366.取り返しがつかなくなる前に
そんな複雑な気分でいたある日、ザイレンがクロエの元へとやってきた。
執務室の扉が軽くノックされ、彼の低い声が空気を揺らす。その響きだけで、クロエは胸の奥がぴんと張り詰めた。
いつものように、ミカヴェルからの手紙を届けに来たのかと思った。だが、ザイレンの表情はいつもと違っていた。重い沈黙が、背後の空気を揺らしている。
クロエは彼を応接室へ通し、二人きりで向かい合った。沈黙を破ったのはザイレンだ。
「ミカヴェルの手紙が途絶えてから、三年になるな」
その言葉に、心臓がわずかに跳ねた。
クロエは黙ったまま、懐から一通の手紙を取り出す。いつも肌身離さず持ち歩いている、あの人の最後の便りだ。
数えきれないほど読み返したせいで、折り目の端がわずかに擦れていた。
『森の中は快適だ。
芽吹いた種は、静かに牙を研いでいる。
あと二、三年もすれば、狩人の求める刃となるだろう。
この快適な生活とも、やがて別れねばならない』
三年前、これが最後に届いた手紙だった。
それまではどんなに間が空いても、二年に一度は音信があった。けれど、今回は違う。あまりにも長い沈黙。便りがないのは無事の証──そう言い聞かせようとしても、心は少しずつ冷えていった。
「今のところ、ストレイア王国内でミカヴェルが見つかったという話も聞かねぇが……」
「まさか、病気で動けないとかじゃないだろうね……」
ミカヴェルの姿を思い浮かべる。
あの人が倒れているかもしれないという想像に、胸の奥が冷たくなる。
知らない土地で、ひとり苦しんでいるかもしれない。そう考えるだけで、心臓が痛みを覚えた。
「それならまだマシかもな……一番怖いのは、ミカヴェルがストレイアに情が移ることだ」
ザイレンの低い声が部屋の空気を震わせた。
クロエの胸に鋭い痛みが走り、唇を噛む。
「あたしたちを……捨てるつもりだってことかい……」
言葉にした瞬間、それが現実味を帯びて迫ってくる。涙が込み上げそうになり、視界が揺れた。
「そんなこと、信じたくはないが……あいつがいなくなって十一年だ。人を変えるには十分な月日だと、俺は思う」
「ザイレン! ミカヴェルは、あたしたちの希望だよ!! そんなことあるはずないって、言えないのかい!」
感情が爆ぜるように、クロエは立ち上がった。
燃えるような瞳を向けられて、ザイレンは苦く目を伏せる。
「……悪い。俺だって信じたい気持ちはあるんだ。だが……ミカヴェルは、クロエが五聖になった時ですら、なんの連絡もよこさなかっただろう」
「っ!」
喉が詰まり、言葉が出なかった。
五聖の情報など、ストレイア王国にもすぐ届く。それなのに──祝福の一言も届かなかった。
よくやった、という遠回しの言葉でもいい。それを、ずっと待っていた。
ザイレンと同じように、心のどこかで『その時こそ、ミカヴェルは戻ってくる』と信じていた。
けれど、その願いは叶わなかった。
静まり返った夜のように、ミカヴェルは沈黙を守り続けた。
嫌な予感が、胸の奥で形を持ちはじめる。
「この手紙の文面を見るに、もうミカヴェルは計画の準備を完成させていると見ていい。これ以上は……待たない方がいいと、俺は思う」
ザイレンの言葉は冷静だったが、その響きには警鐘のような切実さがあった。
クロエはしばし黙考し、そして静かに頷く。
「そうだね……取り返しがつかなくなる前に、迎えに行った方がよさそうだ」
「俺が行こうか」
その申し出に、クロエは首を振った。
「いや、あんたはミカヴェルの指示で動くべきだ。ザイレンになにかあれば、ミカヴェルの構想が崩れる恐れがある。ミカヴェルの捜索と救出は、こっちで隊を組んでさせるよ」
「いけるか?」
「任せな。優秀な奴らが揃ってるからね」
「わかった。クロエがそういうなら任せるぞ」
短い言葉の中には、クロエに対する絶対的な信頼がこもっていた。
その響きが心地よくて、クロエは思わず微笑む。
ザイレンもまた、わずかに口元を緩めた。だがその奥に、影のような迷いが見えた。
「……気をつけろよ。お前は昔から、全部を一人で背負いすぎる」
「そう見えるのかい?」
「見えるさ。誰よりもな」
その声音には、優しさと同じくらいの痛みが混じっていた。
クロエは一瞬、胸が熱くなるのを感じながらも、視線をそらす。
「……平気だよ。ミカヴェルが戻ってくれば、全部元通りになる」
クロエは願うように、自分に言い聞かせるように、そう言葉に出す。
ザイレンは、なにも言わなかった。
ただ静かに立ち上がると、扉の前で一度だけ立ち止まった。
「ミカヴェルを……もし見つけたら、伝えてくれ」
「……なにをだい?」
聞き返すと、ザイレンは目だけをクロエに流す。
「〝お前のいない十一年を、俺たちはずっと待ってた〟ってな」
そう言って彼はもう振り返らずに、静かに部屋を後にした。
扉が閉まる音が、やけに重く響く。再び静寂が訪れ、空気が薄く感じられた。
クロエは深く息を吐き、もう一度手紙をそっと撫でた。
三年前の紙は、少し黄ばんで、端がすり切れている。
それでも筆跡に触れるたび、ミカヴェルの声や笑顔が蘇る気がした。
「ミカヴェル……今、どこにいるのさ」
ぽつりとつぶやいた声は、誰にも届かないまま消えていった。
今もストレイア王国にいるのか。
病気なんかしていないのか。
ストレイア民に心を奪われたりしていないのか。
もし見つけられなかったら──色んな不安が頭をよぎっていく。
(会いたい……ミカヴェル、あなたに会いたいよ……っ)
胸の奥がぎゅうっと締めつけられ、息が詰まりそうになる。
恋しい想いが、抑えきれず膨らんでいく。
それを止める術を、クロエは持っていなかった。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈みかけている。
紅に染まった空が、まるで遠く離れた誰かの想いを映しているようで──
クロエの胸の奥に痛みと懐かしさが、そっと深く溶け合っていった。




