364.……っ、誰のせいだい……!
息を乱すブラジェイの顔は、もはや軍人でも護衛でもなく──ひとりの男の顔だった。
月の光が彼の頬を斜めに照らし、その輪郭を際立たせる。熱を帯びた視線が、真っ直ぐクロエに向けられていた。
その眼差しに射抜かれた瞬間、クロエは喉を鳴らし、思わず息を呑んだ。さっきまでのほろ酔いの幸福感が、瞬く間に遠のいていく。
部屋の空気が、まるで嵐の前のように張り詰めていた。
「なに、しようとしてんのさ……」
震え混じりの声。
だがブラジェイは怯むことなく、低く短く吐き出した。
「ガキじゃねぇんだ。わかるだろうが」
ブラジェイの低く重い声は、夜の静かな部屋に深く響き渡る。
その響きがクロエの胸の奥まで届き、思わず身体がこわばった。
手は自然と胸の前で固まり、心は抗おうとするのに、身体は逆らえずに熱を帯びていく。
触れられたくないわけではない。けれど、触れられたら抗えない。
「やめな……こんなこと……」
小さな抗いの言葉とは裏腹に、クロエの鼓動はどんどん速くなる。
ブラジェイは笑わない。ただ、深い暗闇のような瞳でクロエを見下ろしていた。
その真剣な眼差しは、覚悟のようなものを孕んでいる。
「やめる理由、あるか?」
短いその一言が部屋の静寂を裂き、クロエは思わず目を伏せた。
指先が小さく震え、胸を隠すように服を握りしめる。
「あんたが、後悔する」
「しねぇよ」
その即答に、クロエは不覚にも胸の奥がふわりと温かくなった。
情けなくも心は喜んでしまっている。しかし、返事ができない。
いいと言ってしまえば、彼は止まらないだろう。
理性では拒まねばならないとわかっているのに、口から出るのは、ただ吐息と沈黙だけだった。
ブラジェイの手が、ゆっくりとクロエの髪に触れた。
その動きは無骨でありながら、まるで壊れものを扱うような指先。彼はクロエの髪を撫で、頬の輪郭をなぞっていく。
触れたか触れないかというほどの軽い感触なのに、クロエの全身が小さく震えた。
「……っん」
ただ頬に触れられただけで、思いがけない声が漏れ、クロエの顔は燃えるように熱くなる。
その表情を見て、ブラジェイは意地悪くにやりと笑った。
「いい声出すじゃねぇか」
「……っ、誰のせいだい……!」
「まぁ、俺だな」
その自信満々な声と共に、彼の手はさらに下へと滑っていく。
服の布地越しに伝わる指の感触が、徐々に確かなものへと変わっていった。
ぴくんっと、クロエの腰が反応する。
堪えようとした声が喉の奥で震え、どうしても漏れてしまう。
その音に、ブラジェイの呼吸が荒くなった。
彼の喉が上下し、息が熱を帯びてクロエの頬を撫でる。
「……やべぇ、我慢できねぇかもな」
「っ!」
クロエの心臓は、今にも破裂しそうなほど激しく打ち鳴らされていた。
頭の中が真っ白になり、視界の端が霞む。
ブラジェイの腕が伸び、クロエの腰を包み込むようにして支えた。
その手の力は強いのに、どこか優しさがある。
軽く引き寄せられ、クロエの体が自然と傾く。
息が詰まり、視線がぶつかる。
その瞳の中に、自分が映っていた。
逃げ場なんて、どこにもない。
目を硬く閉じると、胸の中でなにかがせり上がってくる。
このまま、流されてもいい──そんな危うい誘惑が、甘く囁く。
けれど。
(ミカヴェル……ッ!)
その名が、稲妻のように頭を駆け抜けた。
たったそれだけで、理性が一気に戻ってくる。
クロエは目を見開き、息を荒げながら、拒むように体をよじった。
「あ……っ、待ちな、ブラジェイっ!」
「おめぇの中に、誰かがいることくれぇわかってんだよ」
ブラジェイは微笑むことなく、ただ目の前のクロエを見下ろす。
その視線に、クロエは抵抗するどころか、体の奥からじんわりと熱が上がるのを感じた。
ブラジェイの手は腰に回ったまま、ゆっくりと揺れる。
その手から逃げようとするほど、クロエの体は自然とブラジェイへと寄せられた。
「ん……ブラジェイ、あんた……」
声が震え、言葉が途切れる。
指先は服の上から背中を撫で、肩を伝い、胸元に触れそうで触れない絶妙な距離にある。
その距離のせいで、想像力がより一層、胸の奥の火を煽った。
「……我慢できると思ってたんだがな」
耳元に届く低い声。そこに、甘く危険な熱が含まれている。息が絡み合う距離で囁かれるたび、胸の鼓動が乱れ、体温が芯から溢れる。
クロエは目を閉じ、唇をぎゅっと噛みしめた。意識では止めようとするが、全身が彼に吸い寄せられる。
「……っ、そ、それ以上……」
しかし拒みきれず、体がわずかに傾く。理性と感情が入り混じり、胸の奥で鼓動が早鐘のように打つ。呼吸は荒くなり、吐くたびに小さな震えが体を走る。
ブラジェイはそのわずかな揺れを逃さず、距離をさらに詰めた。
首筋に近づく息の熱。
クロエの胸はドクドクと音を立て、喉の奥がきゅっと締めつけられる。
「……クロエ」
ブラジェイの囁き。その唇がクロエの首筋を掠めていく。
ほんの一瞬の接触だというのに、ぞくりと背筋になにかが走抜け、クロエの背中は小さく反った。
「……ブラジェイっ……!」
その声は切迫感を伴い、甘く震える。
ブラジェイは片目を細め、微かに笑っていた。どこか満足気ですらある、その表情。
軽く触れるだけの彼の指の動きに、クロエの体は熱を帯び続けた。
「……いい顔するじゃねぇか。我慢しろって方が無理ってもんだぜ」
その言葉に、体は理性と欲望の狭間で熱くなり、心は揺れる。
呼吸は途切れ途切れのまま、瞳は潤みを帯びていた。胸の奥が熱で満たされていく。
しかしブラジェイは自身の体を上げると、そんなクロエを見下ろした。
まっすぐ向けられる瞳は強引さではなく、確かな誠実さと決意が宿る。
「……あとは、お前の気持ち次第ぇだ」
部屋に漂うのは、二人の乱れた呼吸と互いの体温だけ。静かな夜の中で、その間合いに心臓の鼓動が反響する。
クロエはふっと眉を落とした。息を吐きながら、心の中で思わず呟く。
(本当にずるい男だねぇ……)
ここまで体を熱くさせておいて、拒めるわけがない。
けれど、クロエはその優しさを理解していた。ブラジェイは、ここでクロエの気持ちを確かめてくれた。
甘い誘惑と理性の間で揺れる心を、彼は見抜いていたのだ。
溺れてしまいたい衝動はある。熱を分け合えたなら、どれほど心地よく、体も心も満たされるだろう。
けれど──五聖となり、今まで以上に駒として動くことを課せられるであろう自分は、結ばれることでブラジェイが背負う重荷を知っていた。
「ありがとうよ、ブラジェイ……男を知らないあたしに、こんなにまでしてくれてさ」
「関係ねぇよ。おめぇだからしたんだ」
ブラジェイの言葉に揺さぶられるのはいつものことだ。
それでもここで心を許すわけにはいかない。彼自身を守るため、クロエは自分を律する。
「あんたの言った通りさ。あたしの心の中には、別の男がいる」
「俺は気にしねぇよ」
「あたしが気になるんだよ。 ブラジェイの中にも、誰かがいるんだろう? なのに、あたしたちが結ばれるのはおかしな話さ」
「……ま、そう言うと思ったがな」
図星を突かれた彼は、ゆっくりとクロエの上から身を離していく。
「すまないね、ブラジェイ」
クロエの謝罪の言葉で、わずかに肩が落ちたように見えた。
しかしすぐに、彼は低い声を取り戻し、優しさを滲ませて告げた。
「気にすんな。酔ったお前に手ぇ出そうとしたのはこっちだ。俺の方こそ悪かったな」
「はは。あたしも酒には気をつけなきゃいけないねぇ」
クロエが身を起こしながら言うと、ブラジェイの目は細まった。
「俺の前でだけにしとけや」
その言葉に素直に頷くと、部屋にふわりと安心の空気が漂う。ブラジェイはクロエの答えを聞き、満足そうにふっと微笑んだ。
視線が絡まり合った瞬間、彼はすっと真面目な顔に戻り、クロエをまっすぐ見つめる。
「クロエ。おめぇが五聖になったように、俺も軍統官を目指すぜ。その時には俺を頼れよ……遠慮なくな」
揺らぎのないブラジェイの言葉。
彼はわかっていない。今でも十分に、頼りにしているということを。
しかしクロエはそれを声に出さず、頷いた。
「わかった。楽しみにしているよ、ブラジェイ」
ブラジェイはにやりと笑い、扉に向かう。ドアノブに手をかけると、振り返って最後の言葉を残した。
「忘れんなよ、クロエ。俺はいつでも、おめぇの近くにいるからな」
そのまま、おやすみの挨拶もなしに静かに部屋を出ていった。
残されたクロエは、深く熱い息を吐く。体の疼きはまだ収まらない。
部屋に残るのは、かすかに残る酒の匂いと、彼の体温の残り香。
胸の奥が、ずきりと痛む。
ブラジェイの腕の中にいれば、きっと安心し、あたたかさに甘えられたのだろう。
もしあの時、承諾してしまっていたら──
「なに考えてるんだい、あたしは……」
そのぬくもりに甘えてしまったら、後戻りはできない。
自分の決めた道も、ミカヴェルを支えたいと願った想いも、すべて崩れてしまう。
(ブラジェイには……ティナもいるしねぇ)
クロエは苦く笑う。
ティナの視線は、誰かを純粋に慕う目。
まっすぐで、心から一生懸命なその瞳は、自分とは異なる世界にあるように見えた。
(純粋で、まっすぐで、なんにでも一生懸命……あたしとは違う。だから、これでいいんだ)
ブラジェイには、ティナの笑顔が似合う。
自分よりもずっと──それは確信だった。
夜風が窓の隙間から入り込み、オレンジ色の髪を撫でる。
風に溶け込むように、クロエはひとり、静かに呟いた。
「……あたしは、アグライア家の人間だよ。ミカヴェルが迷わず決断できるよう、あたしは駒で在り続ける。そう決めたんだ」
言葉にした瞬間、胸の痛みが少しだけ和らいだ気がした。
それでも、涙のようなものが滲む。
クロエは倒れ込むようにして枕に顔を埋めると、静かに目を閉じた。
──忘れんなよ、クロエ。俺はいつでも、おめぇの近くにいるからな。
その声を反芻するたび、胸を傷ませながら。
クロエの意識はゆっくりと、静かに闇へ沈んでいった。




