびに、あの人がここにいることを確かめたくなる。
──そして、冬が終わり春の息吹が街に満ち始めたある日。
クロエはとうとう、堪えきれなくなった。
執務を終えた夕刻、机に広げた書類を整えると、こっそりと服を着替える。いつものスボン仕様の執務服ではなく、素朴な布地のワンピースに、頭にはつばのある帽子。
鏡の前に立てば、そこには立派な五聖ではなく、どこにでもいる町娘の姿があった。
彼に会いに行くためだけの装いだ。ほんの少し胸を高鳴らせながら、部屋を出た瞬間。
「どこ行くつもりだ、クロエ」
低く、鋭い声が背後から飛んできた。クロエはびくりと肩を震わせ、振り返る。
薄暗い廊下の影の中に、腕を組んで立つブラジェイの姿があった。その表情は、いつもよりもずっと険しい。
「……ちょっと、外の空気を吸いに行くだけよ」
誤魔化すように笑って、帽子のつばを深くかぶる。だが、そんな言い訳は彼には通用しなかった。
「その格好でかよ? 庁舎の外に出るだけなら、わざわざ町娘の服を着る必要ねぇだろうが」
「……」
胸の奥が冷たくなる。
隠しごとを見透かされたような視線に、言葉が出てこない。
「まさかとは思うが──あいつのところか?」
声のトーンが低くなる。その声の底には、怒りよりも警戒が優っていた。
クロエは息を呑みながらも、小さく頷く。
「呼び出しがあったか? ただの日常報告なら、俺が伝えてきてやる」
ブラジェイの提案に、クロエはゆっくりと首を横に振る。
「違うんだ……あたしが、会いに行きたいだけなんだよ……」
町娘の装いのクロエは、普段なら絶対に履かないスカートの裾を、ぎゅっと握りしめた。自分でもこんな姿に気恥ずかしさを覚えながらも、想いを抑えることはできない。
日常報告なら、いつもブラジェイやユーリアス、ティナに任せていた。五聖という立場のクロエが自ら……しかも一人で動くなど、本来はあり得ない。
けれど、それでも今日は──どうしても、彼に会いたかった。
そんな個人的な理由で動くことが許されないのはわかっている。職務を逸脱した軽率な行動だ。
それでも、心は止まらなかった。
俯いたまま、クロエは自分の影を見つめる。
その沈黙を見て取ったブラジェイが、重く息を吐いた。
「なら俺を呼べや」
「……?」
その言葉の意味がわからず、首を傾げながら顔を上げる。
彼は怒っても笑ってもいなかった。ただ、静かにそこに立っている。
「一人で出歩くなって、いつも行ってんだろうが。ほら、行こうぜ」
予想もしなかった言葉に、クロエは目を瞬かせた。
「……怒らないのかい?」
「クロエが行きたいんなら、止めやしねぇよ。怒る意味なんてねぇ。まぁ、一人で行こうとしたことには怒ってるがな」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
責めるよりも先に、支えてくれる。
いつだってブラジェイはそうだった。クロエの自由を奪わずに、守ってくれる。
「いつもすまないね」
「かまわねぇよ。おめぇの立場も気持ちも……俺ぁわかってるつもりだ」
そう言って彼は進み、庁舎の扉を開いた。夜の空気が流れ込み、冷たい風が頬を撫でる。
二人は並んで歩き出した。夜更けの街を抜け、灯の少ない郊外の道へ。
月が霞に滲み、春の風はまだ少し冷たい。遠くで馬の嘶きが響き、空気の匂いに土の湿りが混じる。
「……クロエ」
ふいにブラジェイが口を開いた。
クロエが目の端で隣を見ると、彼はまっすぐ前を向いたまま言った。
「おめぇがあいつを信じてるのは、もうわかってる。だが、もしなんかあったら、すぐ俺に言え。……いいな?」
その言葉に、叱責の色はなかった。
不器用な優しさが滲み、クロエの胸に静かに沁みていく。
「心配性だねぇ……あんたは」
「何度も言ってんだろ。おめぇは無防備過ぎんだよ」
「あたしとあの人の間に、なにかなんてあるわけないんだよ。グランディオル家とアグライア家で交わることは、禁止されてるんだ。だから……あり得ない」
クロエが自分に言い聞かせるように言うと、ブラジェイはわずかに眉を寄せる。
「禁止、ねぇ……」
吐き捨てるように繰り返す声には、どこか反発するような響きがある。
靴底が砂利を踏みしめる音だけが、夜の静寂に溶けていく。
「そんなもん、決めた奴らの都合だろ。お前らがどう思うかなんて、誰にも口出せねぇはずだ」
「ブラジェイ……」
クロエはそっと顔を上げて彼を見つめる。
月明かりに照らされた横顔は、険しさの奥に、どこか切なさを帯びていた。
「あたしには、あんたの考えることがわからないよ」
「そうかぁ?」
「そうだよ……あたしの無防備さを心配してるのかと思いきや、今の言い方、まるであたしとあの人が結ばれるの前提みたいじゃないのさ」
ブラジェイは、口の端をわずかに歪めて笑う。
「そりゃあそう思えるくらい、嬉しそうな顔してたからな。あいつのところまで送ってやるって言った時よ」
クロエは思わず顔を背ける。
頬が熱いが、同時にちくりと胸は痛む。
「そんなことはないよ……あるわけないじゃないか」
「否定するこたぇねぇよ。おめぇの素直な気持ちだろうが。クロエが望んでんなら、俺が邪魔すんのはお門違いってもんだ」
無防備だと心配しながら、望むならばと背中を押す彼の矛盾。
それがわからなくて、クロエは胸の奥がざわついた。
「あんたは一体、私にどうして欲しいのさ」
「……好きにしろ。俺には関係ねぇ」
放り投げるように言い捨てられた言葉が、鋭く胸に刺さる。
クロエはほんの一瞬、息をするのを忘れた。
「そう、だね……あたしはあたしの好きにするさ」
「ああ、そうしろそうしろ。クロエはもっと自分に素直になりゃあいい」
そう言って、ブラジェイはようやく振り返る。
無造作に伸ばした手で、クロエの頭をぐしゃりと掻き混ぜた。
(やっぱり、よくわからない男だね……)
ブラジェイという男は、これだけ長く付き合ってきても、未だに理解できない。
わかろうとすること自体が無駄なのかもしれない。そしてそれが彼の魅力でもあるのだと、クロエは静かに苦笑した。
そうして二人はローランの家に辿り着いた。
老夫婦に迎え入れられると、地下へと続く扉を開ける。
「行ってこい、クロエ。俺ぁここでマルタ婆さんの飯食って待ってるからよ」
「ああ。ありがとう、ブラジェイ」
ランプを手に、クロエは階段の一段目に足をかけた。
灯火が静かに揺れ、薄暗い地下へと光の筋を落とす。
その光に導かれるようにして、クロエはひとり、静かに降りていった。




