367.……もう、戻ってこないかと……っ
クロエは、ブラジェイ、ユーリアス、ティナの三名に、ミカヴェルの捜索と救出を命じた。
その決定を下してからの日々は、果てしなく長く、胸を締めつけるような不安に満ちていた。
そんなある日。
一人、執務室で書類に目を通していたクロエのもとに、ノックの音が響く。
扉が開き、入ってきたのはブラジェイ、ティナ、ユーリアス。そして──
「ミカヴェル……っ」
長年、待ち望んでいたその人が、そこにいた。
視界に飛び込んできたのは、腰まで伸びた茶色の束ね髪。
一瞬、誰かと見間違うほどに変わっていたが、黒縁の眼鏡と、へらりと笑う口元。
その顔は、間違いなくミカヴェルだった。
書類を広げていたクロエは、椅子を鳴らして立ち上がる。
十一年分の想いが一気に胸を突き上げ、喉が震える。
「久しぶりですねぇ、クロエ。五聖執務官とは──私の手の届かないところに行ってしまった」
その言葉に、胸の奥が熱く締めつけられ、視界が滲んだ。
ずっと会いたくて会いたくて、どうしようもなかった人が、今ここにいる。目の前に、息をする姿と笑顔がある。
「なに言ってるんだい……あなたがあたしに、五聖になれって言ったんじゃないか……」
「はは、そうだったねぇ」
クロエの唇は震え、声にかすかな嗚咽が混じる。
彼の顔に、声に、クロエは一気に心を満たしていく。
「クロエなら、なれると信じていたよ」
「……あたしは、いつもミカヴェルに踊らされてばかりだ」
睫毛を伏せ、吐き出すように呟く。溢れるのは怒りではなく、戻ってきてくれた喜びの波。
踊らされても構わない。今、ここにいてくれる──それだけで、心は満たされる。
「クロエの存在なくして、私の策は成り得ない。感謝しているよ……クロエ」
その一言だけで、十一年間の苦労と不安が、まるで雪解けのように消えていった。
ミカヴェルがここにいる。すぐに指示を仰げる。彼の言葉を信じ、行動すれば、間違いなどない——そう思えた瞬間、長く張り詰めていた胸の奥がふっと緩んだ。
しかし彼は、再会の余韻も冷めぬうちに、ティナたちにただ「従っていればいい」と静かに言い放った。
策の全容を語ろうともせず、問い詰められてもただ冷静に笑っていた。
それこそが、ミカヴェルという男の信念なのだと、クロエは今ならわかる。
「この世には、星の数ほど正義がある。だが私の正義はただ一つ。あらゆる手段を用いてでもストレイア王国に打ち勝ち、フィデル国に平和をもたらすことだ。結果が伴わなければ、他の正義に消されることも覚悟の上」
その目は鋭く光り、揺るぎない意思を示していた。虚偽や甘さは微塵もなく、確かに信頼できる軍師の眼光だった。
ブラジェイたちもその眼を見て、彼の実力と覚悟を肌で感じ取ったようだった。
重要な話の前に、ミカヴェルはティナたちを退室させた。執務室にはクロエとミカヴェルの二人だけが残る。
十一年ぶりの再会──心の奥で押さえ込んでいた感情が、今まさに溢れ出そうとしていた。
「待たせたね、クロエ」
「……本当だよ……あたしとザイレンが、どれだけあなたを待っていたと思ってるのさ」
「十一年かな?」
「ばか……簡単に言ってくれんじゃないよ……っ」
喉を詰まらせながら、クロエは涙をこらえる。
ミカヴェルはくすりと笑った。
あの頃と変わらない柔らかな笑みに、胸が締めつけられる。
「これはザイレンにも怒られそうだな」
「あいつは喜ぶだろうさ……伝言だよ。〝お前のいない十一年を、俺たちはずっと待ってた〟って……ミカヴェルが戻ってきたことを知ったら──あいつ、きっと泣くよ」
笑顔を浮かべながらそう言うクロエに、ミカヴェルは目を細める。
その仕草に、十一年前と変わらぬ温もりと安心感があった。
「男に泣かれても、面白くはないなぁ」
「会っておやりよ。すぐにでも使者を送って──」
「それはするな、クロエ」
ぴしゃりと制され、クロエは眉を顰める。
「……なんでだい? ミカヴェル」
「今はまだ、その時じゃない。私はまた、身を隠す必要がある」
「……それ、さっきブラジェイたちにも言ってたね。理由を聞かせておくれよ」
クロエは椅子を勧め、自らも対面に座る。
微かな緊張が、背筋を通り抜け、指先にまで伝わっていく。
「私はストレイア王国で、幾つもの種を蒔いてきた。それが芽吹くには、もう少し時間が必要だ。その間にやりたいことがいくつもある。ミカヴェル・グランディオルの存在が知れ渡れば、動きづらくなるんだよ。だから今は、完全に身を隠す」
「……わかった。安全に身を隠す場所を提供するよ。あたしに任せておくれ」
「さすが五聖、頼りになりますねぇ」
「茶化すんじゃないよ」
クロエの声は震えていたが、それも喜びの証だ。
ミカヴェルは椅子に深く腰を下ろし、柔らかな微笑みを浮かべている。
「懐かしいな。こうしてクロエと会話をするのも」
「あたしの存在なんて、忘れかけてたんじゃないのかい?」
「まさか。誰を忘れようと、君とザイレンだけは忘れたりしないよ」
目を細めるミカヴェルの仕草に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
その笑い方が、優しすぎていけない。あの頃と同じ声でそんなことを言われては、我慢していた感情が溢れ出しそうになる。
「……もう、戻ってこないかと……っ」
思わず零れた本音。唇は震え、手は膝の上でぎゅっと握り込む。
ミカヴェルは少し困った顔で、薄い唇を開けた。
「そんなわけがないでしょう?」
「じゃあ、どうして三年も連絡しなかったんだい!?」
「足がつくことを、極力避けたかったんだよ」
「あたしを舐めんじゃないよ、ミカヴェル!」
声を張り、涙目で迫るクロエ。女海賊のような迫力に、ミカヴェルは思わず息を吐いた。
「さすがにクロエの目は誤魔化せないか」
認めるように微笑む彼に、クロエの胸は痛む。
「……あっちで、大切な人ができたんだろう?」
検討はついていたが、それでも確かめずにはいられなかった。
「ええ。正直、情はあった」
「っ!」
クロエの息が詰まる。敵国の誰かに心を寄せていた──その事実に、悔しさと嫉妬が胸を渦巻く。
「はは……だったら悪かったね……迎えを寄越しちまってさ。余計なことだったろう?」
泣きそうになりながらも、必死に虚勢を張る。
「いいや、いい判断でしたねぇ。おかげで私はここに戻ってくることができた」
目を細めるミカヴェルに、クロエはもう問わずにはいられなかった。
「……あたしを……あたしたちを選んでくれたって……そう信じていいのかい?」
「当然だよ。私はフィデル国の参謀軍師だ。クロエたちを選ぶのは、必然というもの」
「……本当に……?」
「私はザイレンやクロエとの誓いを忘れたことは、一度もないよ」
幼き頃の誓いが、今、再び二人の胸の奥で生き返る。
正義を貫き、この国から争いを消し、守る──その決意は変わらず、揺らぐこともなかった。
クロエは視線を落とし、胸の奥に込み上げる感情をそっと受け止めた。
十一年もの間、感じ続けた不安が今、一気に霧散する。
「……ミカヴェル……やっと、戻ってきてくれた……」
声が震える。頬を伝う涙の温もりに、胸の奥まで満たされる感覚。
ミカヴェルは立ち上がり、ゆっくりとクロエに歩み寄り、手を取る。
あの頃、三人で誓った日の温もりが、確かに蘇る。
「私は参謀軍師として、この国の人々を守る。君とザイレンの存在があれば、誰も無駄に死なせはしない」
クロエはぎゅっと手を握り返す。あの幼い日の誓いを、現実にさせるために。
「……あたしも、約束を守るよ。五聖として、この国を守る。そして、あなたを信じて動くよ」
「それでいい。そのために私はここに戻ってきたんだ」
二人の視線が交わる。言葉にしなくとも、胸の奥で確かに約束は蘇り、揺るぎない絆となって二人を結んでいた。
「……おかえり、ミカヴェル」
その声は震え、吐息のように零れ落ちる。
「ただいま……クロエ」
彼が応えたその瞬間、クロエの心は安心感で包まれていた。




